主君と子供たちのために
「まさか、再びこの仮面を手に取ることになろうとは……。人生とは、つくづく分からないものですね」
男は手の中の仮面を見つめ、静かに目を細めた。
「……待っていなさい」
かつて、ひとつの小国を六大国の脅威から守り抜いた男がいた。
その名は、アウグス・ヴァルケイン。
彼はかの戦争で主君を守るために戦い、彼の身に残された力のすべてを祖国に捧げ、ついには六大国から小国への不干渉を認めさせたのである。
それから三十年。
戦場を離れた彼は、戦争孤児たちを引き取り、慎ましくも穏やかな余生を送っていた。
もう、刃を振るう必要などない。
守るべきものは、すぐそばにある。
そう思っていた。
しかし、老兵が手に入れた平穏は、あまりにも唐突に終わりを告げることとなる。
――ドォォォンッ!!
鼓膜を劈く轟音が、王都を揺るがした。
「何だ……!?」
アウグスは弾かれたように窓辺へ駆け寄り、外を見下ろした。
眼前に広がっていたのは、紅蓮の炎に呑まれた街並みだった。
家々は燃え落ち、黒煙が空を覆い、逃げ惑う人々の悲鳴が絶え間なく響いている。
「……何という、惨状だ」
その光景を前に、アウグスは言葉を失った。
三十年。
六大国との戦いを終え、この国が平穏を享受してきた年月である。
その長い歳月を経て、ようやく手に入れたものが、今まさに目の前で灰燼に帰そうとしていた。
頬を、一筋の涙が伝う。
しかし、その涙が乾くよりも早く、彼の脳裏にひとつの疑念が浮かび上がった。
――かつて、私が滅ぼした国も。
――このような最期を迎えたのだろうか。
小国の平穏を守るため、アウグスは幾度となく戦場に身を置いた。敵を斬り、敵国を滅ぼし、時には女子供の命さえも、戦の犠牲として見過ごしてきた。
それらすべてが、祖国を守るために必要なことだと信じていた。
だが、目の前の光景は、その信念に疑問を突きつけていた。
「……これもまた、この国が辿るべき運命だったというのでしょうか」
諦念にも似た言葉が、老兵の口からこぼれる。
そのときだった。
燃え盛る街並みの向こうに、ひときわ大きな炎が立ち上っているのが見えた。
城だった。
「……なっ」
アウグスの表情が凍りつく。
王都が燃えている。
民が殺されている。
だが、それだけならば、まだ理解できた。
しかし、あの城にいるのは――。
「ハイゼンベルグ様ァァァッ!!」
老兵の叫びが、燃え盛る街に響き渡った。
先ほどまで胸を満たしていた疑念も、己の過去への後悔も、その瞬間には意識の片隅へと追いやられていた。
主君が危ない。
それだけで十分だった。
アウグスは孤児院へ駆け寄り、子供たちの無事を確かめた。幸いにも、彼らは避難を始めていた。
「ここを動かないでください。何があっても、決して外へ出てはいけません」
そう言い残すと、彼は武器を手に取ることも忘れ、家を飛び出した。
老いた身体が悲鳴を上げる。
かつて戦場を駆け抜けた脚は衰え、呼吸も乱れる
それでも、彼は走った。
なぜ、真っ先に主君を案じなかったのか。
なぜ、もっと早く異変に気づけなかったのか。
自責の念が胸を締めつける。
しかし、今は悔いている場合ではない。
まだ間に合う。
そう信じるほかなかった。
やがて、アウグスは王城へと辿り着いた。
そこには、これまで目にしたこともない惨状が広がっていた。
門兵たちは持ち場を離れ、右往左往している。普段ならば厳格に統制されているはずの王城が、今や恐怖と混乱に支配されていた。
「退けッ!!」
アウグスは狼狽する門兵を押しのけ、城内へと踏み込んだ。
かつてならば、彼の姿を見ただけで道を開ける者もいただろう。
だが、今の彼を知る者は少ない。
三十年という歳月は、老兵の名声を人々の記憶の奥底へと押しやっていた。
それでも、彼の足取りに迷いはなかった。
王座へ。
ただ、それだけを胸に、アウグスは廊下を駆け抜けた。
そして、王座の間へと続く扉の前に辿り着く。
手を伸ばした、その瞬間だった。
鼻を突く異臭が、扉の隙間から漂ってきた。
アウグスは反射的に鼻を覆った。
血の臭いならば、幾度となく嗅いできた。
肉が焼ける臭いも、腐敗した死体の臭いも知っている。
だが、この臭いは違った。
生理的な嫌悪を呼び起こす、むせ返るような悪臭。
そして彼は、その正体に思い至った。
「……これは」
喉の奥が、ひゅっと狭まる。
「一人や二人では……ない、ということか」
身体が拒絶していた。
この先に何があるのか。
本能が、見るなと告げている。
それでも、アウグスは扉から手を離さなかった。
主君が、この先にいる。
ならば、進まぬ理由などない。
――ガチャァンッ!!
