主人なき忠誠
――ジジジジジジッ。
耳を劈くような雑音が、廃教会に響き渡った。
女の白い肌を突き破るように生じた黒い茨は、石畳を這い、柱に絡みつき、崩れかけた天井へと伸び続けていた。
その中心に立つ女は、もはや笑ってはいなかった。
「……あ……ぁ……」
リオ・グランデ。
かつてハイゼンベルムに仕え、アウグスの傍らで幾多の戦場を駆け抜けた女。
その身体が、何かに抗うように激しく震えていた。
「……アウグス……様……」
か細い声が漏れる。
しかし、その声を掻き消すように、再び不協和音が鳴り響いた。
――ザザッ!!
「うふ……うふふふ……!」
女の口元が、無理やり吊り上がる。
「困りましたねぇ……アウグス様ぁ……♡」
その声は甘く、どこまでも不快だった。
「せっかく、せっかく……眠らせてあげていたのにぃ……♡」
「……眠らせていた?」
アウグスは静かに問い返した。
「ええ、そうですよぉ♡ だってぇ……」
女は自身の胸元に手を当てた。
「この子、とっても可哀想なんですものぉ?♡」
「…………」
「自分の手で国を滅ぼしてぇ、大好きな王様を殺してぇ……あんなに可愛がっていた子供たちまでぇ……♡」
「……黙りなさい」
「うふふ♡ あらぁ? どうしてですかぁ?」
女は首を傾げた。
「全部、本当のことなのにぃ♡」
アウグスの握る大鎌が、僅かに軋んだ。
だが、彼は動かなかった。
「……それ以上、その口で戯言を語ることは許さぬ」
低い声だった。
それまでの穏やかな響きは、既に失われていた。
「怖ぁい♡」
女は笑う。
「でもぉ、殺せないんでしょう? この身体を斬れば、あなたの大切なリオちゃんまで傷ついてしまうんですものねぇ♡」
その言葉とともに、無数の茨がアウグスへと向けられた。
「さぁ……どうするんですかぁ?♡」
老兵は答えなかった。
ただ、静かに大鎌を構え直す。
そして。
「……お前は、一つ勘違いをしているようだな」
「……あは?」
「私が、この女を斬れぬとでも思っているのか」
その声には、先ほどまでとは異なる威圧があった。
長い隠居生活のうちに、いつしか影を潜めていたもの。
かつて六大国の将兵が、その名を耳にするだけで戦慄したという、ハイゼンベルムの狂刃。
その片鱗が、老兵の言葉に滲み始めていた。
「うふふ……まさかぁ……斬れるとでも?♡」
「……斬るとも」
アウグスは一歩、前へ出た。
「たとえそれが、かつての友であろうが。忠臣であろうが」
女の笑みが、僅かに引きつった。
「……だがな」
老兵は続けた。
「斬るべきものを見誤るほど――」
大鎌の刃先が、ゆっくりと持ち上がる。
「我が刃は、錆びてはおらぬッ!!」
その一喝が、廃教会に響き渡った。
「……ッ!」
女の瞳が、僅かに見開かれる。
そこに立っていたのは、もはや隠居した一人の老人ではなかった。
かつて幾千もの屍を越え、祖国のために刃を振るい続けた男。
――ハイゼンベルムの狂刃。
「……うふ……うふふふ♡」
女は笑みを取り戻した。
「それならぁ……試してみましょうかぁッ!!」
――ヒュンッ!!
黒い茨が、一斉に襲いかかった。
アウグスは大鎌を振るう。
――ザンッ!!
迫り来る茨を断ち切り、さらに一歩踏み込む。
だが、切断された茨は瞬く間に再生した。
「うふふ♡ 無駄ですよぉ!!」
「……ならば、再び斬るまでだ」
老兵は短く答えた。
そして、再び鎌を振るう。
――ザシュッ!!
一本。
――ザンッ!!
二本。
断ち切るたびに、新たな茨が生えてくる。
際限のない再生。
それは、いかなる剣豪であろうと、いずれ力尽きることを意味していた。
ましてや、今のアウグスは老いている。
呼吸は荒く、脇腹からは血が滲んでいた。
裂かれた腕もまた、身体を動かすたびに疼く。
「……はぁ……はぁ……」
「どうしましたぁ? もうお疲れですかぁ?♡」
女の声が響く。
「うふふ♡ それでは、もう少し遊んで差し上げましょうかぁ!!」
――ゴォッ!!
巨大な茨が、教会の天井から振り下ろされた。
アウグスは身を翻し、その一撃を躱す。
――ドォンッ!!
