黒棘の残響
アウグスが振り抜いた刃は、確かに届いた。
大鎌グリムリーパーの刃が黒い茨を裂き、その奥に立つ女の片脚を断ち切ったのである。
――ザシュッ。
切断された脚が石畳へと落ちる。
「きゃああぁぁッ!!♡」
廃教会に、甲高い悲鳴が響き渡った。
しかし、それは苦痛に満ちた叫びではなかった。
「……あは……あははははッ!!♡」
女は笑っていた。
自らの脚が失われたというのに、まるで愉快な余興でも見せられたかのように。
「…………」
アウグスは大鎌を構え直した。
その眼前で、奇妙な光景が繰り広げられていた。
断ち切られた脚の傷口から、黒い茨が這い出してきたのである。
一本、また一本。
細い茨は互いに絡み合い、骨格を形作るように伸びていく。
やがて、その表面を覆うように肉が生じ、瞬く間に失われた脚を再生させた。
女は何事もなかったかのように、その足で石畳を踏み締める。
「……何なのです、それは一体」
アウグスの声には、僅かな驚愕が滲んでいた。
無論、失われた肉体が再生するという現象そのものに驚いたわけではない。
かつて属素が世界を満たしていた時代、熾の属素を用いた高度な治療術は、重篤な損傷を負った肉体さえ修復することができた。
もっとも、それには相応の技量と力を必要とし、誰もが容易に扱えるものではなかったが。
アウグス自身もまた、裂かれた腕を治療する道を選ばなかっただけである。
あの傷を、自らへの戒めとして残すために。
しかし、今しがた目にしたものは、彼の知る治療術とは根本から異なっていた。
本来ならば、熾の属素が放つ淡い光とともに肉体が修復される。
だが、女の脚から生じたのは光ではない。
忌々しい黒い茨であった。
それも、治療のための詠唱も、力を練るための間もない。
傷ついた瞬間から、既に再生が始まっていたのである。
「……その速さは、一体……」
「うふふ♡ そんなに驚かなくてもよろしいのにぃ」
リオは再生した脚を軽く持ち上げ、楽しげに笑った。
「この程度のこともできないようでは、一国を滅ぼすなんて到底できないでしょう?♡」
「…………」
「それにぃ……」
女の瞳が、妖しく細められる。
「次は、私の番ですから♡」
――ヒュンッ!!
黒い茨が、空気を切り裂いた。
その軌道を目にした瞬間、アウグスの脳裏に二週間前の光景が蘇る。
ハイゼンベルムの夜。
炎に包まれた王都。
そして、自らの腕を無惨に裂いた、あの一撃。
――同じだ。
アウグスは即座に大鎌を引き戻した。
――ガキィィィンッ!!
金属を打ち鳴らすような甲高い音が響き、火花が散った。
「……ッ!!」
茨の一撃を、大鎌の柄で受け止める。
だが、その衝撃は凄まじかった。
足元の石畳に亀裂が走り、老兵の身体が僅かに後方へと押し込まれる。
「……ぐッ」
握り締めた手が痺れる。
肩から背へと鈍い痛みが走り、裂かれた腕の傷が疼いた。
防いだ。
確かに、今度は防いでみせた。
しかし、それだけであった。
かつてならば、受け流した勢いを利用して即座に反撃へと転じられたはずである。
だが、今の身体には、それができない。
「……やはり」
アウグスは小さく息を吐いた。
「この身体では、以前のような立ち振る舞いは難しいようですね……」
その呟きには、僅かな自嘲が混じっていた。
「……あは?」
リオが不思議そうに首を傾げる。
「うふふ……何をおっしゃっているのですかぁ?♡」
女の唇が、三日月のように吊り上がった。
「そのお身体で私の攻撃を防いだのですから、もう少し喜び惚けてもよろしいのでは?♡」
「…………」
「まぁ……」
リオはゆっくりと腕を持ち上げた。
その動きに呼応するように、背後の茨が大きくしなった。
「先ほどのは、ただの愛撫ですが……ねぇッ!!」
――ブォンッ!!
再び、黒い茨が振るわれた。
しかし、先ほどまでとは明らかに異なっていた。
速度は落ちている。
軌道も大きく、避けること自体は難しくない。
だが。
――受ければ、確実に砕かれる。
アウグスは瞬時にそう判断し、後方へと身を投げた。
――ドォンッ!!
