お母様との約束
ヴィクトール侯爵家から帰った翌朝。
エリシアはいつもより早く目を覚ました。
「お母様!」
寝室へ駆け込むと、エレノアは窓辺の椅子に座り、庭を眺めていた。
「まあ、エリシア。おはよう」
「おはようございます!」
エリシアは母の膝に飛びつく。
「昨日ね、すっごく楽しかったの!」
「ふふ。そうね」
「アリスちゃんといっぱい走ったの。エドお兄様も一緒に!」
「そんなに走ったの?」
「うん!」
エリシアは昨日の出来事を一つ一つ母に話して聞かせる。
エレノアは嬉しそうに頷きながら聞いていた。
けれど――。
「……っ」
ふいにエレノアが小さく咳き込んだ。
「お母様?」
「大丈夫よ」
エレノアは口元をハンカチで覆う。
「少し喉が乾いただけ」
「お水、持ってくる?」
「ありがとう。でも大丈夫」
エレノアは笑って、娘の髪を撫でた。
そのとき。
ハンカチを握った手が、ほんの少し震えていた。
けれど、エリシアは気づかなかった。
「ねえ、お母様」
「なあに?」
「今度はアリスちゃんたちが、私のおうちに来るのよ!」
「まあ、それは楽しみね」
「お母様も一緒に遊ぶ?」
「ええ。もちろん」
「約束よ!」
エリシアが小指を差し出す。
エレノアも笑って、その小指に自分の小指を絡めた。
「約束」
「ゆびきりげんまん!」
エリシアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見つめながら、エレノアはほんの少しだけ目を伏せた。
――約束。
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
***
昼食の時間。
いつもならエリシアと同じ料理を楽しむエレノアだったが、その日はスープを少し口にしただけだった。
「お母様、食べないの?」
「少し食欲がないの」
「お腹痛い?」
「いいえ。大丈夫よ」
そう言って微笑む。
「今日は朝から少し疲れてしまったみたい」
「昨日いっぱい遊んだから?」
「そうかもしれないわね」
エリシアは納得したように頷いた。
その向かいでは、アーヴィンが妻の様子を黙って見つめていた。
「エレノア」
「なあに?」
「最近、少し痩せたんじゃないか?」
「そう?」
エレノアは自分の頬に触れた。
「気のせいよ」
「だが――」
「あなたが心配しすぎなの」
エレノアは明るく笑った。
「私は大丈夫よ」
アーヴィンはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その目には心配の色が浮かんでいた。
***
午後。
エレノアは自室へ戻った。
扉が閉じる。
「奥様……」
待っていた侍女が心配そうに声をかける。
「大丈夫よ」
「ですが……」
「エリシアの前では言わないでちょうだい」
「……はい」
エレノアは椅子に腰を下ろした。
少し息が苦しい。
胸に手を当て、ゆっくりと呼吸を整える。
「まだ……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
「まだ、この子のそばにいられるわ」
侍女は何も言えなかった。
実は少し前から、エレノアは医師の診察を受けていた。
原因の分からない倦怠感。
繰り返す微熱。
食欲の低下。
そして、ときおり襲ってくる息苦しさ。
医師はまだ病名を断定していなかった。
だからこそ、エレノアはアーヴィンにも詳しく話していなかった。
「大したことではない」
そう思いたかった。
何より――。
エリシアに心配をかけたくなかった。
***
数日後。
エレノアはクラリッサとお茶をしていた。
「エレノア、少し痩せた?」
「そうかしら?」
「ええ。以前より顔色もよくないわ」
「最近少し忙しかったからかもしれないわね」
クラリッサは納得していない様子だった。
「無理していない?」
「大丈夫よ」
エレノアはいつものように笑う。
「それより、エリシアがね――」
「またあの子の話?」
「ええ。昨日もエドとアリスちゃんの話ばかりしていたわ」
二人の母親は顔を見合わせて笑った。
「本当に仲良しね」
「ええ」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「エリシアには、あの子たちがいてくれて本当によかったと思うわ」
「もちろんよ。私たちもあの子を大切にするわ」
「ありがとう、クラリッサ」
エレノアは心から感謝した。
けれど、その直後。
「……っ」
また咳が出た。
今度は先ほどより長い。
「エレノア?」
「ごめんなさい」
エレノアはハンカチを口元に当てる。
「本当に大丈夫?」
「ええ」
そう答えたものの、ハンカチには――。
ほんの少しだけ、赤いものが滲んでいた。
エレノアはそれを誰にも見られないよう、そっと握りしめた。
***
それからしばらくして。
屋敷に医師が訪れた。
エリシアは庭で遊んでいたため、そのことを知らなかった。
診察室から出てきた医師の表情は重かった。
「……奥様」
「先生」
「もう、これ以上隠すのは難しいかと」
