第二十六話 通り過ぎない夜
神殿に行くのは明日にして、今日はもう宿をとって休むことにした。既に日が大分傾いていて、受付の時間に間に合わないだろうと判断したからだ。
宿の主人は、穏やかな中年の男だった。
「お二人ですか?」
「ああ。数日、滞在する事になるが可能か?」
「ええ、大丈夫です。それでしたら、二の奥にある部屋が静かでおすすめですよ」
「そこにしよう」
部屋はあまり広くはなかったが、清潔に手入れがされていて、窓からは街の景色がよく見えるらしい。荷物を置いたヒマリが、さっそく窓辺に立って外を見た。
「白いたてものがいっぱい……きれいだね」
「ああ」
「こんなまちも、あるんだ。世界はひろいんだね」
アーシュは少し黙った。
世界は広い。その言葉を、昔、旅の途中で誰かが笑いながら言っていた気がする。
思い出したようにではなく、思い出させられたように記憶が淡く蘇った。
*
夕食は宿の一階の食堂で取った。
巡礼者らしき客が数組。みな、静かに食事をしていた。
アーシュとヒマリも静かにスープとパンを食べた。ヒマリがふと、顔を上げて言った。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「あしたから、どうするの?」
「朝一番で神殿に行く。紹介状を提出して、図書館の閲覧許可を待つ」
「……どのくらい、かかるの?」
「わからない。数日はかかるだろうと、リュッカが言っていた」
「……ふうん」
ヒマリが少し考えた。
数日、という言葉を頭の中で転がしているようだった。
旅の途中で足を止めることはこれまでもあった。けれど、それは宿を取るためだったり、次の日の出発を待つためだったり、通り過ぎる前提のものばかりだった。
この街では、少しだけ留まる。
そう思うと、ヒマリは不安そうにするでもなく、どこか不思議そうな顔をした。
「じゃあ、そのあいだ、なにするの?」
「街を見るか」
「……いいの?」
「ああ。ただ待つのも退屈だからな」
ヒマリが少し口元を緩めた。
神殿の街には、まだ知らないものがたくさんあった。
白い尖塔も、祈りを捧げる人たちも、小さな聖人像の並ぶ屋台も、ヒマリにとってはどれも初めて見るものばかりだった。
ただ待つだけではない。
明日からの数日にも、何か見つけられるものがあるのだと思うと、胸の奥がほんの少し浮き立った。
「たのしみ」
アーシュは少し黙ってから、
「……そうか」
と、短く答えた。
*
夕食の後、部屋に戻ってからヒマリがベッドの上で膝を抱えて座っていた。
アーシュが荷物の整理をしながら横目で見ると、ヒマリは静かに天井を見ていた。
「どうした」
「……ううん」
「何か、気になることがあるなら、言え」
ヒマリが少し考えてから言った。
「……あしたから、ここで少し暮らすんだよね」
「数日の、ことだがな」
「……うん。でもね、なんか、ひさしぶりだなって、おもって」
「何がだ」
「……旅じゃなくて、ちゃんとひとつのおうちに、いること」
アーシュは手を止めた。
確かにそうだった。
バウレン村は二泊、国境の町は二泊、リュッカの家も一泊。今までずっと、短期間の滞在だけで、すぐに通り過ぎてばかりだった。
だが、この街には数日滞在することになる。
それは、ヒマリにとって旅と暮らしの境目のような経験になるのだろう。
「……なるほどな」
アーシュは短く言った。
「うん」
ヒマリが頷いた。
「……また、アーシュと二人でくらすみたいな気がして……うれしい」
その一言にアーシュの手がほんの一瞬、また止まった。ヒマリはそれを言ってしまってから少し慌てたように、
「あ、でも、へんな意味じゃ、なくて」
と、付け加えた。
「変な意味、とは何だ」
「……わかんない。でも、なんか、ちょっと、恥ずかしかった」
ヒマリが毛布を頭まで引き上げた。アーシュはその様子をしばらく見ていた。
それから何も言わずにまた荷物の整理を続けた。ただ、手を動かしながらアーシュ自身の胸の中でも、何かが「ことり」と小さな音を立てたような気がした。
昨日の宿で鳴った音と同じ種類の音だった。
*
窓の外で神殿の鐘の音がひとつ、遠くで鳴った。夜の祈りの時間なのだろう。
アーシュは荷物の整理を終えて椅子に腰を下ろした。窓の外の闇に、神殿の尖塔が篝火でぼんやりと浮かび上がっている。
明日、あの場所へ行く。
紹介状の宛先は司書長。
リュッカが書いたあの紹介状には、俺の名が記されている。それが司書長に届くということは、神殿内部にアーシュという名が久しぶりに挙がるということだった。
(……ルミアの耳にも届くかもしれないな)
アーシュは窓の外を見た。
五年前、仲間と共に過ごした記憶がほんの少し、かすめた気がした。けれど、それは遠くて、はっきりとは形を成さなかった。
ヒマリが毛布の中ですでに寝息を立て始めていた。アーシュはランプの火を少しだけ細くして、静かにベッドの端に腰を下ろした。