凄まじい轟音が廃教会を揺るがした。
茨の一撃は、老兵の背後にあった分厚い石壁へと叩きつけられたのである。
幾年もの風雨に耐え、その姿を保ち続けていた壁が、たった一撃で粉々に砕け散った。
石片が雨のように降り注ぐ。
「……なるほど」
アウグスは体勢を立て直し、静かに息を吐いた。
「まともに受けていれば、骨の幾つかは持っていかれていたでしょうね」
判断は正しかった。
だが、砕け散った壁の向こうへ視線を向けた、その瞬間。
彼の目は、ある異変を捉えた。
「うふ! うふ……ふ……?♡」
リオの顔が、歪んでいた。
それは単なる苦痛の表情ではなかった。
顔の半分は、相変わらず狂気に満ちた笑みを浮かべている。
しかし、もう半分は違った。
何かを堪えるように眉を寄せ、その瞳には、朧げながら悲しみの色さえ滲んでいた。
まるで、一つの身体に二人の人間が存在しているかのように。
「……?」
アウグスは僅かに目を細めた。
だが、その異変について考える暇は与えられなかった。
――ヒュンッ!
壁を砕いた茨から、さらに細い枝が伸びる。
それはアウグスの死角を縫うように走り、脇腹へと迫った。
「不覚ッ!!」
咄嗟に身を捻る。
しかし、完全には避けきれなかった。
鋭い棘が衣服を裂き、脇腹に一筋の傷を刻む。
「……くッ」
幸い、傷は浅い。
数多の戦場を経験してきたアウグスにとっては、かすり傷に等しいものだった。
だが、問題はそこではなかった。
――ズキンッ。
「……ッ!」
裂かれた腕に、激痛が走る。
まるで脇腹の傷に呼応するかのように、あの傷が疼いたのである。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が荒くなる。
十五年という歳月は、老兵の身体から確実に何かを奪っていた。
かつてなら、容易く避けられたであろう攻撃。
それを見切れなかったという事実が、何よりも彼自身に衰えを突きつけていた。
「やっっぱりぃ!! 少し衰えすぎたのではありませんかぁ!!」
リオが甲高い笑い声を上げる。
「ですがぁ……小賢しいのも、また事実♡」
女はゆっくりと両腕を広げた。
「それなら……少しだけ、本当の力をお見せしてあげましょうかぁ? うふふ♡」
その声には、相変わらず耳障りな雑音が混じっていた。
まるで耳の奥を直接掻き回されるような、不快な不協和音。
しかし、アウグスは聞き逃さなかった。
「……力?」
「……あは?♡」
リオが首を傾げる。
「まさかぁ……今までの私が、全力だったとでも?♡」
女の唇が、大きく吊り上がった。
そして。
「――百花葬♡」
その言葉が発せられた瞬間、教会の石畳が激しく震え始めた。
――ゴゴゴゴゴ……!!
地面が裂ける。
床石が次々と持ち上がり、その隙間から無数の黒い茨が噴き出した。
一本、二本。
いや、十、百。
もはや数えることすら叶わない。
茨は互いに絡み合いながら天へと伸び、アウグスを中心に巨大な檻を形成していく。
そして、その先端には深紅の花が咲いていた。
黒い茨と、鮮やかな赤い薔薇。
その光景は、ひと目見れば息を呑むほど美しかった。
だが、アウグスにとっては違う。
ハイゼンベルムからこの王都へ至る道中、彼は幾度となく目にしてきた。
黒い茨に貫かれた亡骸。
血に染まった街道。
そして、死者の傍らで咲き誇る赤い花。
あの光景と、何ら変わらない。
「……そうですか」
アウグスは静かに呟いた。
「これが、あなたの見せたかったものですか」
迫り来る茨。
逃げ場は、既に狭まりつつあった。
だが、老兵は後退しなかった。
大鎌グリムリーパーを握り直し、腰を落とす。
「……ぬぅんッ!!」
――ザンッ!!
鋭い一閃。
大鎌が弧を描き、周囲へ伸びようとしていた茨をまとめて薙ぎ払った。
――バラバラバラッ!!
