↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

主人なき忠誠

――ジジジジジジッ。


耳を劈くような雑音が、廃教会に響き渡った。


女の白い肌を突き破るように生じた黒い茨は、石畳を這い、柱に絡みつき、崩れかけた天井へと伸び続けていた。


その中心に立つ女は、もはや笑ってはいなかった。


「……あ……ぁ……」


リオ・グランデ。


かつてハイゼンベルムに仕え、アウグスの傍らで幾多の戦場を駆け抜けた女。


その身体が、何かに抗うように激しく震えていた。


「……アウグス……様……」


か細い声が漏れる。


しかし、その声を掻き消すように、再び不協和音が鳴り響いた。


――ザザッ!!


「うふ……うふふふ……!」


女の口元が、無理やり吊り上がる。


「困りましたねぇ……アウグス様ぁ……♡」


その声は甘く、どこまでも不快だった。


「せっかく、せっかく……眠らせてあげていたのにぃ……♡」


「……眠らせていた?」


アウグスは静かに問い返した。


「ええ、そうですよぉ♡ だってぇ……」


女は自身の胸元に手を当てた。


「この子、とっても可哀想なんですものぉ?♡」


「…………」


「自分の手で国を滅ぼしてぇ、大好きな王様を殺してぇ……あんなに可愛がっていた子供たちまでぇ……♡」


「……黙りなさい」


「うふふ♡ あらぁ? どうしてですかぁ?」


女は首を傾げた。


「全部、本当のことなのにぃ♡」


アウグスの握る大鎌が、僅かに軋んだ。


だが、彼は動かなかった。


「……それ以上、その口で戯言を語ることは許さぬ」


低い声だった。


それまでの穏やかな響きは、既に失われていた。


「怖ぁい♡」


女は笑う。


「でもぉ、殺せないんでしょう? この身体を斬れば、あなたの大切なリオちゃんまで傷ついてしまうんですものねぇ♡」


その言葉とともに、無数の茨がアウグスへと向けられた。


「さぁ……どうするんですかぁ?♡」


老兵は答えなかった。


ただ、静かに大鎌を構え直す。


そして。


「……お前は、一つ勘違いをしているようだな」


「……あは?」


「私が、この女を斬れぬとでも思っているのか」


その声には、先ほどまでとは異なる威圧があった。


長い隠居生活のうちに、いつしか影を潜めていたもの。


かつて六大国の将兵が、その名を耳にするだけで戦慄したという、ハイゼンベルムの狂刃。


その片鱗が、老兵の言葉に滲み始めていた。


「うふふ……まさかぁ……斬れるとでも?♡」


「……斬るとも」


アウグスは一歩、前へ出た。


「たとえそれが、かつての友であろうが。忠臣であろうが」


女の笑みが、僅かに引きつった。


「……だがな」


老兵は続けた。


「斬るべきものを見誤るほど――」


大鎌の刃先が、ゆっくりと持ち上がる。


「我が刃は、錆びてはおらぬッ!!」


その一喝が、廃教会に響き渡った。


「……ッ!」


女の瞳が、僅かに見開かれる。


そこに立っていたのは、もはや隠居した一人の老人ではなかった。


かつて幾千もの屍を越え、祖国のために刃を振るい続けた男。


――ハイゼンベルムの狂刃。


「……うふ……うふふふ♡」


女は笑みを取り戻した。


「それならぁ……試してみましょうかぁッ!!」


――ヒュンッ!!


黒い茨が、一斉に襲いかかった。


アウグスは大鎌を振るう。


――ザンッ!!


迫り来る茨を断ち切り、さらに一歩踏み込む。


だが、切断された茨は瞬く間に再生した。


「うふふ♡ 無駄ですよぉ!!」


「……ならば、再び斬るまでだ」


老兵は短く答えた。


そして、再び鎌を振るう。


――ザシュッ!!


一本。


――ザンッ!!


二本。


断ち切るたびに、新たな茨が生えてくる。


際限のない再生。


それは、いかなる剣豪であろうと、いずれ力尽きることを意味していた。


ましてや、今のアウグスは老いている。


呼吸は荒く、脇腹からは血が滲んでいた。


裂かれた腕もまた、身体を動かすたびに疼く。


「……はぁ……はぁ……」


「どうしましたぁ? もうお疲れですかぁ?♡」


女の声が響く。


「うふふ♡ それでは、もう少し遊んで差し上げましょうかぁ!!」


――ゴォッ!!


巨大な茨が、教会の天井から振り下ろされた。


アウグスは身を翻し、その一撃を躱す。


――ドォンッ!!


