さようなら、私の家
――朝の光が、静かに部屋へ差し込んでいた。
エリシアは、ゆっくりと瞼を開いた。
「……ここ、は……?」
ぼんやりと天井を見つめる。
身体が重い。
けれど、息ができる。
少しずつ意識が戻ってくると、ベッドのそばに誰かがいることに気がついた。
「エリシア……?」
震える声。
アーヴィンだった。
その声を聞いた瞬間、部屋にいた人たちが一斉に振り向いた。
「エリシア!」
「お嬢様……!」
ミリアが涙を流しながら駆け寄る。
クラリッサも、エドワードも、ソフィアも、カイルも。
そして、グスタフとマルガレーテ、レオンハルトも、エリシアの目覚めを確認すると、安堵の表情を浮かべた。
「よかった……本当に、よかった……」
マルガレーテは胸元に手を当て、涙を拭った。
クラリッサも涙をこぼしながら、エリシアの手をそっと握る。
「エリシアちゃん……よく頑張ったわね」
「……叔母様……?」
「ええ。ここにいるわ」
エリシアは部屋を見回した。
たくさんの人が、自分を見つめている。
みんな、泣いている。
どうして……?
そう思った。
けれど、その理由を考えるより先に、グスタフがベッドのそばへ歩み寄った。
「エリシア……」
「……おじい様……」
グスタフは、しばらく何も言えなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「すまなかった」
「……え?」
「もっと早く気づいてやればよかった。お前があんなに苦しんでいたことに、気づけなかった」
大きな身体をした祖父が、頭を下げている。
「お前は、ずっと助けを求めていたのかもしれない。それなのに、わしは気づいてやれなかった」
「おじい様……」
「本当に、すまなかった」
エリシアは黙って祖父を見つめた。
そして、小さく首を横に振った。
「……おじい様のせいじゃありません」
「だが……」
「来てくれたでしょう?」
エリシアが微笑む。
「私の誕生日を、お祝いするために……」
「エリシア……」
グスタフの目に、また涙が浮かんだ。
クラリッサも、エリシアの手を握ったまま口を開く。
「私も……ごめんなさいね」
「叔母様が?」
「ええ」
クラリッサは悲しそうに笑った。
「あなたが苦しんでいることに気づいていたのに、もっと踏み込んで聞けばよかった。どうして私たちを頼ってくれなかったの?」
エドワードも、ベッドのそばへ近づく。
「俺も……」
いつもの明るさは、どこにもなかった。
「どうして俺に言ってくれなかったんだよ」
「……エド……」
「俺は、エリィの友達だろ?」
エドワードの声が震える。
「辛いなら、辛いって言ってくれればよかったのに……」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃないよ」
エドワードは首を横に振った。
「ただ……頼ってほしかった」
エリシアは、二人を見つめた。
自分を心配してくれる人がいる。
それが、今になって少しずつ分かってきた。
そして――。
「エリシアちゃん……」
ソフィアが涙を拭いながら近づいてきた。
「私も、ごめんなさい」
「……ソフィア様?」
「あなたが辛い思いをしていることに、もっと気づいてあげるべきだった」
カイルも隣で頭を下げた。
「俺も……ごめん」
「カイル……」
「俺は、エリシアがもっと話してくれるようになればいいって、そればかり考えてた。でも……話せないくらい辛かったんだよな」
エリシアは二人を見つめた。
ソフィアも、カイルも悪い人ではない。
ずっと優しくしてくれていた。
それでも――。
今の自分には、ここにいることが苦しかった。
エリシアは胸元へ手を伸ばした。
そこには、ミリアがくれた小さな髪飾りが置かれていた。
そして、その髪飾りを見つめながら、母の言葉を思い出す。
『自分の気持ちに素直になって、生きていきなさい』
お母様との約束。
もう、誰かのために自分の気持ちを押し殺すのはやめよう。
エリシアは、ゆっくりと口を開いた。
「……おじい様」
「なんだ?」
「私……おじい様と一緒に行きたいです」
