お母様の言葉
エリシアが池に入ってから、どれほどの時間が経ったのか。
屋敷では、必死の捜索が続いていた。
「いたぞ!」
遠くから、誰かの叫び声が聞こえた。
「池だ!」
その声を聞いた瞬間、グスタフたちは一斉に池へ向かった。
池のそばには、小さな髪飾りが落ちていた。
「エリシア……!」
グスタフが水辺へ駆け寄る。
やがて、使用人たちによってエリシアが引き上げられた。
「お嬢様!」
ミリアが駆け寄る。
「エリシア様……!」
エリシアは目を閉じたまま、何の反応も示さない。
「エリィ……?」
エドワードの声が震える。
「エリィ、僕だよ……。目を開けて……」
クラリッサは口元を手で覆った。
「エリシアちゃん……」
アーヴィンは、その場に立ち尽くしていた。
目の前にいるのは、自分の娘。
まだ七歳の、小さな娘だった。
「早く医師を!」
グスタフの声が響く。
「すぐに呼んでおります!」
やがて医師が駆けつけ、エリシアは急いで屋敷へ運ばれた。
* * *
医師による懸命な処置が続いた。
けれど、エリシアは目を覚まさない。
長い時間が過ぎても、状態は安定しなかった。
部屋の外で、アーヴィンたちはただ待つしかなかった。
誰も口を開かなかった。
やがて、医師が部屋から出てきた。
「先生……娘は……?」
アーヴィンが駆け寄る。
医師は、重い表情で首を横に振った。
「今夜が峠になるかもしれません」
「……!」
アーヴィンの顔が強張る。
「どういう……意味ですか?」
「かなり衰弱しています。まだ幼い身体ですから……」
医師は言葉を選びながら続けた。
「もちろん、できる限りのことはします。しかし……」
一度、言葉を止める。
「助からない可能性もあります」
「……そんな……」
マルガレーテが顔を覆った。
クラリッサの目にも涙が浮かぶ。
エドワードは俯いたまま、唇を噛みしめていた。
「エリィ……」
ミリアは両手を握りしめ、祈るように目を閉じる。
そして――。
アーヴィンは何も言えなかった。
ただ、あの手紙のことが頭から離れなかった。
* * *
アーヴィンは、何度も遺書を読み返していた。
机の上に置かれた、一枚の紙。
何度読んでも、そこに書かれている言葉は変わらない。
『お父様へ』
『私はこの家のいらない人間です。』
アーヴィンの手が震えた。
『新しい家族なんてほしくなかった。』
「……エリシア……」
さらに読み進める。
『私のためというけれど、お父様のためではないかと思います。』
胸に、鋭い痛みが走った。
自分はずっと、エリシアのためだと思っていた。
母親が必要なのだと思った。
新しい家族ができれば、エリシアもいつか笑えると思った。
けれど――。
娘は、そう思っていなかった。
自分のためだと言われても、信じられなかった。
『私はいらない人間なので、お母様のところへ行きます。』
『さようなら。』
『三人で仲良く暮らしてください。』
「……違う」
アーヴィンは首を横に振った。
「違うんだ……」
声が震える。
「私は……お前をいらないなんて思ったことは、一度も……」
けれど。
その言葉を、今のエリシアに伝えることはできない。
眠ったままの娘には、届かない。
「……私は……何をしていたんだ……」
アーヴィンは遺書を握りしめた。
* * *
グスタフは、そんなアーヴィンを黙って見ていた。
やがて、低い声で言った。
「アーヴィン」
「……はい」
「お前は、この手紙を読んでもまだ分からないのか?」
「……」
「エリシアは、自分をいらない人間だと思っていたんだぞ」
アーヴィンは俯いた。
「私は……エリシアのためを思って……」
「その言葉を何度聞けばいい?」
グスタフの声が震える。
「お前は『エリシアのため』と言って、あの子の気持ちを聞いたのか?」
「……」
「母親を亡くして、まだ一年も経っていない子どもに、新しい母親を受け入れろと言ったのは誰だ?」
アーヴィンは答えられない。
「食事を無理に食べさせ、苦しんでいるのに叱り、あの子が嫌がっていることを『わがまま』だと言ったのは誰だ?」
「……私です」
「そして今――」
グスタフは、眠っているエリシアのいる部屋へ視線を向けた。