扉が勢いよく開かれた。
「何なのだ……これは……!」
目に飛び込んできた光景に、アウグスは息を呑んだ。
床を埋め尽くす屍。
無造作に投げ捨てられた身体。
切り裂かれ、踏みにじられ、原形すら留めていない死体の数々。
そこには、騎士としての誇りも、戦士としての矜持もなかった。
ただ、殺すためだけに殺した。
そうとしか思えない、凄惨な光景だった。
「……なんという、真似を」
数多の戦場を渡り歩いてきたアウグスでさえ、言葉を失った。
敵を殺すことには慣れている。
命を奪うことの重さも、十分すぎるほど理解している。
それでも、目の前の所業には、戦場でさえ見出せるはずの道理がなかった。
――違う。
彼は、すぐさま首を振った。
今、見るべきものは屍ではない。
探すべきものは、ただ一人。
「ハイゼンベルグ様……!」
視線を巡らせる。
そして。
アウグスは、見てしまった。
玉座の間の奥。
そこに、王はいた。
両腕を広げるようにして十字に磔にされ、裂かれた腹から溢れ出た腸が、その首に無惨に巻きついていた。
「…………あ」
声にならない声が、喉から漏れた。
理解が追いつかない。
目の前にあるものが何なのか、頭が認めることを拒んでいる。
「ハイゼンベルグ……様……?」
一歩、踏み出す。
膝が震えた。
「……嘘、でしょう」
もう一歩。
何かの間違いであってほしかった。
あれほど敬愛した主君が。
あれほど守り抜こうとした国の王が。
こんな姿で、目の前にいるはずがない。
「何なのだ……これは……」
震える声が、静まり返った王座の間に響く。
「誰が……誰が、こんなことを……ッ!!」
叫びは、やがて慟哭へと変わった。
王のもとへ駆けつけることさえできなかった自分。
主君を守るべき立場にありながら、何もできなかった者たち。
そして、何よりも――。
「誰だ……!」
握りしめた拳が震える。
「誰が、ハイゼンベルグ様を……!!」
怒りが、悲しみが、後悔が、胸の内で渦を巻く。
そのすべてを押し潰すように、ひとつの感情がアウグスの心を支配していった。
――許さぬ。
そのときだった。
「うぅ……る、さぁ……い、なぁ……」
声がした。
耳障りな、途切れ途切れの声。
まるで、壊れた蓄音機から無理やり音を引きずり出したかのような、不自然な響きだった。
「……ッ!?」
アウグスは咄嗟に耳を塞いだ。
声が聞こえた瞬間、耳の奥に鋭い痛みが走ったのだ。
「何者だ、貴様ッ!!」
声の出所を探る。
そして、視線を天井へと向けたアウグスは、そこにいるものを見た。
――女、なのか。
一見すれば、女の姿をしていた。
だが、その身体からは無数の茨が生え、肉体を貫き、絡みつき、あちこちを無惨に引き裂いている。
それでもなお、異形は歩いていた。
いや、歩いているように見えただけなのかもしれない。
人間の身体をしていながら、人間の理から外れた動き。
顔は幾重にも絡みついた茨の棘に覆われ、その表情を窺うことすらできない。
「貴様が……」
アウグスの声が、低く沈んだ。
「貴様が、やったというのか……」
視線が、異形の背後に広がる惨状へと向けられる。
「このような……人の所業とは思えぬ真似を……!」
それは、怒りだった。
恐怖ではない。
少なくとも、彼自身はそう思っていた。
このような光景は、幾度となく戦場を渡り歩いた彼でさえ見たことがなかった。
人を殺すことと、命を弄ぶことは違う。
目の前の異形が行ったのは、明らかに後者だった。
「おぉ……こわぁ……」
女のような異形が、首を傾げた。
「おぉ、だまり……くださぁい?」
その声が、再び耳を劈く。
アウグスが眉をひそめた、その刹那。
――ヒュン。
風を切る、かすかな音。
それは轟音でも、爆発音でもなかった。
まるで、釣り竿を振り抜いたときのような、軽い音だった。
「ぐッ……ぬ、ぐぅううッ!!」
全身が、硬直した。
何が起きたのか、理解できなかっ。
ただ、次の瞬間には、焼けつくような激痛が身体を駆け巡っていた。
「……ッ、がああああッ!!」
アウグスは反射的に傷口へと目を向けた。
そして、目を見開く。
「な……ッ!?」
視界の端に映ったのは、裂かれた己の腕だった。
「腕が……ッ!!」