部屋の空気が静かになった。
グスタフは、優しく頷いた。
「そうか」
「はい」
「ならば、一緒に来るといい」
その言葉を聞いた瞬間。
「待ってくれ!」
アーヴィンが声を上げた。
「エリシア、行かないでくれ……」
エリシアは父を見た。
そこには、深い後悔と苦しみが浮かんでいた。
「私は……お前に幸せになってほしかっただけなんだ」
「……分かっています」
「なら、ここにいてくれ」
「お父様……」
エリシアは、しばらく父を見つめた。
そして、静かに首を横に振った。
「ごめんなさい」
「エリシア……」
「私は……ここには、もういたくありません」
アーヴィンの顔が強張る。
「……!」
「私はこれから、自分の気持ちに素直に生きていきます」
エリシアは、胸元の髪飾りをそっと握った。
「お母様と約束したから」
その言葉を聞いたアーヴィンは、何も言えなくなった。
自分が守ると約束した。
幸せにすると誓った。
なのに――。
自分のしたことが、娘をここまで追いつめてしまった。
「……そうか」
アーヴィンは、俯いた。
「お前が……そう決めたのなら……」
声が震えていた。
エリシアは、母の形見である髪飾りを手に取った。
「これを……持っていきたいです」
「ああ」
グスタフは頷いた。
「お母様の大切なものなら、持っていきなさい」
「ありがとうございます」
そのときだった。
「お嬢様!」
ミリアが一歩前へ出た。
「私も……私も連れていってください!」
「ミリア……?」
「私は、お嬢様のおそばにいたいんです」
ミリアの目には、涙が浮かんでいる。
「お嬢様がどこへ行かれても、私はお仕えしたいです」
エリシアは驚いたようにミリアを見つめ――やがて、笑った。
「……うん」
「お嬢様……!」
「一緒に行こう、ミリア」
「はい!」
ミリアは涙を流しながら笑った。
こうして、エリシアとミリアはヴァレンシュタイン辺境伯領へ行くことになった。
そして、旅立ちの日。
屋敷の前には、たくさんの人が集まっていた。
グスタフたちが乗る馬車の前で、エリシアは振り返る
「叔母様……エド……」
クラリッサは笑顔を作っていた。
「いつでも遊びにいらっしゃい。待っているからね」
「うん……」
エリシアはエドワードを見る。
「これからは……今までみたいに会えなくなるわね」
「……うん」
エドワードは少し寂しそうに笑った。
けれど、次の瞬間にはいつものエドワードらしい表情に戻る。
「じゃあ、俺が手紙を書く」
「手紙?」
「ああ。だから、返事を書いてくれ」
エリシアは少し驚いてから、微笑んだ。
「ええ。必ず書くわ」
「約束だぞ」
「約束」
二人は小指を絡めた。
「エリィ。また会おう」
「うん。エドも元気でね」
やがて、エリシアは馬車へ乗り込んだ。
ミリアも続いて乗り込む。
窓から顔を出すと、そこには大切な人たちの姿があった。
クラリッサ。
エドワード。
アリス。
そして、ソフィアとカイル。
最後に――アーヴィン。
「……お父様」
エリシアが呼ぶ。
アーヴィンは、何かを言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
ただ、震える声で一言だけ告げた。
「……元気でな」
「はい」
馬車がゆっくりと動き始める。
エリシアは手を振った。
みんなも手を振り返す。
馬車が遠ざかり、やがて小さくなっていく。
アーヴィンは、その場から動けなかった。
「……私は、何をしていたんだ」
娘を幸せにしたかった。
母親を失った娘に、寂しい思いをさせたくなかった。
そう思っていた。
けれど――。
エリシアの気持ちを聞こうとしなかった。
悲しみを急いで忘れさせようとした。
新しい家族を受け入れることを強いた。
食事を無理に食べさせた。
厳しくすれば、きっと立ち直ると思っていた。
すべてが間違っていた。
「……すまない、エリシア」
もう、届かない。
遠ざかっていく馬車を見つめながら、アーヴィンは深く後悔した。
そしてエリシアは――。
母との約束を胸に、新しい人生へと歩き始めていた。