石畳が砕け散った。
飛び散った破片が頬を掠める。
その瞬間。
アウグスの視線が、女の両肩へと向けられた。
そこには、再び二輪の薔薇が咲いていた。
先ほどアンダーワイズによって断ち切ったはずの花。
それが、既に元の姿へと戻っていたのである。
「…………」
アウグスは目を細めた。
女の脚は再生した。
茨も再生する。
ならば、あの花が再び咲くこと自体は不思議ではない。
だが、一つだけ奇妙なことがあった。
リオは、あの二輪の薔薇を斬られた瞬間、明らかに動揺していた。
それも、単に肉体を傷つけられた者の反応ではない。
あれほど余裕に満ちていた女が、初めて恐怖を露わにしたのである。
そして、その直後。
本来のリオと思しき声が聞こえた。
――偶然、か。
アウグスは静かに考えた。
戦場において、偶然という言葉ほど頼りにならぬものはない。
しかし、偶然を見過ごす者もまた、長くは生き残れない。
「……一つ、試してやろう」
「……あは?♡」
女が首を傾げた。
アウグスは大鎌を構え直す。
そして、真っ直ぐにリオへと駆け出した。
「うふふ♡ 正面からですかぁ!?」
黒い茨が、老兵を迎え撃つ。
一本目を躱す。
二本目を大鎌の柄で受け流す。
三本目。
――ザンッ!!
刃を振り上げ、その根元を断ち切る。
「……ッ!」
脇腹に痛みが走る。
だが、足は止めなかった。
「な……何を……!」
女が初めて、後退した。
アウグスは鎌を振り抜く。
狙いは首ではない。
心臓でもない。
右肩に咲く、深紅の薔薇。
――ザシュッ!!
花弁が散った。
「ぎ……ッ!!」
リオの身体が大きく仰け反る。
同時に、周囲の茨が一瞬だけ動きを止めた。
「……やはりな」
アウグスは呟いた。
しかし、まだ確信には至らない。
「……ならば、こちらはどうだ」
大鎌を引き戻し、左肩へと振るう。
――ザンッ!!
もう一輪の薔薇が、断ち切られた。
「――あああああッ!!」
女の口から、悲鳴が迸った。
そして。
――ザザザザザッ!!
凄まじい雑音とともに、リオの身体が崩れ落ちた。
「……ぁ……」
女は石畳に膝をつく。
両肩から黒い液体が滴り落ち、震える指先が床を掻いた。
「……アウ……グス……様……」
今度は、はっきりと聞こえた。
アウグスは動きを止めた。
「……リオ」
「……逃げ……て……」
「…………」
「……私……もう……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
――ジジッ!!
「……うふ……」
女の唇が、再び吊り上がる。
「うふふふふ……!!」
しかし、その笑い声は先ほどまでのものとは違っていた。
震えていた。
明らかに、怯えていた。
「……やめて……」
女の口から、小さな声が漏れる。
「……やめて……ください……」
「…………」
アウグスは、ゆっくりと歩み寄った。
「……リオ」
女は顔を伏せたまま、震えている。
「……私は……」
かすれた声。
「……私は……あの子たちを……」
その言葉に、アウグスの足が止まった。
脳裏に浮かんだのは、荒らされた孤児院である。
小さな寝台。
散乱した玩具。
そして、二度と目を覚ますことのない子供たち。
「……知っている」
老兵は低く答えた。
「…………」
「私は、すべて見てきた」
リオの肩が震えた。
「……申し……訳……」
「……今は謝罪など要らぬ」
アウグスは言葉を遮った。
「まずは、その身体を取り戻せ」
「……ですが……」
「リオ」
老兵は、静かにその名を呼んだ。
「お前には、まだ聞かねばならぬことが山ほどある」
女は顔を上げた。
その瞳には、確かに涙が浮かんでいた。
「……アウグス……様……」
しかし。
――バキッ!!
突然、リオの胸元から黒い茨が突き出した。
「……ッ!!」
アウグスは咄嗟に身を引く。
次の瞬間、無数の茨が女の身体を覆い始めた。
肩。
腕。
首。
そして、顔。
まるで、内側にいる何かを閉じ込めようとするかのように。
「う……あ……!」
「……リオ!」
「……いや……!」
女の声が震えた。
「……もう……いや……!」
――ザザザザザザッ!!
