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灰燼に咲く薔薇

焔の国、グウィンライン。


かつて世界に覇を唱えた六大国、その一角を担う国家である。


古くよりこの地に根を下ろしていたウイン一族によって興されたこの国は、豊かな国土と強大な軍事力を有し、長きにわたって繁栄を享受してきた。


なかでも特筆すべきは、その民の気質であろう。


情熱的で、快活で、時に他国の者が気圧されるほどに熱い。


その気風は国中に満ち、いつしか人々は、この国を畏敬と親しみを込めてこう呼ぶようになった。


――焔の国、と。


小国ハイゼンベルムは、グウィンラインの領土の北東に位置していた。


かつてアウグス・ヴァルケインは、六大国の中でもこの国が真っ先にハイゼンベルムへ干渉してくると予測していた。


ゆえに、彼は一人の従臣を送り込んだのである。


その名は、リオ・グランデ。


アウグスが最も信頼を寄せていた従臣であり、忠義に厚く、何よりも騎士としての誇りを重んじる女だった。


彼女は密偵としてグウィンラインへ潜入し、その動向を探る任を与えられていた。


本来であれば、今もなお祖国のために働いているはずだった。


しかし、その名は今や、アウグスにとって忘れ得ぬものとなっていた。


主君を殺し、祖国を滅ぼし、あまつさえ彼が我が子同然に慈しんだ孤児たちの命までも奪った女。


  リオ・グランデ。


その女を討つため、老兵は再び戦場へと足を踏み入れようとしていた。


     *


「……何なのだ、これは」


ハイゼンベルムを発ってから、およそ六キロメートル。


グウィンラインへと続く街道の傍らで、アウグスは足を止めた。


そこには、小さな村があった。


いや、かつて村であった場所、と呼ぶべきかもしれない。


人の気配はない。


炊煙も上がらず、家畜の鳴き声ひとつ聞こえない。


ただ、風に揺れる草木の音だけが、奇妙な静寂の中に響いていた。


そして、その静寂を作り出したものが、村の至るところに横たわっていた。


「……これは」


アウグスは、足元に倒れた一人の男を見下ろした。


その身体からは、無数の茨が生えていた。


腕から、脚から、胸元から。


まるで人体を苗床にでもしたかのように、黒々とした茨が皮膚を突き破り、幾重にも絡みついている。


男の顔は、苦悶に歪んだまま動かなくなっていた。


その傍らには女が倒れ、少し離れた場所には老人の姿もあった。


いずれも同じだった。


身体を茨に侵され、逃れることもできぬまま、苦痛のうちに息絶えたのであろう。


「……この力は」


アウグスは、ゆっくりと膝を折った。


「こんなものは……見たことがありませんね」


かつて、この世界には六つの属性が存在していた。


炎、水、雷、風。


そして、水と風が交わることで生まれる冰。


炎と雷が交わることで生まれる熾。


人々はそれらを用いて魔法を行使し、国を興し、戦争を繰り返してきた。


アウグス自身には、そのいずれを扱う才もなかった。


しかし、だからといって魔法に疎かったわけではない。


幾度となく戦場を渡り歩き、数え切れぬほどの魔法をその目に焼きつけてきた。


炎に焼かれた兵士も見た。


雷に打たれ、息絶えた者も見た。


氷に閉ざされた戦場も、暴風に吹き飛ばされた軍勢も知っている。


だが。


「……どれにも、当てはまらない」


目の前にあるものは、明らかに異質だった。


人の身体から茨が生える。


それも、ただ命を奪うためではない。


拘束し、逃げ道を奪い、苦痛を与え続ける。


そして、死に至るまで、その絶望から解放しない。


そのような所業に、いったい何の意味があるというのか。


「……ッ」


アウグスは、思わず拳を握りしめた。


脳裏に蘇るのは、ハイゼンベルムの王座の間。


天井に張りついていた異形の女。


耳を劈く、不自然な声。


そして、自らの腕を裂いた、あの一瞬。


忘れようにも、忘れられるはずがなかった。


現に今も、傷ついた腕は力なく垂れ下がり、歩を進めるたびに鈍い痛みを訴えている。


「……忌々しい」


掠れた声が、仮面の奥から漏れた。


だが、彼はそれ以上何も言わなかった。


この村で何が起きたのか。


誰がこの惨状を作り出したのか。


その答えは、すでに分かっているようなものだった。


「……待っていなさい」


老兵は立ち上がった。


