第三十六話 禁書庫
廊下の奥に古い木の扉があった。
壁も床も神殿の他の場所と同じ白い石で造られているのに、その扉だけは色が違った。深い赤茶色の木材に、黒く焼き付けた紋様がびっしりと刻まれている。取っ手は銀のように見えて、けれど銀ではない別の金属だった。
扉の前まで来てルミアが足を止めた。
「ここです」
「へぇ……思ったより……こう、厳つい雰囲気だな?」
「ええ。あえて、そのようにしているのです。貴方みたいな粗忽者が迷い込んでも入ろうと考えないように」
「なんだよ、それ! ……まあ、確かにこんな扉じゃなかったら、中を見てみようと思うかも知れねえけどよ……」
ルミアは小さく溜息を吐くと、懐から細い鍵を取り出した。古びた、けれどよく手入れされた鍵だった。
「仰々しいのは入口までです。中はただの書庫ですよ」
「ただの、書庫」
「――扱っているものはただごとではありませんけれどね」
鍵が錠前に差し込まれた。かちりと音がした。それから、ルミアは右手で小さく祈りの形を結び、扉の紋様の一点に指先をそっと触れた。紋様の黒がほんの一瞬、淡く光って消えた。
「結界を解きました。入りましょう」
*
扉の内側は、想像していたよりもずっと静かな場所だった。
儀礼的な祭壇もなければ、威圧するような装飾もなかった。天井が高い細長い部屋。壁一面に書架が並び、古い本が整然と収められている。中央に重い樫の机がひとつ。その上に、読書用のランプが一つ灯っていた。
ただ、空気だけは明らかに違った。
古い紙と、古い革と、それから何年も閉ざされていた場所の乾いた匂い。鼻の奥にほんのわずかに花のような香りが差した。マナが部屋そのものに染み込んでいるのだと、アーシュには分かった。
ヒマリが扉をくぐった瞬間、少し立ち止まった。
「……なんか、空気が、しずかだね」
「ええ」
「うるさくしちゃ、だめなところ?」
「いいえ、別にそういう決まりはありません。ただ、こういう場所に来ると自然と声が小さくなりますね」
「……うん、わかる」
ヒマリが声を半分ほど落として、小さく頷いた。
ヴィラも珍しく口を閉じ静かにしていた。腰のあたりで手を軽く組んでいる。自然とそういう姿勢になってしまうらしかった。
アーシュは書架をゆっくりと見回した。ルミアが奥の一角を指さした。
「こちらの棚です」
ルミアが案内したのは、部屋の一番奥にある一段高い段の書架だった。
他の棚より少しだけ装丁の古い本が並んでいた。ルミアが書架の中段から薄い一冊を慎重に抜き出した。机まで運んでランプの光の下にそっと置いた。
革の表紙には、金色で幾つかの文字がかすれて残っていた。
アーシュが少し身を乗り出した。
「……表紙の文字は、普通だな」
「ええ。中身はまったく読めませんけれども」
ヒマリが机に膝立ちで手をつき、本の表紙を覗き込んだ。
表紙の文字を目で追っていく。
「えっと……『まおう、とう、ばつしゃ……き、かん、の、きろく……』」
たどたどしく、読み上げる。けれど、途中でぴたりと止まった。
「……『きかん』って、なに?」
「元いた場所に帰る、という意味です」
「あ、そっか」
ヒマリが、ふんふんと頷いた。
アーシュは少しの間、ヒマリの横顔を見ていた。
森を出てから毎日の旅の中でこちらの世界の文字は教えてきた。読める文字は増えた。けれど、まだ十歳の子だ。難しい単語にぶつかるとこうして詰まる。
それを、無理に分かったふりをせず、素直に「なに?」と聞ける程度にはこの子は変わった。
(……成長している)
アーシュは内心でそう思った。
ルミアが一度息を整えた。
「……では、中を見てみましょう。アーシュさん、ヒマリちゃん、よろしいですか」
「ああ」
「うん」
ルミアがゆっくりと表紙を開いた。
*
薄い、淡い黄色の紙が現れた。そこには細く、しっかりとした字で文字が並んでいた。
ルミアとヴィラはしばらくそのページを、じっと見ていた。そして、二人とも同じ顔をした。
「……やっぱり、読めませんわね」
「だなぁ」
「アーシュさん、ヒマリちゃん、いかがですか」
アーシュが机の上の本に視線を落とした。一瞬、目が止まった。
「……読めるな」
「え、本当に?」
「ああ。これは日本語だ」
ヒマリも顔を本に近づけた。
「ほんとだ。ひらがなと、漢字……しってる字だよ」
部屋に数秒の沈黙が落ちた。
ルミアがゆっくりと自分の額に片手を当てた。ヴィラがぽかんと口を開けた。それからヴィラはルミアの方を見た。ルミアはヴィラを見返した。
二人の目が合った。
「……おい、ルミア」
「……はい、ヴィラ」
「おめえ昨日冗談で言ってたよな」
「はい……」
「日本語で書かれてるんじゃねえか、って」
「……でしたわね」
ルミアが短く息を吐いた。
「……まさか本当にそうだとは」
「……そんなことあるんだなあ」
ヴィラが椅子の背もたれに身を投げ出した。
「神殿ってよ、ちょっと真面目すぎねえか?」
「なんですか突然」
「いやさ、少しばかり冗談でも言ったほうが、こうして正解に辿り着けんじゃね?」
「……た、たまたまですよ」
ヒマリだけが皆の反応の理由をよく分かっていない顔で、本と二人の顔を交互に見ていた。
「あのね」
「はい」
「日本語だったのっておかしい?」
「……いえ。おかしいということはないのです。ただ、私たちが何百年もの間、神聖な文字として扱ってきたものが、その……」
「日本語だったのに、びっくりしたの?」
「ええ、そうですね。びっくりしました」
ルミアがもう一度、息を吐いた。
「……表紙だけはこちらの言葉で書かれていたのは、神殿に『これが賢者が記した記録である』と示し、丁重に保存させる目的があったのでしょうね」
「……中身は次に来る同胞にだけ届くように、か」
ルミアが本の表紙をもう一度、指先でなでた。
「……五百年ですよ、アーシュさん」
「ああ」
「五百年、神殿はこれを守り通しました。けれど――これは神殿への捧げ物では、なかったのですね」
アーシュは少しの間、黙っていた。
「……そういえば、フィネスが言っていたな」
「フィネス……ああ、例のエルフ……その方が何を?」
「ヒマリなら、読めるだろうと言っていた」
「なるほど、異世界から来た賢者と聞いて思い至ったのでしょうね」
ルミアが、ふっと、唇の端を緩めた。
「その方を拒否リストから外しましょう」
「いいのか?」
「ええ。彼が居なくても貴方達は来たのでしょうけれども、導いてくれたのは確かですから」
アーシュが、机の上の本に、もう一度視線を落とした。
「……そうか。喜ぶだろうな」




