第三十七話 残りし者
ヒマリが表紙のページをめくった。
最初の一ページ目。そこには手紙のような書き出しがあった。ヒマリは日本語の文章を、こちらの世界の言葉に直しながら、一字ずつ声に出して読み始めた。
「『この書を手に取った、日本人へ。』」
ルミアが軽く息を呑んだ。
「『私は、五百年前、二人の親友と共にこの世界に……された、をもつもの……である。』」
ヒマリが、ふと、止まった。
「ここって、なんて読むの?」
「召喚……呼び寄せること、それと賢者だな」
「……けんじゃってのは、わたしのスキルと同じ、けんじゃ?」
「この書き方ならそうだろうな」
「ふうん。じゃあ、この人もね、わたしみたいに、施設にいたのかな?」
「時代は違うだろうが、可能性は高い」
「わあ……」
ヒマリは指で次の行をなぞりながら、時折アーシュに読めない漢字と意味を聞きながら読んでいく。
「『魔王を討ち果たすと、呼ばれたときと同じく女神様が現れ、時空の断裂をお開きになった。勇者と聖女として戦い抜いた二人の親友は、それを潜り抜け日本へと帰還した』」
ルミアが机に肘をつきかけて止めた。
「……女神様が、お帰しになられたのですね」
「うん。女神様がね、来てね、断裂を開いてくれたんだって」
ヴィラが少し前に身を乗り出した。
「待て待て。じゃあ、こいつら勝手に来たんじゃなくて、女神様に呼ばれたのか?」
「勝手に来たって……勇者様方が女神様に召喚されたのは聖典に……ああ、申し訳ありません。その箇所は神殿の秘匿事項でした。忘れて下さい」
「そうやってなんでもかんでも隠すから、ヒマリみてえのが苦労すんだろうがよ」
「……そうですね」
ヴィラが、ぼりぼりと頭を掻いた。
「まあ、今はその話はいい。それで、この賢者はなんで残ってんだ? 親友達と一緒に帰らなかったのかよ」
「だよね、続きみよ」
ヒマリがページをめくった。次のページをしばらく黙って読んでいた。読みながら、時々文字に詰まって止まる。
「……『私は、残ることを選んだ。日本には家族がいた。帰れば迎えてくれる者たちがいた』」
静かな声だった。
「『けれど、この世界で私は、つま、を……子を?』」
「妻を娶り、成しただ。結婚をして子どもが出来たという意味だな」
「……『つまを、めとり、子をなした』」
ヒマリは、少しだけ目を伏せてから、続きを読んだ。
「『この世界で妻を娶り、子を成した私は、新たな家族を、失うことはできなかった』」
「『帰りたい、という気持ちが、なかったと言えば、嘘になる……ここなんて読むの』」
「故郷だ」
「あ、こきょう。生まれた場所、だね」
「ああ」
「『しかし、故郷へ帰りたいと思いながらも、妻と子を置いて帰ることは、私にはどうしてもできなかった』」
ルミアが、そっと目を伏せた。
「『私は、片方を選んだ。残ることを選んだ。親友達に家族への言葉を託し、見送ることを選んだ』」
ヒマリは、ゆっくりと、けれど時折、漢字に詰まりながら、ページの終わりまで読んだ。
「『それは正しい選択だったのか、今でも分からない。日本の父母と兄に、自分の口から別れを告げられなかったのは、申し訳なく思う。』」
「『それでも、つまと子と共に過ごしたこの五十年は、私にとって、かけがえのない時間であった。』」
*
ヒマリが、次のページをめくった。
そこからは少し文字の調子が変わっていた。先程までの私的な手記から、次第に論じるような筆致になっている。
「『この覚書を、ここに残す理由を、記しておく。』」
「『勇者……親友たちは、女神様の御業によって無事に日本へと帰還した』」
「『女神様の御業が、常にすべての異世界人に等しく差し伸べられるとは限らない。』」
「『この世界では断裂と呼ばれる空間の歪みが稀に生じる。』」
「『我々を呼び、そして帰した断裂は女神様が開いたものだ。だがこの世界ではごく稀に、異世界へと繋がる自然の断裂も生じる事がある。』」
ヒマリが、ふと顔を上げた。
「……ねえ、わたし、もしかして、それに落ちたの?」
「……可能性は、高いな」
アーシュが短く答えた。ヒマリがこくりと頷いて続きを読んだ。
「『私は女神様の御業を、近くで拝見した。時空が裂け、二つの世界が、繋がる。その仕組みを、目で見て、肌で、感じた。』」
「『けんじゃスキルにより、私は、女神様の……、り、かい……?」
「御業を理解、だな」
「うん。『御業を理解し、その仕組みを、明らかにすることができた。』」
ルミアの目が、わずかに、見開かれた。
「……賢者スキルの力で、女神様のお力を解き明かされたのですか」
「そう、書いてあるよ」
ヒマリが、続きを読み進める。
「『女神様の御業を、人の手で、完全に再現するのは、並大抵の事ではない。机上の理論であって、実現はむずかしいかも知れない』」
「『だが、いつの日か、私と同じように、誤って、この世界に、迷い込む同胞が、現れるかもしれない。』」
「『女神様が、お呼びにならずとも、自然の断裂を通じて、迷い込んでしまった者には、女神様の御業による、帰還の道は、与えられないだろう。』」
ルミアの手が、机の縁を、ゆっくりと、握った。
「『その者を、日本に、帰してやりたい。』」
「『だから、私は、断裂——いや、転移門を人の手で、開くための術を、ここに残す。』」
ヒマリが、ページの終わりまで、読み終えた。
「『これは、迷い込んだ者を、家へと、帰すための術である。』」
「『どうか、この術が、必要とされる時には、間違いなく、その者の手元に、届きますように。』」
ヒマリは、本の上に置いた指を、少しだけ丸めた。
家へ帰すための術。
その言葉だけが、胸の奥に残っていた。