石畳が砕け散った。


飛び散った破片が頬を掠める。


その瞬間。


アウグスの視線が、女の両肩へと向けられた。


そこには、再び二輪の薔薇が咲いていた。


先ほどアンダーワイズによって断ち切ったはずの花。


それが、既に元の姿へと戻っていたのである。


「…………」


アウグスは目を細めた。


女の脚は再生した。


茨も再生する。


ならば、あの花が再び咲くこと自体は不思議ではない。


だが、一つだけ奇妙なことがあった。


リオは、あの二輪の薔薇を斬られた瞬間、明らかに動揺していた。


それも、単に肉体を傷つけられた者の反応ではない。


あれほど余裕に満ちていた女が、初めて恐怖を露わにしたのである。


そして、その直後。


本来のリオと思しき声が聞こえた。


――偶然、か。


アウグスは静かに考えた。


戦場において、偶然という言葉ほど頼りにならぬものはない。


しかし、偶然を見過ごす者もまた、長くは生き残れない。


「……一つ、試してやろう」


「……あは?♡」


女が首を傾げた。


アウグスは大鎌を構え直す。


そして、真っ直ぐにリオへと駆け出した。


「うふふ♡ 正面からですかぁ!?」


黒い茨が、老兵を迎え撃つ。


一本目を躱す。


二本目を大鎌の柄で受け流す。


三本目。


――ザンッ!!


刃を振り上げ、その根元を断ち切る。


「……ッ!」


脇腹に痛みが走る。


だが、足は止めなかった。


「な……何を……!」


女が初めて、後退した。


アウグスは鎌を振り抜く。


狙いは首ではない。


心臓でもない。


右肩に咲く、深紅の薔薇。


――ザシュッ!!


花弁が散った。


「ぎ……ッ!!」


リオの身体が大きく仰け反る。


同時に、周囲の茨が一瞬だけ動きを止めた。


「……やはりな」


アウグスは呟いた。


しかし、まだ確信には至らない。


「……ならば、こちらはどうだ」


大鎌を引き戻し、左肩へと振るう。


――ザンッ!!


もう一輪の薔薇が、断ち切られた。


「――あああああッ!!」


女の口から、悲鳴が迸った。


そして。


――ザザザザザッ!!


凄まじい雑音とともに、リオの身体が崩れ落ちた。


「……ぁ……」


女は石畳に膝をつく。


両肩から黒い液体が滴り落ち、震える指先が床を掻いた。


「……アウ……グス……様……」


今度は、はっきりと聞こえた。


アウグスは動きを止めた。


「……リオ」


「……逃げ……て……」


「…………」


「……私……もう……」


その言葉は、最後まで続かなかった。


――ジジッ!!


「……うふ……」


女の唇が、再び吊り上がる。


「うふふふふ……!!」


しかし、その笑い声は先ほどまでのものとは違っていた。


震えていた。


明らかに、怯えていた。


「……やめて……」


女の口から、小さな声が漏れる。


「……やめて……ください……」


「…………」


アウグスは、ゆっくりと歩み寄った。


「……リオ」


女は顔を伏せたまま、震えている。


「……私は……」


かすれた声。


「……私は……あの子たちを……」


その言葉に、アウグスの足が止まった。


脳裏に浮かんだのは、荒らされた孤児院である。


小さな寝台。


散乱した玩具。


そして、二度と目を覚ますことのない子供たち。


「……知っている」


老兵は低く答えた。


「…………」


「私は、すべて見てきた」


リオの肩が震えた。


「……申し……訳……」


「……今は謝罪など要らぬ」


アウグスは言葉を遮った。


「まずは、その身体を取り戻せ」


「……ですが……」


「リオ」


老兵は、静かにその名を呼んだ。


「お前には、まだ聞かねばならぬことが山ほどある」


女は顔を上げた。


その瞳には、確かに涙が浮かんでいた。


「……アウグス……様……」


しかし。


――バキッ!!


突然、リオの胸元から黒い茨が突き出した。


「……ッ!!」


アウグスは咄嗟に身を引く。


次の瞬間、無数の茨が女の身体を覆い始めた。


肩。


腕。


首。


そして、顔。


まるで、内側にいる何かを閉じ込めようとするかのように。


「う……あ……!」


「……リオ!」


「……いや……!」


女の声が震えた。


「……もう……いや……!」


――ザザザザザザッ!!


