第二十二話 また来る約束
翌日。
朝食の席で、フィロルが大きな布包みを二つ、どん、と机に置いた。
「自信作よ。もっていって!」
「こんなに、いいのか」
「いいのよ、遠慮しないで」
布包みのひとつには、干し肉がたっぷりと詰まっていた。もうひとつは、木の実を混ぜて焼いた大きなパンが二つ。
ヒマリが両手で受け取って、収納に大事そうにしまった。
「ありがとう、フィロルさん」
「ふふ、いっぱい食べて、大きくなりなさいね」
「うん」
ヒマリが素直に頷くと、フィロルはその様子をじっと見つめた。
それから、何かを堪えきれなくなったように、ふわりと顔を緩ませる。
「はあ、ヒマリちゃん。もう一晩泊まらない?」
その声は冗談めかしていたが、半分は本気だった。
ヒマリが瞬きをした。
リュッカの家は、静かで、あたたかかった。朝食はおいしかったし、フィロルはよく笑ってくれた。リュッカも、アーシュと話す時とは違う顔で、時々ヒマリにも優しく声をかけてくれた。
もう一日ここにいる。
そう考えると、胸の奥が少しだけ、ほっとした。
「……もう一日、いてもいいの?」
「もちろんよ!」
フィロルがぱっと顔を明るくした。
けれど、ヒマリは小さく首を横に振り、その提案を断った。
「でも、ね、神殿に、行かなくちゃだから。やっぱり、行くよ」
「急がないんでしょ? 良いじゃない、一日くらい」
フィロルが少しだけ唇を尖らせる。
それは引き止めというより、名残惜しさから出た言葉だった。
ヒマリは、少し考えた。
一日くらいなら、きっと大きくは変わらない。アーシュも、それならそうするかと言うだろう。
それでも。
「ううん。やろうってね、思ったことは、すぐやらないと、だめなんだ」
ヒマリは、小さな声で、けれどはっきりと言った。
「あとでって、するとね……やりたくなくなっちゃう、かもだから」
フィロルの表情が、ふっと変わった。
からかうような笑顔が消えて、柔らかな驚きだけが残る。
アーシュは、何も言わなかった。
ただ、ヒマリを見ていた。
フィロルが両手を胸の前で握りしめた。
「もーーー! なんて偉い子なの! ねえ、アーシュ! ヒマリちゃん、うちの子にするわ!」
「だめだ」
アーシュは即答した。
あまりに早い返事に、リュッカが小さく吹き出した。
ヒマリはきょとんとして、それから少しだけ笑った。
「わたし、アーシュの弟子だから」
「そうだな」
「弟子なら仕方ないわねえ」
フィロルが残念そうに肩を落としたが、その目は笑っていた。
「じゃあ、次に来た時は、もっとたくさん食べさせるからね」
「……うん。また、くる」
「約束よ」
「うん、やくそく」
ヒマリは、少し名残惜しそうにしながらも、しっかりと頷いた。
その様子をリュッカが少しだけ柔らかな目で見ていた。それから、懐から巻物状に丸められた紙を取り出した。
「アーシュ。これが紹介状だ」
「助かる」
「神殿図書館の司書長宛だ。俺の名前と、里長の印が入っているから断られることはないはずだ」
「……里長の印まで」
「フィロルが義父に頼んでくれたんだ」
アーシュがフィロルを見た。
「困った時は、お互い様、よ」
フィロルが、にこりと笑った。
*
二人が荷物を整え終えると、リュッカが立ち上がった。
「街道まで送るよ」
「いい」
「そう言うなよ」
「せっかくの新婚だろう。家にいろ」
「やめろよ、そういう時期はとっくに終わったんだ」
「……そうか」
「まったく、お前は本当に変わらないな……」
リュッカが呆れたように言い、フィロルが横で笑っていた。
ヒマリが二人を交互に見上げてくすりと笑った。
*
街道に着くと、朝の木漏れ日が優しく差し込み二人を出迎えた。
別れ際、リュッカがアーシュの肩をぽん、と叩いた。
「お前、少し顔が柔らかくなったよな」
「そうか」
「ヒマリちゃんのおかげかな?」
「……分からない」
リュッカが、笑った。
「そこは相変わらずだな。気をつけて行けよ」
「ああ」
「あいつらもお前を探していたからな。会ったら覚悟しておけよ」
「……あ、ああ」
アーシュがわずかに視線を逸らした。
リュッカが、もう一度、笑った。
二人は街道を歩き始めた。
しばらくして、ヒマリが振り返った。
リュッカが、まだそこに立って手を振っていた。
ヒマリが手を振り返した。
その姿が、森の曲がり角の向こうに見えなくなる頃まで、ヒマリは何度か振り返っていた。
「……リュッカさんいい人だったね」
「ああ」
「フィロルさんも」
「ああ」
「……アーシュの友達、みんな、いい人?」
アーシュは少し考えてから答えた。
「そうかもな」
ヒマリが「そっか」と言って、また前を向いて歩き出した。
今朝の森の空気は、少しだけ澄んでいるようにアーシュには感じられた。
エルディアの森は、行きよりも少しだけ明るく感じられた。同じ道のはずなのに、葉の揺れ方が、光の入り方が違って見えた。
アーシュは、それが心の変化のおかげであると分かっていた。
リュッカに会えたし、妻だというフィロルも、好ましい人物だった。そんな二人にヒマリが温かく迎え入れられ、良くしてもらっていた。
ただ、それだけのことで森の空気がこんなにも違って感じられる。
(……俺にもまだ人間らしさが残っていたらしい)
アーシュは、小さく、自嘲した。
隣を歩くヒマリが、木々を見上げながらぽつりと言った。
「……フィロルさん、たのしい人だったね」
「……ああ」
「リュッカさん、タジタジだったね」
「あれが、二人にとっての夫婦の形だ」
「……いいね、ああいうの。かぞくってかんじ」
ヒマリが、小さく、笑った。
その言葉にアーシュは何も返すことはなかった。
ただ、ヒマリの言った「いいね」という言葉が少しだけ胸に残った。この子は人と人の関係をちゃんと見ていた。
見て、好きだと思えるようになった。それを羨ましく思えるようになった。ヒマリは短い間に少しずつ変わっていく。
出会った頃と比べれば大違いだ。
(……いや、変わったのはヒマリだけではないのかもしれないな)
キラキラと差し込む木漏れ日を見つめながら、アーシュは静かにそう思った。




