第二十五話 旧都ルミナス
神殿図書館があるルミナスが見えてきたのは、国境の町を出てから丁度二十日目の昼だった。
街道の先、小高い丘の上に白い尖塔が幾つも並んでいる。日の光を受けて建物全体が淡く光って見えた。大理石か、それに近い石材で造られているのだろう。遠くから見てもその白さは普通の街並みとは明らかに違った。
「……しろいおしろみたい」
ヒマリが立ち止まって見上げた。
「城ではない。あれは神殿だ」
「しんでん」
「女神を祀る、この街の中心にある一番大きな建物だ。この街……ルミナスの中枢のひとつでもある」
「女神さまがいるの?」
「……そう言うことになっている」
「女神さまが……」
ヒマリが少しだけ背筋を伸ばした。
アーシュはそれを横目で見ていたが、何も言わなかった。
*
街に近づくにつれて道は徐々に広くなり、石畳が敷かれるようになった。馬車の数が増えていく。徒歩の巡礼者らしい集団もいて、簡素な白い衣を纏い歌のような祈りを口ずさみながら街へ向かっていた。
ヒマリがその様子を不思議そうに見ていた。
「……みんな、なにを、うたってるの?」
「あれは女神への祈りだ」
「いのり……」
「女神に何かを願うか、感謝するためにしている」
「女神さまにお願い……」
ヒマリが少しだけ目を見開いた。遠いはずの女神という存在が近く感じて妙な気分になっているようだ。
かつてアーシュは女神の存在を信じていなかった。
十五の時、村に現れたルミアという神官は、女神の導きで来たのだと言っていた。けれどアーシュ自身は女神を信じていなかったので、自分を仲間として雇う言い訳に使ってるだけだと思っていた。
あまりにも熱心に勧誘されたため、根負けしてついていくことにしたのだが、神託だとか、滅びの危機だとかはまったく信じていなかった。
だが、世界を滅ぼそうとする邪神は実在したし、それを撃退するに至った黒い空間断裂、それが開いた時、確かに神々しく暖かな気配を感じたのを覚えている。
(あれはやはり女神の力だったのだろうな。ルミアが涙を流して喜んでいたし……)
ふと、そんなことを思いだしていた。
*
街の入り口の門は、国境の町とは全く違う雰囲気だった。
門兵は武装していたが、旅人を詰問するような気配はなく、ただ静かに行き交う人々を見送っていた。
アーシュとヒマリが門を通る時、一人の門兵が軽く会釈をした。
アーシュも短く頷き返す。
ヒマリが少し驚いた顔をした。
「……なにも、きかれなかった」
「ここは、大昔の首都でな、巡礼者が多く来る。見知らぬ顔は、珍しくないのだろう」
「そっか」
ヒマリがほっと息を吐いた。
新しい街に入る時はやはり少し緊張するらしい。
アーシュはそのことを少しだけ微笑ましく思った。
*
街の中は思ったよりも賑やかだった。
ヒマリはアーシュから「神殿が中心の国だ」と聞いていたため、寺の様に静かな場所を想像していたのだが、実際に来てみれば、想像と大きく違っていた。
石畳の大通りには商店と屋台が並び、巡礼者向けの土産物や祈祷に使う燭台、香、聖具のレプリカなどが売られていた。
子どもの声、物売りの呼び声、馬車の車輪の音。ヒマリが歩きながらあちこちに目を向けていた。
「……いろんなもの、うってる」
「ああ、巡礼者がたくさん来るからな」
「そんなに多いの?」
「各国から女神に祈るために来るからな」
「ふうん……」
ヒマリが一軒の屋台の前で立ち止まった。
並んでいたのは小さな木彫りの像だった。優しい表情の女性が両手で光を抱えている像だった。
ヒマリはそれをじっと見ていた。
「……これ、だれ?」
「さあな。女神像とは違うから、この国の聖人かもしれないな」
「せいじん?」
「人々のために女神に祈りを捧げた人だ」
「誰かのためにお祈りを……すごいね、そんな立派な人がいるんだね」
「……そうだな」
その様子を屋台の老婆がニコニコしながら見ていた。ヒマリはハッと気づくと、小さく頭を下げてその場を離れた。