雑音が、教会全体を満たした。


そして。


「アハハハハハハハッ!!!!」


狂った笑い声が響き渡った。


「残念でしたぁ!! 残念、残念、ざぁんねん♡」


黒い茨に覆われた女が、ゆっくりと立ち上がる。


「せっかく、もう少しで……」


その声が、低く歪んだ。


「……もう少しで、全部終わらせられたのに」


「…………」


アウグスは大鎌を構え直した。


女は、彼を睨みつける。


「どうして邪魔をするんですかぁ……?」


「……邪魔だと?」


「そうですよぉ……! この子はもう、何も知らなくてよかったのに……!」


黒い茨が、女の足元で蠢いた。


「大好きな国も、王様も、子供たちも……全部、自分で壊したって知ったら……」


――ジジッ。


「……壊れちゃうでしょう?」


アウグスは答えなかった。


女は続ける。


「だから眠らせてあげたんですぅ……! 優しいでしょう? 私って……!」


「…………」


「それなのに、あなたが……!」


女の声が、次第に荒くなっていく。


「あなたが、余計なことをするからぁッ!!」


――ドォンッ!!


巨大な茨が、石畳を砕いた。


アウグスは横へと跳び、その一撃を躱す。


だが、着地した瞬間、膝が僅かに沈んだ。


「……ぐッ」


疲労が、限界に近づいていた。


呼吸は荒い。


視界も、僅かに揺れている。


このまま戦い続ければ、いずれ身体が動かなくなるだろう。


「……ふむ」


アウグスは静かに息を吐いた。


「この老体も、そう長くは持たぬか」


「うふふ♡ ようやく分かりましたかぁ?」


「……ああ」


老兵は、ゆっくりと大鎌の柄を握り直した。


「ならば、そろそろ終わらせるとしよう」


女の笑みが止まった。


「……何を……」


「先ほどから、お前の攻撃を見ていた」


アウグスは静かに告げる。


「茨の伸びる方向。再生する速度。そして、あの二輪の花」


「…………」


「見事な力だ。だが、力に頼るばかりでは、戦場で生き残れぬ」


老兵は、一歩踏み込んだ。


「お前は、戦い慣れていない」


女の顔が歪んだ。


「……は?」


「相手の動きを読まず、力任せに攻撃を繰り返す。次の一手すら考えておらぬ」


「……黙れ……」


「何より」


アウグスの眼光が、鋭くなる。


「リオの身体を使っていながら、あやつの剣を一度として見せておらぬ」


――ザザッ!!


女の身体が、大きく震えた。


「……黙れッ!!」


無数の茨が、一斉に襲いかかった。


アウグスは動かなかった。


ただ、迫り来る黒い茨を見据えている。


一本目。


二本目。


三本目。


それらが重なり、巨大な黒い奔流となって老兵へと迫る。


「死ねぇぇぇッ!!!!」


その瞬間。


アウグスは、大鎌の柄を握る手から力を抜いた。


刃先が、静かに下がる。


構えと呼べるほどの構えはない。


ただ、老兵が一人、そこに立っていた。


「……リオ」


低い声が響いた。


「お前には、まだ見せたことがなかったな」


黒い茨が迫る。


「……あは? 何を言って――」


「かつての私は、力こそがすべてだと思っていた」


アウグスは続けた。


「だが、戦場に立ち続けるうちに、一つだけ悟ったことがある」


老兵の呼吸が、静かに整っていく。


「真に恐ろしい刃とは、振るわれたことすら悟らせぬものだ」


女の笑みが消えた。


「……な……に……?」


アウグスは、僅かに目を細めた。


「……見えているか」


それは、リオに向けた言葉だった。


「これが、我が剣の到達点だ」


――絶技。


『神凪(かんなぎ)』。


音は、なかった。


風を裂く音も。


刃が茨を断つ音も。


何一つとして。


ただ、静寂だけがあった。


「……あは?」


女が首を傾げた。


老兵は、先ほどと変わらぬ場所に立っていた。


大鎌グリムリーパーの刃先は、静かに石畳へと向けられている。


踏み込んだ形跡もない。


刃を振り抜いた姿勢ですらない。


何も起きていない。


そう見えた。


しかし。


――はらり。


黒い茨の先端が、石畳へと落ちた。


続いて、一本。


また一本。


女を守るように幾重にも重なっていた茨が、次々と崩れ始める。


「……え?」


そして。


両肩に咲いていた二輪の薔薇が、音もなく宙を舞った。


「……な……」


女の瞳が、大きく見開かれる。


「……何を……した……?」


斬撃は見えなかった。


いや。


それ以前に。


斬撃が放たれたことすら、理解できなかった。


女は気づいていなかった。


アウグスが鎌を下ろし、リオへと語りかけたあの時。


すでに、すべての斬撃は終わっていたのである。


「……馬鹿な……」


女の唇が震える。


「……そんな……そんなはず……!」


アウグスは、静かに女を見据えた。


「……これが、神凪だ」


その声には、かつての狂刃の威圧が残っていた。


「斬るべきもののみを斬り、余計なものには刃を触れさせぬ」


老兵は、女を見据える。


「お前のような紛い物に、リオの命までくれてやるものか」


――ザザザザザッ!!


