第三十二話 後悔のない、選択を
窓の外で蝶がまた一羽飛んでいった。
風がカーテンの端をふわりと揺らし、部屋の中に一拍静かな時間が落ちた。
ヒマリが、膝の上で組んでいた指をほどいた。
それからゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、ルミアさん」
「はい、何ですか」
「……きのうね、町でみたの」
「何を見たんですの?」
「お花をね、もって立ってた人たち」
「……ああ」
ルミアが柔らかな眼差しでヒマリをみた。
「墓所、ですか」
「うん……亡くなった人に、わたしはげんきですよって、つたえにきてるんだよって、教えてもらったんだ」
「ええ、そうですわね。墓所とはそういう場所ですわ」
「しんじゃっても、てんごくから、みてくれてるんだよって、いってた」
「ええ」
ヒマリが一度息をついた。それから続けた。
「……わたしも」
声が、少し震えた。
「……お父さんとお母さんの、お墓参りをね、したいんだ」
ルミアがカップを持つ手を止めた。
ヴィラが顔を上げた。
アーシュがヒマリの横顔を見た。
「わたしね、今ね、しあわせなんだ」
ヒマリがもう一度手を組んだ。
「アーシュといっしょで、毎日ごはんがおいしくて。空も広くて……だから、お母さんと、お父さんにつたえたいんだ」
一拍、置いて、
「わたしね、アーシュといっしょに、しあわせに暮らしているよって」
そう、言った。
部屋が静かだった。
噴水の水音だけが遠くで細く立っていた。
ヴィラが一度短く息を吐いた。
それから、ぐいっとカップの中身を飲み干した。
返事の代わりだった。
ルミアがゆっくりと両手を膝の上で重ねた。
「そうですか」
静かな声だった。
「お父様とお母様の所に、お花を捧げに行きたいのですね」
「……うん、日本にある、お墓に行きたい……けど、アーシュとも離れたくない……」
ルミアの目がわずかに細まった。
「つらい思い出もある世界かもしれません。けれど、そこはご両親と過ごした世界で、お二人が眠るお墓のある場所です」
「あっちにも、おもいで、たくさん……あるね……」
ルミアがヒマリを真っ直ぐに見た。
「あちらにも、こちらにも、ヒマリちゃんにとって大切なものがある。だから、どちらを選ぶのかを決めるのは、ヒマリちゃん、あなたです」
「……わたしが」
「ええ。あなたが決めるんです」
ルミアが、少しだけ、間を置いた。
「考える時間はたっぷりあります。自分が最終的にどうしたいのか。どうなりたいのか。どこにいたいのか」
「……うん」
「今は、まだ決めなくてもよいんです。帰る方法が見つかって、その準備ができたとしましょう。そこでヒマリちゃんがやっぱり帰らない、そう言っても誰も怒りません」
「怒られない……の?」
「ええ。けれど、どちらを選んだとしても後悔しないようにしなさい」
ヒマリはしばらくルミアの目を見ていた。それから小さく、けれど、はっきりと頷いた。
「……うん、わかった」
ルミアがゆっくりと息を吐いた。それから、カップに少しだけ残っていた茶を口に含んだ。
ほんのわずかに眉が下がった。ヴィラがその様子を横目で見ていた。
――と、そこで。
「……ふう」
ヴィラが深く息をつき、長椅子にゆったりともたれかかった。
そして頭がゆっくり前に傾き、また戻り……いや、戻らなかった。
「……すー……」
小さな寝息が聞こえた。
ルミアが瞬きをした。
アーシュも瞬きをした。
ヒマリがぽかんと口を開けた。
「……寝てますわ、この子」
ルミアがぼそりと言った。
「……寝ているな」
「大事な話の途中ですのに……」
「ヴィラは難しい話が苦手だ。聞いているうちに眠くなってしまったのだろう」
「……ですわね」
ルミアが深いため息をつき、小さく笑った。
「ヴィラ、ヴィラ……ヴィラ!」
「……ん? うぅ……なんだよぉ……」
「起きなさい」
「……ごめん……もうちょっと……」
「ヴィラ!」
「お、おう!?」
ヴィラがゆっくりと顔を上げた。
目が半分閉じていた。