雑音が、教会全体を満たした。
そして。
「アハハハハハハハッ!!!!」
狂った笑い声が響き渡った。
「残念でしたぁ!! 残念、残念、ざぁんねん♡」
黒い茨に覆われた女が、ゆっくりと立ち上がる。
「せっかく、もう少しで……」
その声が、低く歪んだ。
「……もう少しで、全部終わらせられたのに」
「…………」
アウグスは大鎌を構え直した。
女は、彼を睨みつける。
「どうして邪魔をするんですかぁ……?」
「……邪魔だと?」
「そうですよぉ……! この子はもう、何も知らなくてよかったのに……!」
黒い茨が、女の足元で蠢いた。
「大好きな国も、王様も、子供たちも……全部、自分で壊したって知ったら……」
――ジジッ。
「……壊れちゃうでしょう?」
アウグスは答えなかった。
女は続ける。
「だから眠らせてあげたんですぅ……! 優しいでしょう? 私って……!」
「…………」
「それなのに、あなたが……!」
女の声が、次第に荒くなっていく。
「あなたが、余計なことをするからぁッ!!」
――ドォンッ!!
巨大な茨が、石畳を砕いた。
アウグスは横へと跳び、その一撃を躱す。
だが、着地した瞬間、膝が僅かに沈んだ。
「……ぐッ」
疲労が、限界に近づいていた。
呼吸は荒い。
視界も、僅かに揺れている。
このまま戦い続ければ、いずれ身体が動かなくなるだろう。
「……ふむ」
アウグスは静かに息を吐いた。
「この老体も、そう長くは持たぬか」
「うふふ♡ ようやく分かりましたかぁ?」
「……ああ」
老兵は、ゆっくりと大鎌の柄を握り直した。
「ならば、そろそろ終わらせるとしよう」
女の笑みが止まった。
「……何を……」
「先ほどから、お前の攻撃を見ていた」
アウグスは静かに告げる。
「茨の伸びる方向。再生する速度。そして、あの二輪の花」
「…………」
「見事な力だ。だが、力に頼るばかりでは、戦場で生き残れぬ」
老兵は、一歩踏み込んだ。
「お前は、戦い慣れていない」
女の顔が歪んだ。
「……は?」
「相手の動きを読まず、力任せに攻撃を繰り返す。次の一手すら考えておらぬ」
「……黙れ……」
「何より」
アウグスの眼光が、鋭くなる。
「リオの身体を使っていながら、あやつの剣を一度として見せておらぬ」
――ザザッ!!
女の身体が、大きく震えた。
「……黙れッ!!」
無数の茨が、一斉に襲いかかった。
アウグスは動かなかった。
ただ、迫り来る黒い茨を見据えている。
一本目。
二本目。
三本目。
それらが重なり、巨大な黒い奔流となって老兵へと迫る。
「死ねぇぇぇッ!!!!」
その瞬間。
アウグスは、大鎌の柄を握る手から力を抜いた。
刃先が、静かに下がる。
構えと呼べるほどの構えはない。
ただ、老兵が一人、そこに立っていた。
「……リオ」
低い声が響いた。
「お前には、まだ見せたことがなかったな」
黒い茨が迫る。
「……あは? 何を言って――」
「かつての私は、力こそがすべてだと思っていた」
アウグスは続けた。
「だが、戦場に立ち続けるうちに、一つだけ悟ったことがある」
老兵の呼吸が、静かに整っていく。
「真に恐ろしい刃とは、振るわれたことすら悟らせぬものだ」
女の笑みが消えた。
「……な……に……?」
アウグスは、僅かに目を細めた。
「……見えているか」
それは、リオに向けた言葉だった。
「これが、我が剣の到達点だ」
――絶技。
『神凪』。
音は、なかった。
風を裂く音も。
刃が茨を断つ音も。
何一つとして。
ただ、静寂だけがあった。
「……あは?」
女が首を傾げた。
老兵は、先ほどと変わらぬ場所に立っていた。
大鎌グリムリーパーの刃先は、静かに石畳へと向けられている。
踏み込んだ形跡もない。
刃を振り抜いた姿勢ですらない。
何も起きていない。
そう見えた。
しかし。
――はらり。
黒い茨の先端が、石畳へと落ちた。
続いて、一本。
また一本。
女を守るように幾重にも重なっていた茨が、次々と崩れ始める。
「……え?」
そして。
両肩に咲いていた二輪の薔薇が、音もなく宙を舞った。
「……な……」
女の瞳が、大きく見開かれる。
「……何を……した……?」
斬撃は見えなかった。
いや。
それ以前に。
斬撃が放たれたことすら、理解できなかった。
女は気づいていなかった。
アウグスが鎌を下ろし、リオへと語りかけたあの時。
すでに、すべての斬撃は終わっていたのである。
「……馬鹿な……」
女の唇が震える。
「……そんな……そんなはず……!」
アウグスは、静かに女を見据えた。
「……これが、神凪だ」
その声には、かつての狂刃の威圧が残っていた。
「斬るべきもののみを斬り、余計なものには刃を触れさせぬ」
老兵は、女を見据える。
「お前のような紛い物に、リオの命までくれてやるものか」
――ザザザザザッ!!