凄まじい雑音が鳴り響いた。


「――あああああああッ!!!!」


女の悲鳴が、廃教会に響き渡る。


黒い茨が激しく蠢いた。


しかし、先ほどまでとは違う。


その動きは乱れ、互いに絡み合い、まるで自らの身体を締めつけるかのようだった。


「……いや……!」


女の口から、かすれた声が漏れる。


「……やめ……て……!」


アウグスは、大鎌を石畳へと立てた。


そして、ゆっくりと歩み寄る。


「……リオ」


女は顔を上げた。


「……アウグス……様……?」


「聞こえるか」


「……はい……」


「ならば、よく聞け」


老兵は、静かに告げた。


「お前が何をしたのか、私は忘れぬ」


リオの瞳から、涙が零れ落ちた。


「……はい……」


「お前を許せるかどうかも、今は分からぬ」


「…………」


「だがな」


アウグスは、残された手を伸ばした。


「このまま、お前の身体を何者とも知れぬ化け物にくれてやるつもりはない」


リオの唇が震える。


「……アウグス……様……」


「戻ってこい、リオ」


老兵は、はっきりと告げた。


「お前の罪は、お前自身の足で背負え」


――ジジッ。


雑音が、途切れた。


ほんの一瞬。


だが、確かに。


女の身体から、力が抜けた。


「……私……」


リオの声が、震えていた。


「……帰っても……よろしいのでしょうか……」


アウグスは答えなかった。


ただ、その肩をしっかりと掴んだ。


「……帰る場所があるかどうかは、お前自身の目で確かめろ」


老兵は続けた。


「そのためにも、生きよ」


リオの瞳が、大きく見開かれた。


その頬を、涙が伝う。


「……はい……」


小さな返事だった。


しかし、その声には、確かにリオ自身の意志があった。


次の瞬間。


――パキンッ。


微かな音が響いた。


断ち切られた薔薇の根元に、細かな亀裂が走る。


黒い茨が、次々と枯れ始めた。


床を覆っていた茨。


壁を這っていた茨。


天井から垂れ下がっていた茨。


それらが、まるで命を失ったかのように崩れ落ちていく。


――ザ……ザザ……。


最後の雑音が、途切れた。


「……あ……」


リオの身体が、ゆっくりと傾いた。


アウグスは咄嗟にその身体を支える。


「……リオ」


返事はない。


だが、その顔からは、先ほどまでの狂気に満ちた笑みが消えていた。


代わりに浮かんでいたのは、疲れ果てた一人の女の表情だった。


アウグスは、しばらくその顔を見つめていた。


そして。


「……まったく」


静かに息を吐く。


「最後まで、手のかかる従者ですね」


その声は、いつもの穏やかなものへと戻っていた。


かつての狂刃は、再び老兵の奥底へと姿を隠したのである。


だが、アウグスはまだ知らなかった。


この戦いが、何を意味していたのかを。


そして。


リオ・グランデが、何を知っていたのかを。


⸻


どれほどの時間が経っただろうか。


廃教会には、再び静寂が戻っていた。


崩れた天井から差し込む月光が、砕けた石畳を淡く照らしている。


アウグスは祭壇の傍らに腰を下ろしていた。


そのすぐ隣には、意識を失ったリオが横たわっている。


「……ふぅ」


老兵は懐から紙巻き煙草を取り出した。


一本を口に咥え、火をつける。


ゆっくりと煙を吐き出した。


「……随分と、長い夜になりましたね」


返事はない。


ただ、夜風が崩れた壁の隙間を通り抜けていった。


アウグスは、傍らの女へと視線を向ける。


かつての従者。


その顔には、もう不気味な笑みは浮かんでいなかった。


だが、首筋には黒い茨の痕が残っている。


両肩にも、花が咲いていた跡があった。


「……さて」


老兵は静かに呟いた。


「これで終わり……というわけには、いかないのでしょうね」


その時だった。


「……アウグス……様……」


かすかな声が聞こえた。


アウグスは煙草を指に挟み、ゆっくりと振り返る。


「……お目覚めですか」


リオが、薄く目を開けていた。


「……ここは……」


「グウィンラインの王都にある、古い教会ですよ」


「……教会……」


女の瞳が、僅かに揺れた。


そして。


「……あ……」


何かを思い出したかのように、顔色が変わった。


「……私……」


アウグスは黙っていた。


リオは震える手を持ち上げ、自身の顔に触れた。


「……私、は……」


その指先が、頬を伝う。


やがて、女の瞳から涙が零れ落ちた。


「……申し訳……ございません……」


「…………」


「……アウグス様……」


女は、震える声で続けた。


