第三十三話 父と母
翌朝は空気が澄み渡っていた。
宿の窓を開けると、少し風が冷たく感じられた。ヒマリは毛布を頭から被ったまましばらく窓の外を見ていた。
「お空があかるい」
「ああ、今日はよく晴れている」
「いつもより、あおが、うすいね」
「朝の空は、そういうものだ」
「……ふうん」
ヒマリはもぞもぞと毛布の中で体を起こし、それからぽつりと言った。
「……ゆうべはね、よくねむれたよ」
「そうか」
「朝までぐっすり、だった」
「……それはよかった」
アーシュは荷物を整えながらちらりとヒマリを見た。
昨日はたくさん話した。自分の両親のことも、施設のことも、年齢のことも。
夜、毛布にくるまって早くに眠ったのは疲れていたからだろうとアーシュは思っていた。けれど、今朝のヒマリの顔は疲れた子どもの顔ではなかった。
――何か、大きな荷物を下ろした顔。
アーシュには、そう見えた。
「神殿の用意が整うのは三日ほどかかるらしい。今日はどうする」
「お店をね、見に行きたい、かな」
「そうか、ならばそうしよう」
「やった!」
出会った頃と比べたら、ずいぶんと自分を前に出すようになった。
明るい顔でしたくを始めたヒマリを見て、アーシュは胸のうちに暖かさを感じていた。
*
そうして三日が経った。
神殿からの迎えが来たのは朝食を済ませた頃だった。
若い神官が一礼をして「神殿長がお待ちしております」と告げた。
わかったと言って、乗り付けられた馬車に乗り、案内される先は先日と同じ庭の応接室だと思っていたら違った。
案内されたのは、神殿の裏手にある小さな中庭だった。
石の塀に四方を囲まれた、ささやかな空間。中央に古い石のベンチが据えられ、その周りを低木と草花が囲んでいる。先日の庭よりもずっと小さくて、けれど、もっと静かな場所だった。
ルミアがベンチの端に腰を下ろして待っていた。
神殿長の衣ではなかった。白地に淡い空色の帯を合わせた、もう少し軽やかな衣装だった。
ヴィラはベンチの反対側の端でだらりと足を投げ出していた。
「おはようございます」
「……おはよう」
「おはよう、ございます」
「ヒマリちゃん、よく眠れましたか?」
「うん。まくらがね、ふわふわなんだ」
「ふふ、それは何よりですわ」
ルミアが隣の空いた場所をそっと叩いた。ヒマリがちょっとだけアーシュを見上げてから、ルミアの隣にちょこんと座った。アーシュはベンチの向かいに据えられた小さな椅子に腰を下ろした。
風がざわざわと低木の葉を揺らし、どこかで鳥が短く鳴いた。
*
「本日の禁書庫の件なのですが」
ルミアが少しゆっくりとした調子で切り出した。
「行く前に、もう一度きちんと確認しておきたいことがありますの」
「何だ」
「先日、ヒマリちゃんが話してくれたお話ですが、それをもう少し詳しく聞かせてほしいのです」
ヒマリがルミアを見上げた。
「……日本のお話を?」
「ええ。先日、少しだけ伺いましたわね」
「……うん」
「正直に申し上げますと、異世界の方とお話ができる機会は、ほぼ無いと言って良いでしょう」
ルミアが一度言葉を切った。
「禁書庫の入館準備が整うまでで構いません。また、お話を聞かせていただけませんか?」
ヒマリは少しの間、黙っていた。膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。
「……うまく話せない、かも」
「かまいません。ゆっくりと、あなたの言葉で話してくだされば」
「どこから、話せばいいのか、わかんないけど……」
ルミアがゆっくりと頷いた。
「思いつくところから、ぽつりぽつりで構いませんわ」
「……ぽつりぽつり」
「ええ。順番なんてどうでもいいのです」
ヒマリはまた少し黙った。それから小さく息を吐いた。
「ある日ね、ダンジョンが、日本にいっぱい、出来たんだって」
