第二十話 帰る、帰らない
フィネスの家を出た翌日、二人は森の道を歩いていた。
向かう先は、エルディア連邦に入って最初にたどり着く村、エルフの里だ。
そこには、昔、共に旅をしていたハイエルフの家がある。そこで会えればいいが、彼が里に戻っているかはわからない。
もしも居なければ、古老たちに会いに首都のユグドラールまで行くことになる。片道でひと月近くはかかる長い道のりになるが、紹介状のために向かわなくてはならない。
(……古老たちに断られた時は……そのまま図書館に向かうしか無いな)
隣を歩くヒマリは、朝からあまり喋らなかった。
木々の間を抜ける風は冷たく、葉擦れの音だけが静かに続いている。道そのものは昨日までと何も変わらないのに、ヒマリには世界が少しだけ違って見えた。
帰れるかもしれない。
その言葉が、昨日よりも、重かったからだ。
*
昼を過ぎた頃、二人は小さな沢のほとりで足を止めた。
アーシュが革袋から水を出し、ドライフルーツとクッキーを並べる。いつも通りの昼食だった。何も変わらない。変わらないはずなのに、ヒマリはクッキーを持ったまま、しばらく口をつけなかった。
「食べないのか」
アーシュが言った。
「……たべる」
小さく答えて、ヒマリはようやく一口かじった。けれど、噛むのも少し遅い。
沢の水は澄んでいて、陽の光を細かく砕きながら流れていた。ヒマリは、日本でこういう場所に行ったような気がするなと、ぼんやりと考えていた。
父と、母と、お弁当を持って行った……ような。
はっきりとは思い出せない。
思い出そうとして強く頭に浮かぶのは、白い部屋や、白い廊下や、決まった時間に鳴る音ばかりだった。
帰れるかもしれない。
そう聞いた時は、少しだけ安心したはずだった。けれど、一晩寝て起きたら、その言葉の中に、別のものが混ざっている気がした。
帰れる。
帰らなければいけない。
帰りたい……のだろうか。
(……わかんない)
ヒマリはクッキーを持つ手に、少しだけ力を入れた。
帰りたくない、と思ってしまったら駄目な気がした。
元の世界だ。自分が生まれ育った場所だ。戻れるなら、戻るべきなのだろう。
なのに、胸の奥に最初に浮かぶのは、白い部屋ではなかった。
焚き火の匂い。芋のスープの湯気。毛布にくるまったまま食べた朝食。遅くまで起きていても怒られない夜。
そういうものばかりだった。
「……ヒマリ」
名を呼ばれて、ヒマリが顔を上げた。
アーシュが、少し離れた場所からこちらを見ていた。食事を食べ終えたらしく、沢で手を洗ってきたところらしい。
「具合でも悪いのか」
「……ううん」
「そうか」
それだけで、アーシュはそれ以上聞かなかった。
ヒマリは少しだけほっとした。
でも同時に、少しだけ苦しくなった。
言えない自分が悪いのだと思ったからだ。
*
その日の夕方、二人は森の中の開けた場所で野営を決めた。
枯れ枝を集め、火を起こして鍋を掛ける。アーシュがいつも通り手を動かしている間、ヒマリは少し離れた場所で膝を抱えていた。
赤くなり始めた空が、木々の隙間から見えている。
焚き火の匂いがした。
その匂いを吸い込んだ時、ヒマリはまた、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
(……ここに、いたい)
そう思ってしまった。
思った瞬間、それがひどくいけないことのような気がして、ヒマリは膝に顔を埋めた。
ここは優しい場所だ。あたたかくて、怖くない場所。
でも、だからって、元いた場所を捨ててもいい理由にはならないのではないか。
そんなことを考えても、答えは出なかった。
「ヒマリ」
また名を呼ばれる。
振り返ると、アーシュが木の椀を二つ持っていた。今日は豆のスープだった。湯気が細く、夕方の冷えた空気にほどけていく。
「今日は冷える」
「……うん」
ヒマリは立ち上がって、焚き火の向こうへ戻った。
二人で向かい合って座る。
火のぱちぱちという音が、静かに続いている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
沈黙は重くはない。けれど今日は、その静かさの中に、自分の考えが大きく響く気がした。
ヒマリは椀を持ったまま、ぽつりと口を開いた。
「……帰れるって、ほんとうに、思う?」
アーシュはすぐには答えなかった。
火を見つめたまま、少しだけ間を置いてから言う。
「分からない」
飾りのない、いつもの声だった。
「だが、前よりは近づいた」
「……そっか」
「……帰りたい、か?」
ヒマリは答えられなかった。
帰れないのが怖いのか、帰れるのが怖いのか、自分でも分からなかったからだ。
ただ、今はそのどちらも、少しだけ怖かった。
「……帰らないとだめ、なのかな」
やっと、それだけ言えた。
「だめだとは言わないが……」
「帰りたいのか、帰りたくないのかわからないのってだめ?」
「……今、わからなくてもいいんだ」
「わからないままで……いいの?」
「ああ、それでいい」
ヒマリは少しだけ息を吐いた。
分からない、と言ってもよかったことに少しだけ救われた気がした。
焚き火がぱちりと小さく爆ぜた。
ヒマリは湯気の向こうで揺れる火を見つめながら、ぼんやりとこの先の旅のことを考えた。
トバスが話してくれた砂漠を、アーシュと一緒に歩いてみたい。
海で大きな亀を見たい。
地底の街も、いつか見てみたい。
帰るかどうかはまだ分からない。けれど、行ってみたい場所はある。
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。