声が震える。
「私の……腕がぁああッ!!」
小国の英雄と謳われた男も、老いには抗えなかった。
裂かれた腕から流れ落ちる血。全身を蝕む激痛。かつて六大国を震え上がらせた男でさえ、三十年という歳月がもたらした衰えと、目の前の異形の力には抗えなかった。
「……ッ」
膝が崩れ、視界が暗転する。
アウグス・ヴァルケインは、その場に倒れ伏した。
意識が途切れる間際、耳に届いたのは、女の愉快そうな笑い声だった。
「今日はここまでにしておいてあげるわぁ。老いた狂刃なんて、いつでも始末してあげる。今回みたいにねぇ? うふふ♡」
その声を最後に、アウグスの意識は闇へと沈んでいった。
――二週間後。
「……っ!」
アウグスは、弾かれたように目を覚ました。
肺が空気を求め、身体が反射的に起き上がろうとする。だが、全身に走る鈍痛がそれを許さなかった。
「……ここは」
見慣れぬ天井。
いや、違う。
ここは、かつて自分が暮らしていた家屋だ。
どうやら、あの惨劇の後、何者かが彼をここまで運んだらしい。
老いたとはいえ、幾度もの死線を潜り抜けてきた男である。二週間もの昏睡から目覚め、こうして意識を取り戻したこと自体、並の人間にできることではなかった。
しかし、目を覚ました彼を待ち受けていたのは、安堵ではなかった。
枕元に、一通の手紙が置かれていた。
「……手紙?」
アウグスは眉をひそめ、残された腕でそれを手に取る。
差出人の名を見た瞬間、彼の表情が凍りついた。
そこに記されていたのは、忘れるはずもない名前だった。
――リオ・グランデ。
そして、その下には、嘲笑うような文面が綴られていた。
『アウグスさん。
あなたもすっかり老いてしまったようですね?
かつての狂刃は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。ああ、考えるだけで反吐が出ます。
まあ、今となってはあなたの命にも、さほど価値はありませんけれど。
抵抗もできない孤児たちは、始末するのも簡単でしたわ。あなたのような不味そうな老人は、わざわざ手を下すまでもないでしょう?
うふふ♡
この退屈な世界で、私が楽しめる数少ない娯楽。それが、かつての上司をこうして嘲笑うことなのです。
老いさらばえたあなたを思い浮かべるだけで、胸が躍りますわ。
あはははは!
リオ・グランデ』
「…………」
アウグスは、しばらく手紙を見つめていた。
怒りはなかった。
いや、正確には、怒りを覚えるよりも先に、書かれた言葉の意味を理解しようとしていた。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
「……リオ、だと?」
掠れた声が、静寂を破った。
リオ・グランデ。
かつてアウグス自身が、六大国の一角――焔の国グウィンラインへと送り込んだ侍女の名だった。
祖国のために密偵として働くはずだった女。
主君のために忠義を尽くすはずだった女。
その名が、なぜ今になって、こんな形で目の前に現れるのか。
「……まさか」
指先が震えた。
手紙を握る力が、次第に強くなる。
「私の……子供たちまで……」
言葉が途切れた。
あの子たちは、彼にとって何だったのか。
血の繋がりこそなかったが、戦場で失われた子供たちの未来を、少しでも取り戻したいと願って引き取った子供たちだった。
剣を捨てた後の人生で、彼が初めて自分自身のために守ろうとしたもの。
主君を失った後も、彼が生きていられた理由。
それすらも、奪われた。
「……そう、ですか」
アウグスの口元が、わずかに歪んだ。
涙は出なかった。
悲しみが深すぎたのか、それとも怒りがそれを押し潰したのか。
今の彼には、もう分からなかった。
ただ、胸の奥底で、ひとつの思いだけが形を成していく。
――差し違えてでも、あの女の首を取る。
それを、あの世の主君への手土産としよう。
そして、あの子たちにも。
自分が最後まで戦ったのだと、胸を張って報告できるように。
「……待っていなさい、リオ・グランデ」
静かな声だった。
しかし、その声音には、もはや諦念の欠片も残されていなかった。
アウグスは身体を起こし、傷ついた腕を見下ろした。
