第二十四話 焚き火の広場
国境の町を出て、二日が経った頃だった。
街道沿いの景色はゆるやかな丘陵と、小麦畑の広がる農村地帯へと変わっていた。
森の香りはいつの間にか薄れ、風には土の匂いが混じるようになっていた。
「……こっちはにおいが、ちがうよね」
「ああ」
「エルフの森の、においが、すき、だったな」
「そうか」
「でも、こっちも、わるくない」
アーシュは横目でヒマリを見た。”わるくない"という言葉をヒマリが自分から使った。この子は少し前まで「……うん」としか言えなかった。だが、今は自分の感じたことを、自分の言葉で表現している。
それがどれほど大きな変化なのかを、本人は気づいていない。アーシュは何も言わず、また前を向いた。
*
日が傾いてきた頃、街道沿いに小さな村が現れた。
茅葺き屋根の家が十数軒。中心に小さな広場があり、脇には井戸がある。バウレン村よりもさらに小さな素朴な集落だった。
村の入り口で、子どもたちが遊んでいた。
ヒマリの姿を見て一瞬、足を止める。けれど、クレのように勢いよく駆け寄ってくる様子はなかった。ただ、じっとヒマリを見ている。
ヒマリはクレを思い出したのだろう。少しだけ表情が明るくなった。
「……こんにちは」
小さな声で子どもの一人に声をかけた。子どもがびくりと肩を揺らして、けれどおずおずと、
「……こん、にちは」
と、返した。
「旅の方かね」
老人の声がした。
振り返ると、杖を突いた老人が広場の方から歩いてきていた。白い髭を長く伸ばし、目は穏やかだった。
「一晩、泊めて欲しいのだが、宿屋はあるだろうか」
「宿屋はないが納屋を貸してやろう。寝るには困らんだろう」
「助かる」
老人がアーシュとヒマリをじっと見た。それから、小さく頷いて、
「今夜は広場の焚き火を囲む日でな。よかったらあなた方も来るといい」
そう、言った。
*
納屋に荷物を置いてから広場へ戻ると、もう焚き火が大きく焚かれていた。
村人たちが十人ほど集まっている。年寄りも、若い夫婦も、子どもたちも。それぞれが椀を手にして何かを食べていた。
アーシュとヒマリが近づくと、さっき声をかけた老人が手招きをした。
「ほれ、こっちに来なさい。スープはたっぷりあるから遠慮はいらないよ」
木の椀が二つ差し出された。
中には野菜と豆の熱いスープがなみなみと入っていた。湯気が夜の空気の中でふわりと立ち昇った。ヒマリが椀を両手で持って一口啜った。
「……あったかい」
老人が目を細めてヒマリを見た。
「好き嫌いせずちゃんと食べるんだな、いい子だね」
ヒマリが少しだけ、頬を赤くして俯いた。
*
焚き火を囲んで村人たちがそれぞれに話をしていた。
今年の麦の出来、隣村の祭りの話、新しく生まれた子牛のこと。どれも、派手な話ではなかった。
けれど、ヒマリはそれを楽しそうに、じっと聞いていた。
――ふと、広場の端で小さな声がした。
「……お母さん、さむい」
見ると、三歳くらいの女の子が母親の膝の上でしゃくり上げていた。母親が外套を掛け直してやっていたが、女の子はなお、震えていた。
風邪気味、なのかもしれない。ヒマリが、それを見ていた。
しばらく見ていた。
それから、ちらりとアーシュを見上げた。
アーシュは小さく頷いた。
ヒマリが立ち上がり母親の元へ歩いていく。
「……あの」
母親が顔を上げた。
「その子、体が冷え切って、るの。わたしね、あたためる魔法ができるの。つかってあげていい……?」
母親が少し驚いた顔をした。
けれど、ヒマリの少し緊張した、真剣な表情を見て女の子を抱いたまま立ち上がった。
「焚き火があるから平気かと思ったんだけどねえ。確かにこのままじゃ熱が出そうだ。お願いしていいかい?」
「うん、まってて……」
ヒマリが手のひらを女の子に向けた。
目を閉じて、息を、整える。
――手のひらに淡く橙色の光が灯った。
それは炎ではなかった。
もっと優しい暖かさ。水を出す魔法の訓練をしている時に偶然から生まれたじんわりとあたためる魔法だ。
アーシュから「まるでこたつのような暖かさだな」と言われ、こたつ魔法と名付けたのだが、それを聞いたアーシュは複雑な顔をしていた。
こたつ魔法の熱が女の子の背中を温めていく。少しすると頬が少しずつ、赤みを取り戻し、震えが止まった。
「……あったかい」
女の子が小さく呟いた。
「よかった」
ヒマリがほっとした顔をした。それから、手のひらの光をそっと消した。
*
母親がヒマリに深々と頭を下げた。
「ありがとうね、本当に」
「……次の鐘が鳴るくらいまではあったかいままだよ」
「へえ、付与魔法ってやつかい? まだ幼いのにすごいねえ」
「……ししょうが、いいから」
「師匠……あのでっかい兄ちゃんかい?」
「うん……アーシュはね、いいししょう、なんだ」
アーシュは顔を逸らし、少しだけ目を細めた。
ヒマリは今、何をすればいいかを考え、きちんと段階を踏んだ上で自ら行動に移した。ただ魔法を使えば良いと考えず、どの魔法があの子に適切か、どう話を切り出せば警戒されずに受け入れてもらえるかを自分で考えて選んだ。
それは、単なる技術の成長ではなかった。
人と、人の距離を自分で測れるようになったということだ。
(……またひとつ成長したな)
アーシュは、小さく、息を、吐いた。
*
焚き火がさらに大きくなると、村人たちの話がまた盛り上がり始めた。
女の子を抱いた母親が、焚き火の近くでヒマリに色々なことを話していた。子どもが最近よく笑うようになったこと。去年の冬はもっと寒かったこと。
ヒマリは時々頷いて、時々「……そっか」と、小さく返していた。
会話は流暢ではなかった。けれど、ちゃんと続いていた。アーシュは少し離れた場所で酒が入ったカップを傾けながらそれを見ていた。
隣に、先ほどの老人が来た。
「あの子は、あんたの子どもかい?」
「いや、弟子だ」
「そうかい。いい目をしているなと思ってね」
「……そうか」
「大事にしてやるんだよ」
「……ああ」
老人が杖を突きながら焚き火の方へ戻っていった。アーシュはその背中をしばらく見ていた。
――老人の後ろ姿は、じっちゃんの背中に少しだけ似ていた。
*
その夜、納屋で寝る前にヒマリがぽつりと言った。
「……ねえ、アーシュ」
「何だ」
「……きょうの魔法、ちゃんと、できてた?」
「ああ、できていた」
「ほんと?」
「ああ。子ども向けに出力を抑えられていたな。大したものだ」
ヒマリがふう、と、息を吐いた。
「……よかった」
それから、少し間を置いて続けた。
「あの子がね、あったかいっていったとき……うれしかった」
「そうか」
「……これ、旅をつづけたら、もっと、いっぱい、あるかな」
「誰かが、あたたかいと、言ってくれることが、か」
「うん」
アーシュは、少し考えてから答えた。
「あるだろうな。冬場はこたつ魔法がありがたがられるだろう」
ヒマリが、毛布を、首元まで引き上げた。小さく、笑って、目を閉じた。
「……たのしみ、だな」
その呟きは、夢に向かって落ちていく途中の声だった。アーシュは少しの間納屋の天井を見上げていた。