凄まじい雑音が鳴り響いた。
「――あああああああッ!!!!」
女の悲鳴が、廃教会に響き渡る。
黒い茨が激しく蠢いた。
しかし、先ほどまでとは違う。
その動きは乱れ、互いに絡み合い、まるで自らの身体を締めつけるかのようだった。
「……いや……!」
女の口から、かすれた声が漏れる。
「……やめ……て……!」
アウグスは、大鎌を石畳へと立てた。
そして、ゆっくりと歩み寄る。
「……リオ」
女は顔を上げた。
「……アウグス……様……?」
「聞こえるか」
「……はい……」
「ならば、よく聞け」
老兵は、静かに告げた。
「お前が何をしたのか、私は忘れぬ」
リオの瞳から、涙が零れ落ちた。
「……はい……」
「お前を許せるかどうかも、今は分からぬ」
「…………」
「だがな」
アウグスは、残された手を伸ばした。
「このまま、お前の身体を何者とも知れぬ化け物にくれてやるつもりはない」
リオの唇が震える。
「……アウグス……様……」
「戻ってこい、リオ」
老兵は、はっきりと告げた。
「お前の罪は、お前自身の足で背負え」
――ジジッ。
雑音が、途切れた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
女の身体から、力が抜けた。
「……私……」
リオの声が、震えていた。
「……帰っても……よろしいのでしょうか……」
アウグスは答えなかった。
ただ、その肩をしっかりと掴んだ。
「……帰る場所があるかどうかは、お前自身の目で確かめろ」
老兵は続けた。
「そのためにも、生きよ」
リオの瞳が、大きく見開かれた。
その頬を、涙が伝う。
「……はい……」
小さな返事だった。
しかし、その声には、確かにリオ自身の意志があった。
次の瞬間。
――パキンッ。
微かな音が響いた。
断ち切られた薔薇の根元に、細かな亀裂が走る。
黒い茨が、次々と枯れ始めた。
床を覆っていた茨。
壁を這っていた茨。
天井から垂れ下がっていた茨。
それらが、まるで命を失ったかのように崩れ落ちていく。
――ザ……ザザ……。
最後の雑音が、途切れた。
「……あ……」
リオの身体が、ゆっくりと傾いた。
アウグスは咄嗟にその身体を支える。
「……リオ」
返事はない。
だが、その顔からは、先ほどまでの狂気に満ちた笑みが消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、疲れ果てた一人の女の表情だった。
アウグスは、しばらくその顔を見つめていた。
そして。
「……まったく」
静かに息を吐く。
「最後まで、手のかかる従者ですね」
その声は、いつもの穏やかなものへと戻っていた。
かつての狂刃は、再び老兵の奥底へと姿を隠したのである。
だが、アウグスはまだ知らなかった。
この戦いが、何を意味していたのかを。
そして。
リオ・グランデが、何を知っていたのかを。
⸻
どれほどの時間が経っただろうか。
廃教会には、再び静寂が戻っていた。
崩れた天井から差し込む月光が、砕けた石畳を淡く照らしている。
アウグスは祭壇の傍らに腰を下ろしていた。
そのすぐ隣には、意識を失ったリオが横たわっている。
「……ふぅ」
老兵は懐から紙巻き煙草を取り出した。
一本を口に咥え、火をつける。
ゆっくりと煙を吐き出した。
「……随分と、長い夜になりましたね」
返事はない。
ただ、夜風が崩れた壁の隙間を通り抜けていった。
アウグスは、傍らの女へと視線を向ける。
かつての従者。
その顔には、もう不気味な笑みは浮かんでいなかった。
だが、首筋には黒い茨の痕が残っている。
両肩にも、花が咲いていた跡があった。
「……さて」
老兵は静かに呟いた。
「これで終わり……というわけには、いかないのでしょうね」
その時だった。
「……アウグス……様……」
かすかな声が聞こえた。
アウグスは煙草を指に挟み、ゆっくりと振り返る。
「……お目覚めですか」
リオが、薄く目を開けていた。
「……ここは……」
「グウィンラインの王都にある、古い教会ですよ」
「……教会……」
女の瞳が、僅かに揺れた。
そして。
「……あ……」
何かを思い出したかのように、顔色が変わった。
「……私……」
アウグスは黙っていた。
リオは震える手を持ち上げ、自身の顔に触れた。
「……私、は……」
その指先が、頬を伝う。
やがて、女の瞳から涙が零れ落ちた。
「……申し訳……ございません……」
「…………」
「……アウグス様……」