「……私は……取り返しのつかないことを……」


アウグスは、ゆっくりと煙を吐いた。


「……ええ」


短い返事だった。


リオの肩が震える。


「……ハイゼンベルムを……」


「知っています」


「……陛下を……」


「見ました」


「……あの子たちまで……」


その言葉を最後に、リオは声を詰まらせた。


アウグスは、何も言わなかった。


許すとも。


許さぬとも。


ただ、煙草の火が小さく揺れていた。


やがて、リオが口を開いた。


「……どうか……」


その声は、掠れていた。


「……どうか、私を……」


アウグスは、静かに彼女を見つめた。


「……殺して、ください……」


沈黙が落ちた。


崩れた天井の向こうで、夜風が鳴っている。


アウグスは煙草を口元へ運び、ゆっくりと吸い込んだ。


そして。


「……お断りします」


静かに答えた。


リオが顔を上げる。


「……なぜ……」


「あなたには、まだ働いていただかなければなりませんから」


「…………」


「死ぬのは、それからでも遅くないでしょう」


リオは、言葉を失った。


アウグスは続ける。


「……それに」


老兵は、僅かに目を細めた。


「私は、あなたに聞かなければならないことがあるのです」


「……何を……でしょうか……」


「あなたが、どこでその力を得たのか」


リオの瞳が揺れた。


「……そして」


アウグスは、静かに問いかけた。


「ほかの五人は、今どこにいるのです?」


――その瞬間。


リオの表情が、凍りついた。


「…………」


女は、震える唇を開いた。


「……アウグス様……」


「……はい」


「……まさか……」


リオの声が、掠れる。


「……まだ、ご存じないのですか……?」


アウグスは眉を寄せた。


「……何を、です?」


リオは俯いた。


その肩が、小刻みに震えている。


そして。


「……私たち六人は……」


かすれた声が、廃教会に響いた。


「……もう、人ではございません……」


アウグスは、黙っていた。


リオは震える指先を見つめながら、言葉を続ける。


「……二年前のことです」


「…………」


「私の前に……奇妙なものが現れました」


「……奇妙なもの?」


「はい……。空間に生じた、亀裂のような……いえ、あれを亀裂と呼んでよいのかも分かりません」


リオは、ゆっくりと首を振った。


「……絶えず、耳障りな音を立てていました。まるで、何かが壊れていくような……」


――ジジッ。


不意に、あの不協和音が脳裏を掠める。


リオは息を詰まらせた。


「……私は、それに触れてしまったのです」


「…………」


「それから先の記憶は……ほとんど残っておりません。思い出そうとしても、途切れ途切れの光景しか……」


女は、苦しげに目を伏せた。


「……ですが、アウグス様」


「……何でしょう」


「私だけでは、ないのです」


老兵の眼差しが、僅かに鋭くなった。


「……六つの大国へ送り込まれた、六人の密偵」


リオの声が震える。


「それぞれに何が起こったのか、私にも分かりません。ですが……」


彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


「……その全員が……」


一筋の涙が、頬を伝った。


「……魔女と、なりました……」


煙草の火が、静かに燃え尽きようとしていた。


アウグスは、しばらく何も言わなかった。


そして。


「…………そうですか」


ただ、それだけを口にした。


六つの大国。


六人の密偵。


そのすべてが、魔女となった。


かつて自らが祖国のために命じた任務。


その果てに、彼女たちは何を見たのか。


何を奪われ、何を失ったのか。


老兵には、まだ分からなかった。


だが、一つだけ確かなことがあった。


彼女たちを、六つの大国へ送り込んだのは。


ほかならぬ、自分自身である。


「……なるほど」


アウグスは、静かに煙草を揉み消した。


「……どうやら、私の仕事は」


大鎌グリムリーパーへと視線を向ける。


「まだ、終わっていなかったようですね」


崩れた教会に、夜明け前の冷たい風が吹き込んだ。


そして、老兵は再び立ち上がった。


祖国を失い。


主君を失い。


守るべき者たちを失った男。


その背には、なおも大鎌があった。


かつて六大国を震え上がらせた、ハイゼンベルムの狂刃。


その刃が、次に向かう先は。


かつて自らが送り出した、五人の忠臣たちであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。