「いや、待て。寝てねえ。寝てねえぞ」
「寝ていたでしょう」
「寝てねえって。ちょっと目をつむっただけだ」
「同じです」
「違うって……って、どこだここ? あ、ああ……ヒマリの話聞いてたんだったか……」
ヒマリがくすりと小さく笑った。
小さな、本当に小さいけれど、確かに笑い声だった。
ヴィラがそれに気づいてばつが悪そうな顔で頭を掻いた。
「わりぃな、ヒマリ」
「ううん、だいじょうぶ」
「なんかよ、話が、あっちこっち飛ぶもんでよ」
「うん」
「頭がな? ついていかなくてよお」
「うん」
「……おめえ、ちゃんと笑えるんだな」
「え?」
「いや、なんでもねえよ」
ヴィラがそっぽを向いた。
けれど、耳がほんのわずかに赤くなっていた。
ルミアが口元を手の平で隠した。
笑いを堪えていた。
「……ほんと変わりませんね、ヴィラは」
「うるせえ!」
*
ルミアが翌日の禁書庫の調査について簡単に段取りを説明して、アーシュは小さく頷いていた。
ヒマリは聞いているのかいないのかわからないが、また窓辺の方をちらちらと見ていた。
先ほどどこかに飛び去った蝶が戻ってきていた。
話し込む二人に割り込むように、ヴィラが「俺も付き合うからな」と言った。
「禁書庫には誰でも入れるわけではありませんわよ?」
「俺なら入れるだろうがよ。ドラグニルの姫君だぞ!」
「……甚だ遺憾ながらそうですわね……」
「なんでだよ!」
アーシュが少しだけ口元を緩めた。
本人は気づいていないようだった。
*
応接室を出る時、ルミアがヒマリに歩幅を合わせて並んだ。
「ヒマリちゃん」
「なに?」
「今日は、お話をたくさんしてくれてありがとうございました」
「ううん、気にしないで」
「疲れたでしょう?」
「……ちょっとだけ」
「三日後、図書館に行くまで街でのんびりしていてくださいね。そうだ、美味しいお菓子を出すお店をアーシュに教えておきます」
「美味しいお菓子?」
「ええ、とっておきのお店です」
「わあ……ありがとう、ルミアさん」
ヒマリがルミアを見上げた。
「あ…あのね、ルミアさんは、アーシュのともだち、なんだよね」
「ええ」
「……わたしのこと、も、ともだち、に、してくれる?」
ルミアが一瞬目を大きくした。
それから、ふわりと微笑んだ。
「……ええ、もちろんですよ。もうヒマリちゃんはお友達です」
ルミアの声が少しだけ震えた。
けれど、ヒマリは気づいていなかった。
ただ、嬉しそうにこくりと頷き、
「やったあ」
と、両手をあげて喜んでいた。
アーシュはその様子を少し離れた場所から見ていた。
――ヒマリが自分から「友達になって」と、言った。
バウレン村のクレの時も、トバスの時も、言えなかった言葉だった。
クレには「また遊びたい」と言った。トバスには「ありがとう」と言った。どれも、大きな一歩だった。
今日、さらにその先の一歩を踏み出した。
アーシュは何も言わなかった。
ただ、その口角はゆるやかに上がり、とても穏やかな表情を浮かべていた。
*
その夜、宿の部屋でヒマリは毛布にくるまって早くに眠った。今日はたくさん喋ったし、たくさん聞いた。
非常に疲れているはずだったが、寝息はとても穏やかだった。
アーシュは窓辺の椅子に腰を下ろしてランプの火を細く落としていた。
ヒマリを帰す方法、それが見つかりそうなところまで来ていた。
……この子を、帰してやるのが正しい、そう思っていた。
でも今日。ヒマリが、言った。
――わたし、いま、しあわせ、だから。
その一言が、アーシュの耳の奥にまだ残っていた。
アーシュは窓の外を見た。
神殿の尖塔が、月明かりに白く浮かんでいた。どこか遠くで鐘が一度だけ鳴った。
(……どうするのか、決めるのはヒマリだ)
ルミアの言葉を胸の中でもう一度繰り返した。
自分が決めることでは、決めて良い事ではなかった。
還す方法は探す。
けれど、それを使うかどうか、最終的な判断はヒマリが決める。
アーシュはヒマリの寝息を聞きながらしばらく動かなかった。
ランプの火がちろりと揺れた。