切断された茨が石畳へと落ちる。
檻が完成するよりも早く、その根元を断ち切ったのである。
「…………え?」
リオの笑みが止まった。
女は、目の前の光景を理解できずにいた。
「……なん、で……?」
これまで、百花葬を正面から破った者はいなかった。
逃げようとした者は捕らえられ、抵抗した者は茨に呑まれた。
そのはずだった。
だというのに。
目の前の老人は、ただ一振りでそれを断ち切った。
「なんでッ!!」
女の声が裏返る。
その表情に浮かんでいたものは、怒りではなかった。
――恐怖。
それまで一度として抱いたことのなかった感情が、彼女の顔を歪ませていた。
「……それでは」
アウグスは静かに口を開いた。
「今度は、私の技をお見せしましょう」
大鎌の柄を握る手に、力が込められる。
「私がかつて、ハイゼンベルムの狂刃と呼ばれた……その所以を」
リオは一歩、後ずさった。
「……な、にを……」
「リオ」
アウグスは、女の名を呼んだ。
「思い出しなさい」
大鎌を背へと回す。
湾曲した刃が、老兵の肩越しに鈍く輝いた。
踏み込む足。
捻られる腰。
そして、全身の力を一瞬に集約する、常人には到底真似のできぬ構え。
それは属素による技ではない。
魔女の異能でもない。
ただ、数え切れぬ戦場を生き抜き、己が肉体を鍛え続けた一人の武人が辿り着いた境地。
「――神技『アンダーワイズ』」
――ブォンッ!!
大鎌が、横一閃に振り抜かれた。
――ブシャァッ!!
黒い茨が断ち切られる。
その刃は、リオへと伸びる茨を裂き、さらに彼女の両肩を掠めた。
「……ッ!!」
肩口に咲いていた二輪の薔薇が、同時に切り裂かれた。
赤黒い花弁が宙を舞う。
リオの身体が、大きくよろめいた。
「……あ、あぁ……?」
女は呆然と自身の肩を見つめる。
その様子を、アウグスは静かに観察していた。
「……やはり」
老兵は大鎌を構え直す。
「それが、あなたの弱点なのでしょう」
彼は見抜いていたのである。
アウグスが攻撃に転じようとするたび、リオは決まって両肩の薔薇を茨で覆っていた。
ほかの部位には無頓着でありながら、あの二輪だけは執拗に守ろうとする。
戦いの最中に見せた、その僅かな不自然さ。
老兵は、それを見逃さなかった。
「……どうしました、リオ」
アウグスが問いかける。
「先ほどまでの威勢は、どこへ行ったのです?」
「……ぁ……」
リオの唇が震えた。
「……あ……あぁ……」
その声には、先ほどまでの甘ったるい響きがなかった。
代わりに聞こえてきたのは。
――ザ……。
「…………?」
――ザザ……ジジ……。
耳障りな雑音。
しかし、それはもはや彼女の言葉に混じる程度のものではなかった。
まるで何かが、彼女の喉の奥で暴れているかのようだった。
「……ア……」
アウグスの眉が動く。
「……今、何と?」
「アウ……グ……」
女の顔が、再び歪む。
片側は狂気に満ちた笑み。
もう片側は、今にも泣き出しそうな表情。
そして。
「……アウグス……さ……」
――バキッ!!
鈍い音が響いた。
リオの首筋から、黒い茨が突き出したのである。
「……ッ!」
アウグスは咄嗟に鎌を構える。
しかし、その茨は彼へ向かってはこなかった。
首筋を這い、頬を伝い、口元を覆っていく。
まるで、何かを口にしようとする女を、無理やり黙らせるかのように。
「……う、ふ……」
リオの身体が震えた。
「うふ……ふふ……」
再び、笑い声が漏れる。
だが。
その瞳からは、一筋の涙が零れ落ちていた。
「…………リオ」
アウグスは静かにその名を呼んだ。
「あなたは……そこにいるのですか」
返事はなかった。
代わりに、教会の床が激しく軋んだ。
――ゴゴゴゴゴ……!!
石畳の隙間から、再び無数の茨が這い出してくる。
壁を伝い、柱を覆い、崩れかけた天井へと伸びていく。
先ほど断ち切ったはずの黒棘が、まるで意思を持つかのように増殖していた。
「……うふふ♡」
リオがゆっくりと顔を上げる。
「いけませんねぇ……アウグス様ぁ……♡」
その声は、先ほどまで以上に歪んでいた。
「人の秘密を……勝手に覗くなんてぇ……♡」
――ジジッ。
「……秘密、ですか」
アウグスは呟いた。
女は不気味に微笑む。
「そうですよぉ……? せっかく、せっかく……」
そこで一度、言葉が途切れた。
「……眠らせて、あげていたのに」
「…………」
アウグスは黙っていた。
しかし、その眼差しには、先ほどまでとは違う鋭さが宿っていた。
「……なるほど」
大鎌を握り直す。
「少しばかり、事情が見えてきました」
「……あは?」
「あなたが、私の知るリオ・グランデではない理由も」
女の笑みが、僅かに引きつった。
「……何を、言って……」
「あなたが何者かは存じません」
アウグスは静かに告げる。
「ですが、随分と長い間……私の従者を弄んでくださったようですね」
――ザザッ!!