女は、震える声で続けた。
「……私は……取り返しのつかないことを……」
アウグスは、ゆっくりと煙を吐いた。
「……ええ」
短い返事だった。
リオの肩が震える。
「……ハイゼンベルムを……」
「知っています」
「……陛下を……」
「見ました」
「……あの子たちまで……」
その言葉を最後に、リオは声を詰まらせた。
アウグスは、何も言わなかった。
許すとも。
許さぬとも。
ただ、煙草の火が小さく揺れていた。
やがて、リオが口を開いた。
「……どうか……」
その声は、掠れていた。
「……どうか、私を……」
アウグスは、静かに彼女を見つめた。
「……殺して、ください……」
沈黙が落ちた。
崩れた天井の向こうで、夜風が鳴っている。
アウグスは煙草を口元へ運び、ゆっくりと吸い込んだ。
そして。
「……お断りします」
静かに答えた。
リオが顔を上げる。
「……なぜ……」
「あなたには、まだ働いていただかなければなりませんから」
「…………」
「死ぬのは、それからでも遅くないでしょう」
リオは、言葉を失った。
アウグスは続ける。
「……それに」
老兵は、僅かに目を細めた。
「私は、あなたに聞かなければならないことがあるのです」
「……何を……でしょうか……」
「あなたが、どこでその力を得たのか」
リオの瞳が揺れた。
「……そして」
アウグスは、静かに問いかけた。
「ほかの五人は、今どこにいるのです?」
――その瞬間。
リオの表情が、凍りついた。
「…………」
女は、震える唇を開いた。
「……アウグス様……」
「……はい」
「……まさか……」
リオの声が、掠れる。
「……まだ、ご存じないのですか……?」
アウグスは眉を寄せた。
「……何を、です?」
リオは俯いた。
その肩が、小刻みに震えている。
そして。
「……私たち六人は……」
かすれた声が、廃教会に響いた。
「……もう、人ではございません……」
アウグスは、黙っていた。
リオは震える指先を見つめながら、言葉を続ける。
「……二年前のことです」
「…………」
「私の前に……奇妙なものが現れました」
「……奇妙なもの?」
「はい……。空間に生じた、亀裂のような……いえ、あれを亀裂と呼んでよいのかも分かりません」
リオは、ゆっくりと首を振った。
「……絶えず、耳障りな音を立てていました。まるで、何かが壊れていくような……」
――ジジッ。
不意に、あの不協和音が脳裏を掠める。
リオは息を詰まらせた。
「……私は、それに触れてしまったのです」
「…………」
「それから先の記憶は……ほとんど残っておりません。思い出そうとしても、途切れ途切れの光景しか……」
女は、苦しげに目を伏せた。
「……ですが、アウグス様」
「……何でしょう」
「私だけでは、ないのです」
老兵の眼差しが、僅かに鋭くなった。
「……六つの大国へ送り込まれた、六人の密偵」
リオの声が震える。
「それぞれに何が起こったのか、私にも分かりません。ですが……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……その全員が……」
一筋の涙が、頬を伝った。
「……魔女と、なりました……」
煙草の火が、静かに燃え尽きようとしていた。
アウグスは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「…………そうですか」
ただ、それだけを口にした。
六つの大国。
六人の密偵。
そのすべてが、魔女となった。
かつて自らが祖国のために命じた任務。
その果てに、彼女たちは何を見たのか。
何を奪われ、何を失ったのか。
老兵には、まだ分からなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
彼女たちを、六つの大国へ送り込んだのは。
ほかならぬ、自分自身である。
「……なるほど」
アウグスは、静かに煙草を揉み消した。
「……どうやら、私の仕事は」
大鎌グリムリーパーへと視線を向ける。
「まだ、終わっていなかったようですね」
崩れた教会に、夜明け前の冷たい風が吹き込んだ。
そして、老兵は再び立ち上がった。
祖国を失い。
主君を失い。
守るべき者たちを失った男。
その背には、なおも大鎌があった。
かつて六大国を震え上がらせた、ハイゼンベルムの狂刃。
その刃が、次に向かう先は。
かつて自らが送り出した、五人の忠臣たちであった。