「そうなんですの」
「うん。昔はね、なかったんだって。でも、二十年くらい前から、できはじめたって、教えられた」
「そんな最近のお話でしたのね」
「はじめは、みんな、こわがってたって。でもね、そのうち、中から、お金になるものとか、つよい道具とか、でるようになって……」
「ええ」
「国がね、管理するようになったの。どこに、どれくらいダンジョンがあるか、ぜんぶ、記録して」
「国が管理を」
「うん。で、探索者たちが、中にはいって、たたかうんだ」
ルミアが静かに聞いていた。
アーシュは、ヒマリの言葉の背後で頭の中に地図を引いていた。
ダンジョンは二十年前に出来たらしい。もしかすれば、自分の死後にダンジョンやスキルが現れたのかもしれない。ヒマリがいた日本は、やっぱり自分がいた日本の未来かもしれない。
ただ、それを確かめる術はない。想像することしかできない。だから、それは今は置いておくことにした。
今考えるべきは、ヒマリが語る日本のことだ。
ダンジョンがあり、探索者が潜り、素材や情報を売って金を稼ぐ。
仕組みだけなら、この世界の冒険者組合に似ている。けれど、ヒマリの話す日本では、その入口が違った。
望んで剣を取る者ばかりではない。大人の都合で施設へ送られ、未熟なうちからダンジョンに向かわされる子どもがいるのだ。
そこまで考えて、アーシュの胸の奥に嫌なものが沈んだ。
「わたしのうちは、お父さんも、お母さんも、たんさくしゃじゃ、なかったんだ。
お父さんは先生をしてて、お母さんはお絵かきのお仕事してた」
「そうなんですのね」
「二人がお休みの日があってね、お出かけしたんだ」
「ええ」
「その日ね、近くのダンジョンで、スタンピードが、起きてね」
「スタンピード」
「たくさんの魔物が、いっぺんに、外に出てくるの。ときどき、起きるんだって、教科書に書いてた」
「……ええ、わかりますよ。こちらの世界にもありますから」
「わたしたちね……そこの、近くにいたんだ」
ヒマリの声が少しだけ細くなった。
「お父さんがね、先に、逃げろって言って。お母さんが、わたしを、抱いて、走ったんだ。でもね、おっきな鳥の魔物がね、追いかけてきて……」
ヒマリが膝の上で手を強く組んだ。
「……お母さんね、わたしを抱えて、しゃがんで、魔物から、かばって……お父さんが、もどってきて、わたしのまえに、立って……」
声がそこで止まった。
ルミアがヒマリの小さな手に自分の手をごく軽く重ねた。強くは握らなかった。ただ、そこに手がある、ということを伝えるだけの重ね方だった。
「ゆっくりで、いいですよ」
「……うん」
ヒマリは長く息を吐いた。それから、また話し始めた。
「……探索者の人たちが来てくれて、わたしはたすかった。でも、お父さんも、お母さんも……もう、うごかなかったんだ……」
アーシュは膝の上で拳を握りしめ、指の節がわずかに白くなっていた。
「……お父さんたちはね、わたしをまもるために、死んじゃったんだ。スタンピードはね、起きないようにされてるはずなんだけど、あの時は、予想を、こえて、溢れちゃったんだって。だから、近くに住んでた人も、たくさん、ケガしたし、死んじゃったんだ」
「ご両親は亡くなられていると言っていましたが、スタンピードが原因でしたのね……」
「悪いことが、重なって起きたんだって、大人たちが言ってた。でも、わたしはね、よくわかんなかった」
ヴィラが低い声で一言だけ言った。
「子どもが、わかるわきゃねえだろ……」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
風が低木を揺らし、白い花が一つ、石畳の上に落ちた。
ヒマリは膝の上で組んだ手を見下ろしていた。
その小さな手は、もう震えてはいなかった。