(……誰かのために祈る者がいる、それを初めて知ったのかもしれないな)
施設で育ったヒマリが、誰かが誰かのために女神に祈るという光景をどう受け止めたのか。それはアーシュにも分からなかった。
*
大通りから一本外れた静かな脇道に入ると、ヒマリがふと足を止めた。
「アーシュ」
「どうした」
「……あのひとたち、なにしてるの」
ヒマリの視線の先に、小さな石塔が並んでいた。
膝の高さほどの素朴な石の柱。その手前に花を持った数人の女たちが静かに並んで立っている。誰一人として祈りの声は上げず、ただそれぞれの石塔の前で小さく頭を垂れているだけだった。
花を供え、しばらくそのまま動かずやがて静かに歩き去っていく。
アーシュは少しの間その光景を見ていた。
「墓参りだ」
「はかまいりって?」
「……そうだな」
アーシュが軽く眉を寄せた。こういう時、どう説明すればいいのか未だによくわからない。
と、すぐそばの石塔の前にしゃがんでいた年配の女がヒマリに気づいて顔を上げた。
白い布を頭に巻き手には萎れかけた花をひと束抱えている。皺の深い顔がヒマリを見てふんわりと緩んだ。
「お嬢ちゃん、旅の子かい」
「……うん」
「こういうの見たことがないかねえ」
「……うん、はじめて、みた」
女は石塔に花を添えてから、膝についた土を払って立ち上がった。それから、ヒマリと目の高さを合わせるように、少しだけ屈んだ。
「あれはね、亡くなった人たちにね、私は元気にしていますよって伝えに来ているのさ」
ヒマリが少し目を瞬かせた。
「……しんじゃってる、のに。つたわるの?」
「伝わるよ」
迷いのない声だった。
「お墓から天国に声が届くって言われてるのさ。だからね、お花を持ってきて少しお話をして、元気ですよって顔を見せてあげるんだ」
「……おかおを、みせる」
「そうさ。そうするとね向こうも安心するのさ」
女が、自分の供えた花に目を落とした。
「うちの人はね、もう十年も前に先に逝ってしまってねえ。でも、私はこうしてまだ元気にしてるよって、時々伝えに来てるんだよ。そうするとね、こっちも少し元気になるんだ」
女が穏やかに笑った。
ヒマリはその笑みをじっと見ていた。
返事はしなかった。ただ、膝の前でぎゅっと両手を重ね合わせて小さく頷いた。それが礼のつもりだったのだろう。女もそれ以上は何も言わず、花のない方の手でヒマリの頭を一度だけごく軽く撫でて歩き去っていった。
*
女が去ってからも、ヒマリは石塔の並びをしばらく見ていた。
風が供えられた花をわずかに揺らした。
花びらが一枚、ひらりと地面に落ちた。ヒマリはそれを目で追った。拾おうとはしなかった。ただ、落ちた場所をじっと見ていた。
「……アーシュ」
「何だ」
「……てんごくって、どこに、あるの」
アーシュは少し、黙った。
アーシュ自身、天国というものを信じているわけではないからだ。だから自分が思っている事を、少し言葉を選んでから伝えた。
「……この世界の、どこかにあるとみんなは信じている」
「……みえないの?」
「ああ、見えない」
「……でも、みてくれているの?」
「そう、信じられているな」
ヒマリはそれを聞いてもう一度石塔の方を見た。
「……そっか」
短い返事だった。
けれど、その「そっか」には、今までの「そっか」とは少しだけ違う色があった。納得したのでもなく、流したのでもない。胸のどこかにそっとしまったそんな声だった。
アーシュはヒマリの横顔を一瞬だけ見た。
その横顔がいつもより少しだけ遠かった。何かを考えている。けれど、口にはしない。口にしないことをヒマリは最近少しだけ選べるようになっていた。
――聞くべきか。
アーシュの中で言葉が一度だけ迷った。
けれど結局聞かなかった。
ヒマリが自分で口にする気になったその時に聞けばいい。
そう思った。
「行くか」
「……うん」
ヒマリが石塔の並びにもう一度だけ視線を送ってから歩き出した。
歩き出しても少しの間口数が減っていた。




