母との別れ
エレノアが亡くなってから、数日。
ローゼンベルク伯爵家では、葬儀の準備が進められていた。
屋敷には黒い布が掛けられ、庭に咲いていた花々も、まるで悲しみに沈んでいるかのように静まり返っている。
その中央に、エレノアの棺が置かれていた。
美しい顔は眠っているように穏やかだった。
けれど――。
もう二度と、その瞳が開くことはない。
まだ六歳のエリシアには、それがどうしても理解できなかった。
「お母様……」
棺の前に立ち、エリシアは母の顔を見つめる。
「起きて……」
小さな手が、棺の縁を握りしめる。
「今日も一緒にいようよ……」
返事はない。
「ねえ、お母様……」
エリシアの声が震える。
「どうして寝てるの……?」
そのとき、屋敷の入口から馬車の音が聞こえた。
エレノアの実家――ヴァレンシュタイン辺境伯家の一行だった。
祖父グスタフ。
祖母マルガレーテ。
そしてエレノアの兄、レオンハルト。
その後ろには、まだ幼い二人の息子、アレクシスとルシアンもいる。
馬車から降りたグスタフは、屋敷を見上げた。
その表情は、普段の厳格な辺境伯のものではなかった。
娘を失った父親の顔だった。
「……エレノア」
小さく呟く。
隣にいたマルガレーテは、顔を伏せて涙を拭った。
「どうして……私たちより先に……」
二人はゆっくりと屋敷の中へ入っていく。
そして、エレノアの棺を目にした瞬間。
マルガレーテの目から、涙が溢れた。
「エレノア……」
娘の名を呼ぶ声が震える。
グスタフも、棺の前に立った。
しばらく何も言えない。
ただ、じっと娘の顔を見つめていた。
やがて、大きな手が震えた。
「……私より先に逝くなんて」
その声は、かすれていた。
「お前は……まだ若かっただろう」
隣にいたレオンハルトも唇を噛みしめている。
妹だった。
いつも笑っていた妹。
幼い頃は自分の後ろをついて回っていた妹。
それが、もういない。
「エレノア……」
アレクシスとルシアンも、母親の服をぎゅっと握っている。
二人にとっても、大好きな叔母だった。
「母さん……エレノア叔母様、起きないの?」
ルシアンが小さな声で尋ねる。
レオンハルトは答えられなかった。
「……眠っているんだ」
それだけを言うのが精一杯だった。
***
その後も、弔問客が次々と訪れた。
そして――。
「ヴィクトール侯爵夫妻がお見えになりました」
その知らせに、エリシアが顔を上げた。
クラリッサが入ってくる。
その隣にはヴィクトール侯爵。
そして二人の子ども、エドワードとアリスの姿があった。
「エリシア……」
クラリッサは、エリシアを見るなり目を潤ませた。
「クラリッサおば様……」
エリシアが駆け寄ろうとする。
けれど、その足は途中で止まった。
「……お母様が」
それだけ言った途端。
エリシアの目から涙が溢れた。
「お母様が……いなくなっちゃったの……」
クラリッサはしゃがみ込み、エリシアを抱きしめる。
「エリシアちゃん……」
「お母様、起きないの……」
「……ええ」
「昨日までいたのに……」
「……」
「一緒にお庭に行くって約束したのに……」
エリシアはクラリッサの胸に顔を埋めた。
「お母様……私を置いていかないで……」
「エリシアちゃん……」
クラリッサも涙を堪えられなかった。
エレノアと過ごした時間が、次々と思い出される。
笑い合った日。
お茶を飲みながら話した日。
子どもたちを眺めながら、
「ずっと仲良くしてくれたら嬉しいわ」
と笑っていたエレノア。
――まさか、こんなに早く別れが来るなんて。
「エリシアちゃんを置いていくなんて……」
クラリッサの声も震える。
「きっと……エレノアも、どれほど無念だったことでしょう」
エリシアを抱きしめる腕に力が入る。
「私ができるだけ、エリシアちゃんの力になるわ」
「……うっ……」
エリシアは声を上げて泣いた。
「お母様ぁ……!」
その泣き声を聞いて、エドワードも俯いた。
いつも一緒に遊んでいたエリシアが、こんなに泣いている。
何を言えばいいのか分からない。
けれど、そばにいたかった。
「エリィ……」
小さく名前を呼ぶ。
エリシアが顔を上げる。
涙で濡れた顔。
「エド……お兄様……」
エドワードは、そっと近づいた。
「……僕も、ずっと友達だから」
幼いながらも、一生懸命に言葉を探す。
「だから……一人じゃないよ」
エリシアは唇を震わせた。
そして再び、クラリッサの胸に顔を埋めた。
「うわぁぁん……!」
泣き声が屋敷に響き渡る。
アリスもつられて泣き出した。
「エリねーちゃま……」
小さな声で、何度もエリシアの名前を呼ぶ。
***
しばらくして。
今度はアーヴィンの両親――ローゼンベルク伯爵家の先代夫妻も到着した。
エレノアの葬儀に参列するためだった。
二人もまた、エレノアの死に大きな衝撃を受けていた。
「……こんなことになるなんて」
祖母が棺の前で涙を流す。
「まだ若かったのに……」
アーヴィンの父も深く息を吐いた。
「アーヴィン……」
「父上」
二人の視線が交わる。
そこには、妻を失った息子への心配があった。
そして、そのそばに立つ小さな少女。
エリシア。
母を失った悲しみで、泣き疲れている。
アーヴィンの母は、エリシアの前にしゃがんだ。
「エリシアちゃん……」
「……」
エリシアは答えられない。
「おばあ様よ。分かる?」
小さく頷く。
「……はい」
「つらいわね」
エリシアは唇を噛んだ。
そして、また涙が溢れる。
「お母様が……」
言葉が続かない。
「お母様が、私を置いていっちゃった……」
アーヴィンの母は、そっと少女を抱きしめた。
「大丈夫よ」
けれど、その言葉は自分自身にも言い聞かせるようだった。
***
葬儀が始まった。
エレノアの棺を前に、皆が静かに祈りを捧げる。
エリシアは父親の隣に立っていた。
小さな手が、アーヴィンの服を握っている。
「お父様……」
「どうした?」
「お母様……帰ってくる?」
アーヴィンの胸が締めつけられる。
「……」
答えられない。
「お母様、私とお庭に行くって約束したの」
「……ああ」
「だから……帰ってくるよね?」
アーヴィンは目を閉じた。
そして娘を抱きしめた。
「エリシア……」
「うん……」
「お母様は……もう帰ってこないんだ」
「……いや」
「エリシア」
「嫌ぁ……!」
少女は父の腕の中で泣き崩れた。
「お母様ぁ……!」
「私を置いていかないで……!」
「お母様ぁ……!」
その声を聞き、参列者たちも目を伏せる。
グスタフも。
マルガレーテも。
レオンハルトも。
クラリッサも。
誰もが涙を流していた。
愛する娘。
大切な友人。
優しい母。
そして、幼い少女の母親。
エレノアという一人の女性を失った悲しみは、あまりにも大きかった。
その日。
エリシアは、大好きだった母に最後の別れを告げた。
けれど――。
六歳の少女にとって、それは「別れ」という言葉だけでは到底受け止められないものだった。
ただ、母にもう一度会いたい。
もう一度、抱きしめてほしい。
もう一度、「大好き」と言ってほしい。
それだけを願いながら。
エリシアは泣き続けた。
その小さな手には、母が最後にくれた約束のぬくもりだけが残っていた。