「この結果を招いた」
アーヴィンの肩が震えた。
「……申し訳、ありません」
その声には、もう反論する力はなかった。
ソフィアも俯いていた。
「私も……もっとエリシアちゃんの気持ちを考えてあげればよかった……」
カイルも唇を噛みしめる。
「僕も……」
誰もが暗い顔をしていた。
エリシアが目を覚ますことだけを、ただ願っていた。
* * *
その頃。
エリシアは、暗い場所にいた。
周りは何も見えない。
ただ、どこか温かかった。
「……ここは……?」
エリシアが歩いていると――。
前方に、懐かしい姿が見えた。
「……お母様?」
そこにいたのは、エレノアだった。
いつもと変わらない、優しい笑顔。
「お母様!」
エリシアは駆け寄った。
「お母様……!」
エレノアは、優しくエリシアを抱きしめた。
「エリシア」
「お母様……私も、お母様と一緒にいます」
エリシアは安心したように目を閉じた。
「もう寂しくないね」
けれど――。
エレノアは、悲しそうに首を横に振った。
「いいえ、エリシア」
「……え?」
「あなたは、まだこちらへ来てはいけないわ」
「どうして……?」
「あなたには、まだ生きてほしいから」
エレノアはエリシアの頬に手を添えた。
「あなたはこれから、幸せにならなくてはいけないの」
「……幸せ?」
「ええ」
エリシアの目から涙がこぼれる。
「でも……私は、いらない人間なの」
「そんなことはありません」
エレノアは、はっきりと言った。
「あなたは、誰かに必要とされるために生きるのではないのよ」
「……」
「自分の気持ちに素直になって、生きていきなさい」
エレノアは優しく微笑む。
「悲しいときは、泣いていいの」
「……うん」
「寂しいときは、寂しいと言っていいの」
「うん……」
「嫌なことは、嫌だと言っていいのよ」
エリシアは涙を流しながら頷いた。
「……お母様」
「大丈夫」
エレノアは、もう一度エリシアを抱きしめた。
「あなたなら、きっと大丈夫よ」
「お母様……!」
「いってらっしゃい、エリシア」
「待って……!」
エリシアが手を伸ばす。
けれど、エレノアの姿が少しずつ遠ざかっていく。
「お母様……!」
* * *
「……お母様……」
エリシアの瞼が、ほんの少し動いた。
けれど、まだ目は開かない。
夢の中で聞いた母の声だけが、胸の奥に残っていた。
――自分の気持ちに素直になって、生きていきなさい。
* * *
翌朝。
医師が再びエリシアの様子を確認した。
「まだ予断は許しませんが……」
ほんの少しだけ、表情が和らいでいる。
「昨夜より状態が安定しています」
「……本当ですか?」
ミリアの目に涙が浮かぶ。
「はい。まだ危険な状態ではありますが、希望はあります」
その言葉に、皆がほっと息をついた。
けれど、グスタフの表情は厳しいままだった。
「アーヴィン」
「……はい」
「エリシアを、私のところへ連れていく」
「……!」
アーヴィンが顔を上げた。
「待ってください。エリシアは私の娘です」
「分かっている」
グスタフは静かに答えた。
「だからこそだ」
「……」
「この家に戻れば、また同じことが起こるかもしれない」
「そんなことは……」
「では、もしまたエリシアが苦しんだらどうする?」
アーヴィンは言葉を失った。
「また『エリシアのためだ』と言って、自分の考えを押しつけるのか?」
「……」
「次は、本当に助からないかもしれない」
アーヴィンの顔が青ざめた。
「……それは……」
「私は、エリシアを失いたくない」
グスタフは静かに言った。
「この子が安心して暮らせる場所へ連れていく」
マルガレーテも頷いた。
「エリシアには、今まで失った分まで、たくさん笑ってほしいのです」
アーヴィンは、しばらく黙っていた。
やがて、目を伏せる。
「……分かりました」
絞り出すような声だった。
「エリシアを……お願いします」
グスタフは静かに頷いた。
「任せろ」
こうして――。
エリシアは命を取り留めたなら、母方の祖父母が暮らすヴァレンシュタイン辺境伯領へ移り、そこで暮らすことになった。
それは、エリシアにとって――。
新しい人生の始まりだった。