背に負った大鎌――グリムリーパーが、わずかに揺れる。


彼は死者たちに一度だけ頭を下げると、再び街道へと足を向けた。


     *


ハイゼンベルムを発ってから、およそ二十キロメートル。


ようやく、グウィンライン王都の城壁が見えてきた。


かつては大陸有数の繁栄を誇った都市である。


城門の前には商人たちの馬車が列をなし、行き交う人々の声が絶えることはなかった。


少なくとも、アウグスの記憶にあるグウィンラインは、そういう国だった。


しかし。


「……おかしいですね」


彼は、城門へと続く街道を見渡した。


馬車があった。


荷車もあった。


だが、そのいずれも動いてはいなかった。


車輪は砕け、荷物は散乱し、馬の亡骸が道を塞いでいる。


そして、それらすべてに、黒い茨が巻きついていた。


御者台に倒れ伏した男。


荷台に身を寄せ合ったまま動かなくなった人々。


その顔には、いずれも深い苦悶が刻まれている。


「……この力は、あまりにも」


アウグスは、言葉を探すように口を閉ざした。


「人の尊厳というものを、無下にしすぎている」


かつて六大国との熾烈な戦いに身を置いた彼でさえ、このような光景を目にしたことはなかった。


戦争とは、命を奪うものだ。


そのことを、彼は誰よりも理解している。


だが、命を奪うことと、命を弄ぶことは違う。


少なくとも、彼はそう信じていた。


「……まったく」


小さく息を吐く。


「どこまで私を失望させれば、気が済むのでしょうね」


その言葉が誰に向けられたものなのか、アウグス自身にも分からなかった。


リオか。


己か。


あるいは、このような惨劇を許した世界そのものか。


答えを出すこともなく、彼は城門をくぐった。


そして。


「……なん、だと……」


老兵は、言葉を失った。


眼前に広がっていたのは、かつての王都ではなかった。


大通りを埋め尽くす屍。


倒壊した家屋。


打ち捨てられた武具。


そして、そのすべてを覆い尽くすように伸びる黒い茨。


至るところに無残な亡骸が横たわり、街には血と汚物、腐敗した肉の臭いが満ちていた。


かつて人々の笑い声が響いていた広場には、もはや生者の姿などない。


ただ、茨があった。


石畳の隙間から。


建物の窓から。


死者たちの身体から。


まるで、この国そのものを呑み込もうとしているかのように。


「……リオ」


アウグスは、呆然と呟いた。


「これを……貴女が?」


その声には、怒りよりも先に、困惑が滲んでいた。


リオ・グランデ。


彼女は、誰よりも騎士道を重んじる女だった。


任務には忠実で、己の感情を表に出すことは少なく、どれほど不利な状況であろうとも職務を投げ出すことはなかった。


時に融通の利かぬほど生真面目で、戦場においても無益な殺生を好まなかった。


そんな女が。


「……本当に、貴女なのですか」


ハイゼンベルムで目にした惨劇。


あの手紙に綴られていた嘲笑。


そして、今、眼前に広がる地獄。


すべてが彼女の仕業であると考えれば、辻褄は合う。


だが、アウグスの胸には、拭い去れぬ疑念があった。


「……それほどまでに、強大だというのですか」


一人の人間が、これほどの国を滅ぼせるものなのか。


ましてや、リオは本来、異能を持たぬ一人の従臣にすぎなかった。


それが今や、六大国の一角を滅ぼしたというのか。


「……それに」


アウグスは、足元に横たわる死者へと視線を落とした。


「貴女は、本当に……このようなことを楽しんでいるのですか」


返事はない。


当然だった。


ただ、黒い茨が風に揺れ、かすかな音を立てていた。


アウグスは、その茨へと目を向けた。


そして、あることに気づく。


「……これは」


地面を這う茨が、一定の方向へと伸びている。


まるで、何かを指し示しているかのように。


彼は、その先へと視線を向けた。


そこにあったのは、一軒の古びた教会だった。


「……まさか」


アウグスは、ゆっくりと歩み寄った。


その建物には、見覚えがあった。


いや、忘れるはずもない。


かつてリオをグウィンラインへ送り込んだ際、彼女から集めた情報を受け取るために使っていた場所だった。


人の寄りつかぬ廃教会。


人目を避けて密会するには、都合のよい場所だったのである。


「……ここに、いるというのですか」


教会の前で足を止める。


