第三十五話 賢者の重み
「ヒマリちゃん……ひとつだけ確認させてください」
ルミアが声を静かに整えた。
「なに?」
「ヒマリちゃんが向こうの世界で、『賢者スキル』を持っていることを施設の人たちは知っているんですわよね?」
「……うん。検査で、でたから。先生も、みんなも、しってたよ。でもね、あんまりみんな『けんじゃ』って、言葉は使わなかったの」
「使わなかった?」
「『デュアル』って、呼ばれてたから。スキルが二つあるって意味」
「そういえば、そうおっしゃってましたわね」
「二つあるのはね、珍しいんだって。だから、特別に、訓練するって、他の子よりも厳しくされてたんだ」
ルミアが一度深く息を吐いた。
それから、ゆっくりと自分の額を指で押さえた。
「……どうした、ルミア」
「いえ」
「話せるなら話せ」
「……話さないほうがいいかもしれません」
「構わない」
ルミアが少しだけ間を置いた。
それから、ヒマリを見た。
見て、一度目を閉じた。
「……ヒマリちゃん」
「はい」
「あなたが持っている賢者というスキルは、デュアル以上に希少で貴重なものです」
ヒマリがきょとんとした顔をした。
「こちらの世界でいう賢者とは、固有称号を指します」
「……こゆうしょうごう?」
「ひとつの時代に、ひとりだけ現れると伝承されている英雄の一人です。先日ヴィラが言っていましたけれど、かつてはこの世界にも賢者がいたのです」
「魔王を倒した人、だよね?」
「ええ。魔王期、つまり、五百年ほど前の大きな戦の時、勇者様と共に戦った御方、彼がこの世界に伝わる賢者です」
「……ごひゃくねん?」
「ええ。とっても昔のことです」
ヒマリが少し目を瞬かせた。そして、続けた言葉に場の空気が固まった。
「でもね、日本にはね、わたし以外にも賢者がいるよ?」
ルミアが驚き目を丸くした。
「ほ、他にも賢者がいますの?」
「うん。何人か、賢者スキルを持ってる人がいるって、聞いた。全員、国の特別なしせつにいるって」
「……何人か、わかりますか?」
「わかんない。でも、わたし一人じゃないみたいだった。外国にもいるっていってたし」
ルミアの顔からわずかに血の気が引いた。
「……国が賢者を複数抱えているんですの?」
「たぶん、そうだとおもう」
「その人たちはどんなお仕事をしていますの?」
「探索者だよ。ダンジョンの、すごく、深いとこまで、いくんだって」
「……賢者をダンジョンに? ありえませんわ……」
ルミアがもう一度額を押さえた。
「それは、国の在り方としてあまりにも……」
「なに?」
「いえ。なんでもありませんわ」
ルミアはしばらく目を閉じていた。そして、小さく呟くように言った。
「……賢者様は、神殿が全力で守るべき存在とされていました。魔王期の記録には、賢者様の言葉一つで軍の布陣が変わったとまで書かれています。ルミナリアが、国家を挙げて守っていたのが賢者様ですのに……」
ヴィラが椅子の上で少し姿勢を崩した。話の内容がだんだんと難しくなっていく。
「その、唯一無二とされてきた存在が、向こうではダンジョン攻略の道具として扱われている……ヒマリちゃんのような小さな子まで……」
ルミアが頭を振った。信じがたいという顔だった。
手をきつく握りしめ、膝の上で小さく震わせた。
アーシュが静かに言った。
「……ルミア、深く考えすぎるな」
「考えずにはいられません」
「今、考えてもどうにかなるものではない」
「ええ……そうですね」
ルミアがゆっくりと息を吐いた。
「……失礼しました。少し情報が重くて」
「ああ」
「アーシュ、貴方がいた日本はこうではなかったのですか?」
「ああ、違うな……」
アーシュは自分の前世の記憶を一度頭の中でさらった。
ダンジョンはなかった。スキルもなかった。子どもを戦いの道具に育てるための訓練所も存在しなかった。
ただ、ごく普通の平和な日本だった。
(……俺の死後に世界が変貌したのか、並行世界なのか……どちらかはわからないが、あまり帰りたい世界だとは思えないな……)
アーシュはそう思ったが、言葉にはしなかった。
*
ルミアがしばらく俯いていた。 頭を抱えるとまではいかないが、指でこめかみの辺りを軽く押さえていた。
と、隣で。
カクンと、小さな音がした。
ルミアが視線を横にずらした。
ヴィラの頭が傾いていた。首が寝息と共にふわりと前に落ちる。
一度戻りまた、落ちる。
「……ヴィラ」
「……ん?」
「……」
「……おう、起きてる。起きてるぞ」
ヴィラが背筋を伸ばした。瞼が半分降りていた。
「……どこまで聞いていましたか?」
「……ん? ……こゆうしょうごう……のとこまでは……」
「話の序盤ですね」
「……嘘だろ?」
「嘘ではありません」