リオの身体が、大きく跳ねた。
「……う、ふ……ふふふ……!」
女は両腕を広げる。
その背後で黒い茨が膨れ上がり、巨大な翼のように広がった。
「何を……何を言っているんですかぁ!!♡」
声が裏返る。
「私はリオ・グランデ!! あなたの大切な、大切な従者でしょう!?♡」
「……いいえ」
アウグスは即座に答えた。
「少なくとも、私の知るリオは……そのような笑い方をする女性ではありませんでした」
「…………」
「そして」
老兵は、一歩踏み出す。
「私の名を呼ぶことを、あれほど苦しむはずもありません」
その瞬間。
リオの指先が、かすかに震えた。
「……ザ……」
「……リオ」
アウグスは、もう一度呼びかけた。
「聞こえていますか」
「……ぁ……」
「もし、まだそこにいるのなら」
彼は大鎌をゆっくりと構えた。
「もう少しだけ、耐えていなさい」
女の顔が歪む。
「……う、うぅ……」
そして。
「……来ないで……」
小さな声が漏れた。
アウグスの足が止まる。
「…………」
「……来ないで、ください……」
それは、先ほどまでの不協和音に満ちた声ではなかった。
か細く、震え、今にも消え入りそうな声。
しかし、アウグスには聞き覚えがあった。
十五年前。
まだ幼さを残していた少女が、初めて彼の前に立った日のこと。
剣を握る手には幾つもの傷があり、それでも少女は懸命に背筋を伸ばしていた。
『アウグス様。私も、あなたのような騎士になれるでしょうか』
あの時、自分は何と答えただろう。
確か――。
『私のようになる必要はありませんよ。あなたは、あなた自身の剣を見つけなさい』
……そうだった。
アウグスは静かに目を閉じた。
そして、再び開く。
「……リオ」
女の唇が震えた。
「私は、あなたに剣を教えました」
「……?」
「ですが、教えたのは人を殺める術だけではなかったはずです」
大鎌の刃先が、石畳を擦った。
「……まだ、覚えていますか」
返事はない。
だが、女の瞳から再び涙が零れ落ちた。
「……ならば」
アウグスは、ゆっくりと腰を落とした。
「思い出すまで、付き合いましょう」
――ゴォッ!!
無数の茨が、一斉に襲いかかった。
天井から。
壁から。
そして、足元から。
もはや逃げ場など、どこにもない。
しかし、老兵は退かなかった。
裂かれた腕が疼く。
脇腹の傷から血が滲む。
呼吸は荒く、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
十五年の隠居。
六十余年という歳月。
かつてのようには、もう動けない。
それでも。
「……私は、あなたの師でもあったのですから」
大鎌グリムリーパーを背へと回す。
黒い茨が迫る。
あと五歩。
三歩。
一歩。
「老いたのは我が身」
アウグスは地を踏み締めた。
「この刃までもが、錆びたわけではありませんよ」
――神技。
『アンダーワイズ』。
――ズバァァンッ!!
大鎌が横一閃に振り抜かれた。
黒い茨が、教会の中央を境に左右へと裂ける。
断ち切られた棘が宙を舞い、砕けた天井から月光が差し込んだ。
その光の下で、アウグスとリオは再び向かい合った。
女の両肩には、新たな薔薇が咲いていた。
しかし、その花弁は小刻みに震えている。
まるで、内側から何かが抗っているかのように。
「……ぁ……」
女の唇が動いた。
「……たす……けて……」
――ジジッ。
アウグスの目が見開かれる。
「……リオ」
「……アウグス……様……」
一筋の涙が、頬を伝った。
次の瞬間、女の身体が大きく反り返る。
――バキバキバキッ!!
黒い茨が地面を打ち、教会全体が激しく揺れた。
何かが、彼女の内側で暴れている。
何かが、彼女の意識を再び奪おうとしている。
アウグスは大鎌を構え直した。
だが、その刃先は、もはや彼女の首へは向けられていなかった。
「……聞こえましたよ」
老兵は静かに告げた。
「今度こそ、確かに」
仮面の奥で、その眼差しが鋭くなる。
「……少しばかり、待っていなさい」
大鎌の刃が、月光を受けて鈍く輝いた。
「必ず……引きずり出して差し上げます」
それが何者であろうと。
どれほど深く、彼女の身体を蝕んでいようと。
ハイゼンベルムの狂刃は、もはや退くつもりなどなかった。
――ジジジジジジッ。
黒棘の奥で、女の悲鳴と笑い声が重なった
...end