扉は閉ざされていた。


外壁には蔦が絡みつき、窓硝子には長い年月による曇りが残っている。


だが、不思議なことに、その周囲には死体がなかった。


王都の至るところを覆っていた茨も、教会の入口だけは避けるように伸びていた。


「……妙ですね」


アウグスは、扉に手をかけた。


何があろうとも、もはや驚くまい。


そう思っていた。


主君の亡骸を見た。


子供たちの死を知った。


国を失い、片腕を裂かれた。


これ以上、何を失うというのか。


「……さて」


老兵は、ゆっくりと扉を押し開いた。


――ギィィ……。


古びた蝶番が、軋んだ音を立てる。


そして、彼は目を見開いた。


「……これは」


教会の内部は、驚くほど整然としていた。


長椅子は左右対称に並べられ、床には埃ひとつ見当たらない。


燭台は丁寧に磨かれ、祭壇には新しい花が供えられていた。


外の惨状が嘘であるかのように、そこには静謐な空気が満ちていた。


「……随分と、綺麗ではありませんか」


アウグスは、思わず呟いた。


この几帳面さには、覚えがあった。


リオは、昔から整理整頓を好む女だった。


武具は必ず定められた場所に収め、書類の端がわずかにずれているだけでも気にかけた。


アウグスが無造作に置いたものを、彼女が黙って元の場所へ戻していたことも、一度や二度ではない。


「……変わりませんね」


思わず、口元が緩みかけた。


だが、その表情はすぐに消えた。


今さら何を懐かしんでいるのか。


この教会の外では、数え切れぬ人々が命を奪われている。


その原因と目される女を、懐かしんでいる場合ではない。


「……リオ」


彼は、静かに呼びかけた。


「いるのでしょう」


返事はなかった。


教会の奥。


祭壇の前には、一輪の深紅の花が飾られている。


アウグスは、その花を見つめた。


薔薇に似ていた。


しかし、その茎には異様に長い棘が生え、花弁は血を吸ったかのように暗い赤色をしている。


「……趣味が変わりましたね」


そのときだった。


――ザ……。


かすかな音がした。


アウグスは顔を上げた。


――ザザ……ギ……。


耳の奥を引っかくような、不快な音。


まるで、壊れた機械が無理やり動き始めるかのような響きだった。


「……ッ」


覚えがあった。


ハイゼンベルムの王座の間。


あの異形の女が発していた、耳障りな声。


それと、よく似ている。


アウグスは、ゆっくりと背の大鎌へ手を伸ばした。


「……姿を見せなさい」


――ザザザ……。


音が、途切れた。


そして。


「……お久しぶり、ですねぇ……?」


女の声がした。


教会の奥。


祭壇の背後に広がる薄闇から、一人の女が姿を現した。


銀色の髪。


黒を基調とした狩人の装束。


そして、その手に握られた銃剣。


見覚えのある姿だった。


幾度となく戦場を共にし、幾度となく背中を預けた女。


しかし、その身体には、かつて存在しなかったものがあった。


首筋から肩にかけて、細い黒い茨が這っている。


その先には、小さな深紅の花が咲いていた。


白い肌と銀髪に、その赤はあまりにも鮮烈だった。


そして、彼女の瞳は。


かつての忠義に満ちた眼差しとは、まるで異なっていた。


「……リオ・グランデ」


アウグスは、低くその名を呼んだ。


女は、ゆっくりと首を傾げた。


「……あらぁ」


唇が、歪む。


「まだ……生きていらしたのですねぇ」


――ザ、ザザ……。


その声に、再び不快な雑音が混じった。


「……随分と、しぶといことで」


アウグスは答えなかった。


ただ、彼女の姿を見つめていた。


その顔を。


その手を。


その立ち姿を。


間違いない。


目の前にいるのは、リオ・グランデだった。


だが。


「……貴女は」


声が、わずかに震えた。


「本当に、リオなのですか」


女は、一瞬だけ動きを止めた。


そして。


「……ふ、ふふ……」


肩を揺らした。


「あは……あははははッ!」


耳障りな笑い声が、教会に響き渡る。


「何を……おっしゃっているのですかぁ?」


彼女は、銃剣の切っ先をゆっくりと持ち上げた。


「あなたが……送り込んだのでしょう?」


一歩。


女が前へ出る。


「この国へ……私を」


もう一歩。


「おかげさまで……とても、楽しかったですわぁ」