ヴィラが両手で頬をぴたぴたと叩いた。
「悪い。話がよ、だんだん難しい方に行きやがるから、頭が追いつかなくなった」
「別に責めてはいませんよ」
「責めてる顔してんじゃねえか!」
「気のせいですわ」
ヒマリが少しだけ口元を緩めた。
ヴィラがそれに気づいてふい、とそっぽを向いた。
しばらくヴィラは黙っていた。それから、むずかしそうな顔でうなり始めた。
「……半分くれえしか、話を聞いてなかったがよ」
「ええ、存じてます」
「チッ……向こうの国はよ、ヒマリを利用するために育成してたんだろ?」
「ええ……」
「ってことはよお……」
ヴィラが首を傾げた。
「ヒマリは……もう、あっちに帰らねえ方がいいんじゃねえの?」
ルミアがじっとヴィラを見た。アーシュもヴィラを見た。
ヒマリはぱちぱちと瞬きをした。
ヴィラは何気ない世間話のような顔でそれを言った。整理のつかない自分の言葉で、ようやくひとつの結論にたどり着いたという表情だった。
ルミアが深く息を吐いた。
「まあ、色々飲み込むと、私も同じ意見です」
「だろ?」
「色々飲み込んだ上で、ですけれど」
「だってよ、 あっちに帰っても、良いこと何もねえじゃんか」
「……私もそのとおりだとは思います」
ルミアが額をゆっくりと押さえた。
「ですが」
ゆっくりと顔を上げて。
「それを決めるのは私たちではありません」
ヴィラが口を尖らせた。
「そりゃあそうだけどよ」
「昨日、私はヒマリちゃんに言いました。時が来たら、後悔しないように選びなさい、と」
「ああ」
「選ぶのは、ヒマリちゃんです」
ヴィラが、頬を、ぽりぽり、と、掻いた。
「……そりゃ、そうか」
「そうです」
「でもよ」
「でも、なんですか」
「……俺は、ヒマリを帰さない方に票入れるぞ」
「……」
「だってよ、あの話聞いてさ、帰そうなんて思えねえよ」
ヴィラが不機嫌そうな顔で言った。それは、怒りでも、憤りでもなかった。ただ子どもを案じている時の大人の顔だった。
ヒマリがヴィラを見ていた。じっと、長く見ていた。
それからごく小さな声で、
「……ありがとう、ヴィラさん」
と、言った。
ヴィラが耳の先をわずかに赤くした。
「……なんでお礼なんてすんだよ」
「ヴィラさんが、わたしのこと考えてくれてるの、わかったから」
「……そうかよ!」
ヒマリが、くすり、と笑った。
*
風が中庭の低木を揺らした。小さな小鳥が一羽塀の上に止まってこちらを見下ろし、すぐにどこかへ飛び去った。
ルミアが組んでいた指をほどいた。
「……長くなってしまいましたね」
「ああ」
「ヒマリちゃん、大丈夫ですか? 少し、疲れてしまったのでは」
「……ううん、だいじょうぶ」
ヒマリが小さく首を横に振った。
「……あのね、ルミアさん」
「はい」
「……わたしの、お話、きいてくれて、ありがとう」
「いいえ」
「わたしね、日本のこと、だれかに、話したのは、はじめてだったの」
ルミアの目がわずかに揺れた。
「……そう、ですか」
「うん。話したら、すこしだけね、むねのなかが、かるくなった」
「そうですか」
「……話せて、よかった」
ルミアがヒマリの手をもう一度握った。
そして短く、
「……こちらこそ」
と、だけ言った。
ベンチから立ち上がる時ヴィラが伸びをした。
「あーあ、寝足りねえな」
「昨夜は熟睡したとおっしゃってたじゃないですか」
「昼寝の話だよ」
「……昼寝……ああ、話についていけずに寝落ちした事をいってるのですか」
「しょうがねえだろ、ドラグニルの民はあの手の話に弱いんだからよ」
「貴方のお父様に同じ事を言えますか?」
「うっ……頼むから黙っててくれ。今日はもう寝ないからよ」
「今日だけじゃなく、いつも寝ないように努力してください」
「努力は……する」
ヒマリがくすくすと笑っていた。
アーシュも少しだけ口元を緩めていた。
――この二人と、またこうして言葉を交わしている。
もう戻れないと思っていた日々が、今、別の形で目の前にあった。
完全に同じではなかった。
けれど、悪くはなかった。
今の気持ちを表す正確な言葉をアーシュはまだ持っていなかった。
けれど、別に構わないと思った。
*
支度ができたと、神官が呼びに来た。
「では行きましょうか」と立ち上がったルミアが先頭に立ち、神殿の奥へと続く廊下を四人で歩いた。
禁書庫へと続く階段はその廊下の最奥にあった。そこにヒマリを帰すひとつの答えがあるのかもしれない。
今日それが分かる。
ヒマリがアーシュの隣をいつもより少しだけゆっくり歩いていた。アーシュも歩幅を、合わせた。
廊下の奥に古い木の扉が見えてきた。
この向こうに、五百年もの間、誰かを待ち続けた伝言が眠っている。
それを受け取る者が、ようやく現れたのかもしれない。