裂かれた傷は、まだ塞がっていない。
少し動かすだけでも、焼けつくような痛みが走る。
腕を治す術がないわけではなかった。
だが、彼は治療を望まなかった。
この傷は、自分が衰えを忘れ、かつての力を過信したことへの戒め。
そして、守るべきものを守れなかったことへの罰。
この痛みを忘れない限り、二度と己の未熟さを見誤ることはない。
そう考えたのだ。
「……さて」
アウグスは、ゆっくりと立ち上がった。
老いた身体は重く、片腕を失ったことで均衡を保つことさえ難しい。
それでも、彼は歩き出した。
向かう先は、荒れ果てた街外れの家屋。
かつて子供たちと暮らした、あの場所だった。
家屋の扉を開けた瞬間、アウグスは足を止めた。
そこには、手紙に書かれていたとおりの光景が広がっていた。
荒らされた室内。
散乱した家具。
そして、もう二度と動くことのない、小さな身体。
「…………」
声は出なかった。
かつて、数多の戦場で屍を積み上げてきた男である。
人の死を知らぬわけではない。
むしろ、誰よりも多くの死を見てきた。
それでも。
それでも、ここにある死だけは、受け入れられなかった。
「……すまない」
誰に向けた言葉だったのか。
子供たちか。
主君か。
それとも、守るべきものを守れなかった自分自身か。
答えは出なかった。
だが、アウグスは膝をつかなかった。
泣き崩れることもしなかった。
ただ、静かに室内を見渡し、目を閉じる。
そして、深く息を吐いた。
「……もう、十分でしょう」
その声には、悲しみが滲んでいた。
「この老いぼれが、余生などというものを望んだのが間違いだったのかもしれませんね」
ゆっくりと、彼は奥へと進む。
そこには、長い間、手を触れずにいた古びた棺があった。
否。
棺ではない。
かつての自分を封じ込めた、過去そのものだった。
アウグスは、その蓋に手を置いた。
「……久しぶりですね」
蓋を開ける。
中に収められていたのは、使い込まれた大鎌――グリムリーパー。
そして、彼の顔を覆い隠す仮面だった。
幾度となく人を斬り、幾度となく血を浴びた愛鎌。
六大国の兵士たちに恐れられ、敵国の記録にすら名を刻んだ狂刃の象徴。
アウグスは、しばらくそれらを見つめていた。
「……お前を振るう日が、再び来るとは」
鎌の柄を握る。
掌に伝わる感触は、三十年前と何ひとつ変わっていなかった。
「ですが、今度ばかりは……」
声が、低く沈む。
「少々、やりすぎてしまいそうですね」
彼は仮面を手に取り、顔の前へと掲げた。
その奥にある瞳には、もはや老後を穏やかに過ごしていた男の面影はない。
そこにいたのは、かつて小国のために六大国を渡り歩き、数多の命を刈り取った男。
――ハイゼンベルムの狂刃、アウグス・ヴァルケイン。
彼は、腕を治すことを選ばなかった。
失ったものを取り戻すためではない。
失ったものの重さを背負い続けるために。
片腕となった身体で、どこまで戦えるのか。
それを確かめる必要もあった。
しかし、今の彼にとって、それは些細な問題にすぎない。
己の命など、惜しくはなかった。
名誉も、地位も、未来も。
すでにすべてを失っている。
残された目的は、ただひとつ。
己からすべてを奪った女を討つこと。
祖国を捨て、人の道を踏み外し、私利私欲のために他者を弄ぶ女。
その名は、リオ・グランデ。
アウグスは仮面を顔に装着した。
そして、グリムリーパーを手に取る。
かつての狂刃が、三十年の眠りから目を覚ました。
茨に覆われた女は、まだ知らない。
自ら嘲笑い、見逃した老兵が、どれほどの死をその身に刻んできたのかを。
そして、なぜその男が――ハイゼンベルムの狂刃と呼ばれたのかを。
その答えを、彼女はやがて、自らの身をもって知ることになる。
そしてこの老兵は掠れた声を絞り出し一言呟く
「...........待っていなさい。」
...end
こんにちは十愛です。
長年寝る間に考え続けたストーリーを思い出にするためにここに残してみました。
物語を描いた経験もなくこれが初めての経験なので拙い部分もあるかとは思いますがご容赦ください。
引き続き老兵アウグスの旅路をご覧になってください。