その言葉を聞いた瞬間、アウグスの拳が震えた。


「……楽しかった?」


「ええ……とても」


女は、楽しげに微笑んだ。


「皆様、よく……泣いてくださいましたもの」


沈黙が落ちた。


アウグスは、ゆっくりと目を閉じた。


脳裏に浮かぶのは、王座の間に磔にされた主君。


散乱した家具。


動かなくなった子供たち。


そして、街道に横たわっていた無数の死者。


「……そう、ですか」


静かな声だった。


「貴女は……そこまで堕ちてしまったのですね」


女は、答えなかった。


ただ、愉快そうに口元を歪めていた。


アウグスは、背に負った大鎌へ手をかけた。


グリムリーパー。


かつて六大国の兵士たちを震え上がらせた、狂刃の象徴。


三十年もの間、眠り続けていたその刃が、今、再び持ち主の手に収まった。


「……リオ」


アウグスは、静かに告げた。


「私は、貴女を信じていました」


女の笑みが、わずかに止まる。


「貴女ならば、祖国のために尽くしてくださると」


大鎌の刃が、薄暗い教会の中で鈍く光った。


「……ですが」


老兵は、一歩を踏み出した。


「その信頼は、どうやら間違いだったようですね」


女の足元で、黒い茨が蠢いた。


石畳の隙間から伸びたそれらは、まるで生き物のように床を這い、長椅子の脚へと絡みついていく。


「……ふふっ」


リオは、ゆっくりと銃剣を構えた。


「それでは……どうなさるおつもりで?」


その声に、再び雑音が混じる。


「老いた……狂刃様?」


アウグスは、答えなかった。


ただ、鉄仮面の奥で、静かに目を細めた。


「……ひとつ、聞かせてください」


「……あら?」


「この国の人々を殺めたのも、ハイゼンベルムを滅ぼしたのも……」


彼は、わずかに言葉を区切った。


「すべて、貴女の意思なのですか」


リオは、首を傾げた。


一瞬。


本当に、わずかな一瞬だった。


彼女の瞳から、笑みが消えた。


――ザッ。


耳障りな音が響く。


「……あ……」


何かを言いかけたように、女の唇が動いた。


しかし、次の瞬間には、その表情は再び歪んでいた。


「……うふふ」


彼女の肩に咲いた花が、ゆっくりと揺れる。


「そんなこと……どうでもよろしいでしょう?」


アウグスは、目を細めた。


今のは、何だったのか。


見間違いか。


それとも。


「……なるほど」


彼は、小さく呟いた。


だが、その疑念を確かめる暇はなかった。


――ミシッ。


床板の下から、何かが軋む音がした。


アウグスは、反射的に足を引いた。


直後。


――ドンッ!!


石畳を突き破り、鋭い茨が噴き上がった。


先ほどまで彼が立っていた場所を、無数の棘が貫いていく。


「……ッ!」


アウグスは身を翻し、距離を取った。


老いた身体が軋む。


傷ついた腕が、激しく痛んだ。


だが、彼は倒れなかった。


「……ふふっ」


リオは、愉快そうに笑っていた。


「よく……避けられましたねぇ」


「……まったく」


アウグスは、ゆっくりと息を吐いた。


「昔から、貴女はせっかちでしたね」


そして、グリムリーパーの柄を握り直した。


「ですが……」


彼は、背後へ大鎌を引いた。


かつて幾千もの敵を斬り伏せた、その構え。


三十年という歳月を経てもなお、身体が忘れることのなかった動作。


「老いたのは、我が身」


仮面の奥から、低い声が響く。


「この刃までもが、錆びたわけではありませんよ」


リオの足元で、茨が一斉に蠢いた。


アウグスは、静かに腰を落とす。


その姿は、もはや穏やかな余生を送っていた老人ではなかった。


六大国を震え上がらせた、かつての英雄。


ハイゼンベルムの狂刃。


アウグス・ヴァルケイン。


そして、彼の眼前に立つのは、かつて最も信頼した従臣。


茨棘の魔女、リオ・グランデ。


二人の間を、冷たい風が吹き抜けた。


「……さあ」


老兵は、静かに告げた。


「三十年ぶりに、少々お付き合いいただきましょうか」


――次の瞬間。


ハイゼンベルムの狂刃が、かつての忠臣リオ・グランデに襲いかかった。


                  ...end

なぜこんなにも早くリオとアウグスを再会させたのかその意図を汲みながら続きをお待ちください

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