「……そうですか」
エレノアは静かに目を伏せた。
「詳しい検査が必要です」
「分かっています」
「場合によっては――」
医師が言葉を止める。
エレノアはその先を察した。
「どのくらい……ですか?」
「まだ断定はできません」
「そう……」
エレノアは胸元で手を握りしめた。
そして、窓の外を見る。
そこには庭を走るエリシアの姿があった。
「エリシア……」
小さな娘が笑っている。
その姿を見つめながら、エレノアは呟いた。
「この子がもう少し大きくなるまで……」
声が震える。
「そばにいてあげたいわ」
***
それから数か月。
エレノアの体調は、少しずつ悪くなっていった。
階段を上るだけで息が切れる。
長時間歩くことも難しくなった。
けれど、娘の前ではいつも笑っていた。
「お母様、今日は一緒にお庭に行ける?」
「ええ」
「本当?」
「もちろんよ」
「やった!」
エリシアが嬉しそうに母の手を取る。
エレノアも立ち上がろうとする。
しかし――。
一瞬、身体がふらついた。
「お母様?」
「……大丈夫よ」
エレノアは娘の手を握り直した。
「ちょっと立ちくらみしただけ」
「お休みする?」
「ありがとう。でも大丈夫」
そして二人はゆっくり庭へ向かった。
エリシアには分からなかった。
母が以前のように歩けなくなっていることも。
母が時々、一人で苦しそうに息をしていることも。
そして――。
母が、自分と過ごせる時間を一日一日、大切に数えていることも。
***
ある夜。
エレノアはベッドの中で眠っていた。
隣にはエリシアがいる。
「お母様……」
「どうしたの?」
「ずっと一緒にいてね」
寝ぼけた娘が、母の服を小さな手で握っている。
エレノアの胸が締めつけられる。
「……ええ」
「ずっと?」
「ずっとよ」
「約束?」
「約束」
エレノアは娘の額に口づけた。
「エリシア」
「なあに……?」
「あなたはね、とても愛されているのよ」
「……うん」
「お父様も、お母様も、あなたが大好き」
「私も大好き」
エリシアは安心したように眠りについた。
エレノアはその寝顔を、いつまでも見つめていた。
そして静かに涙をこぼした。
――もしも、この子のそばにいられなくなったら。
そんな考えが頭をよぎる。
「……嫌」
エレノアは小さく首を振った。
「まだ、この子を置いていきたくない……」
***
それから数日後。
エレノアの容体が急激に悪化した。
医師が呼ばれ、屋敷中が慌ただしくなる。
エリシアは部屋の外で、侍女に抱きしめられていた。
「お母様は?」
「大丈夫ですよ」
「でも、先生がいっぱい来てる……」
「大丈夫です」
侍女はそう言いながら、涙を堪えていた。
やがて、部屋の中からアーヴィンが出てくる。
その顔を見た瞬間。
エリシアは不安そうに駆け寄った。
「お父様……?」
アーヴィンは娘を抱きしめる。
「エリシア……」
「お母様は?」
答えられない。
「お母様は大丈夫?」
「……ああ」
アーヴィンは震える声で答えた。
「大丈夫だ」
その夜。
エレノアは夫を呼んだ。
「あなた……」
「ここにいる」
アーヴィンは妻の手を握る。
「エリシアを……お願い」
「何を言っている」
「この子を、幸せにしてあげて」
「そんなことは、お前が自分で言えばいい」
「……ごめんなさい」
エレノアは微笑んだ。
「私、もう……あまり時間がないみたい」
「言うな!」
アーヴィンの目から涙が落ちる。
「必ず治す。どんな治療でも受ければいい」
「あなた……」
「私はまだ、お前を失うつもりはない」
エレノアは夫の手を握り返した。
「ありがとう」
そして、静かに告げる。
「でも……もしものときは」
「……」
「エリシアを一人にしないで」
「約束する」
「絶対に?」
「ああ。絶対にだ」
エレノアは安心したように微笑んだ。
「ありがとう……」
翌朝。
エリシアはいつものように母の部屋へ向かった。
「お母様、おはよう!」
返事がない。
「お母様?」
扉を開ける。
そこには、静かに眠っている母の姿があった。
「お母様、起きて」
小さな手で母の肩を揺する。
「今日はね、お庭に行く約束でしょう?」
返事はない。
「お母様……?」
エリシアの声が震える。
その後ろで、侍女が泣いていた。
エリシアは振り返る。
「……どうして泣いてるの?」
そして再び母を見る。
「お母様……?」
その瞬間。
幼い少女は、まだ理解できないながらも悟った。
何か、とても大切なものが。
もう二度と戻ってこないのだと。
「……嫌」
小さな声が漏れる。
「お母様……」
その声は、次第に大きくなっていった。
「お母様……起きて……」
「昨日、約束したでしょう……?」
「一緒にお庭に行くって……」
エリシアの泣き声が、静かな屋敷に響き渡った。
母との最後の約束。
それは、幼いエリシアの心に残り続けることになる。
そしてアーヴィンもまた、亡き妻との約束を胸に刻んだ。
――この子を、必ず幸せにする。
その約束が。
やがて彼自身を苦しめることになるとは、このときの彼はまだ知らなかった。




