↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さようならと言った少女と、家族を失った父  作者: ちぃ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/20

お母様の言葉

エリシアが池に入ってから、どれほどの時間が経ったのか。


 屋敷では、必死の捜索が続いていた。


「いたぞ!」


 遠くから、誰かの叫び声が聞こえた。


「池だ!」


 その声を聞いた瞬間、グスタフたちは一斉に池へ向かった。


 池のそばには、小さな髪飾りが落ちていた。


「エリシア……!」


 グスタフが水辺へ駆け寄る。


 やがて、使用人たちによってエリシアが引き上げられた。


「お嬢様!」


 ミリアが駆け寄る。


「エリシア様……!」


 エリシアは目を閉じたまま、何の反応も示さない。


「エリィ……?」


 エドワードの声が震える。


「エリィ、僕だよ……。目を開けて……」


 クラリッサは口元を手で覆った。


「エリシアちゃん……」


 アーヴィンは、その場に立ち尽くしていた。


 目の前にいるのは、自分の娘。


 まだ七歳の、小さな娘だった。


「早く医師を!」


 グスタフの声が響く。


「すぐに呼んでおります!」


 やがて医師が駆けつけ、エリシアは急いで屋敷へ運ばれた。


     * * *


 医師による懸命な処置が続いた。


 けれど、エリシアは目を覚まさない。


 長い時間が過ぎても、状態は安定しなかった。


 部屋の外で、アーヴィンたちはただ待つしかなかった。


 誰も口を開かなかった。


 やがて、医師が部屋から出てきた。


「先生……娘は……?」


 アーヴィンが駆け寄る。


 医師は、重い表情で首を横に振った。


「今夜が峠になるかもしれません」


「……!」


 アーヴィンの顔が強張る。


「どういう……意味ですか?」


「かなり衰弱しています。まだ幼い身体ですから……」


 医師は言葉を選びながら続けた。


「もちろん、できる限りのことはします。しかし……」


 一度、言葉を止める。


「助からない可能性もあります」


「……そんな……」


 マルガレーテが顔を覆った。


 クラリッサの目にも涙が浮かぶ。


 エドワードは俯いたまま、唇を噛みしめていた。


「エリィ……」


 ミリアは両手を握りしめ、祈るように目を閉じる。


 そして――。


 アーヴィンは何も言えなかった。


 ただ、あの手紙のことが頭から離れなかった。


     * * *


 アーヴィンは、何度も遺書を読み返していた。


 机の上に置かれた、一枚の紙。


 何度読んでも、そこに書かれている言葉は変わらない。


『お父様へ』


『私はこの家のいらない人間です。』


 アーヴィンの手が震えた。


『新しい家族なんてほしくなかった。』


「……エリシア……」


 さらに読み進める。


『私のためというけれど、お父様のためではないかと思います。』


 胸に、鋭い痛みが走った。


 自分はずっと、エリシアのためだと思っていた。


 母親が必要なのだと思った。


 新しい家族ができれば、エリシアもいつか笑えると思った。


 けれど――。


 娘は、そう思っていなかった。


 自分のためだと言われても、信じられなかった。


『私はいらない人間なので、お母様のところへ行きます。』


『さようなら。』


『三人で仲良く暮らしてください。』


「……違う」


 アーヴィンは首を横に振った。


「違うんだ……」


 声が震える。


「私は……お前をいらないなんて思ったことは、一度も……」


 けれど。


 その言葉を、今のエリシアに伝えることはできない。


 眠ったままの娘には、届かない。


「……私は……何をしていたんだ……」


 アーヴィンは遺書を握りしめた。


     * * *


 グスタフは、そんなアーヴィンを黙って見ていた。


 やがて、低い声で言った。


「アーヴィン」


「……はい」


「お前は、この手紙を読んでもまだ分からないのか?」


「……」


「エリシアは、自分をいらない人間だと思っていたんだぞ」


 アーヴィンは俯いた。


「私は……エリシアのためを思って……」


「その言葉を何度聞けばいい?」


 グスタフの声が震える。


「お前は『エリシアのため』と言って、あの子の気持ちを聞いたのか?」


「……」


「母親を亡くして、まだ一年も経っていない子どもに、新しい母親を受け入れろと言ったのは誰だ?」


 アーヴィンは答えられない。


「食事を無理に食べさせ、苦しんでいるのに叱り、あの子が嫌がっていることを『わがまま』だと言ったのは誰だ?」


「……私です」


「そして今――」


 グスタフは、眠っているエリシアのいる部屋へ視線を向けた。


「この結果を招いた」


 アーヴィンの肩が震えた。


「……申し訳、ありません」


 その声には、もう反論する力はなかった。


 ソフィアも俯いていた。


「私も……もっとエリシアちゃんの気持ちを考えてあげればよかった……」


 カイルも唇を噛みしめる。


「僕も……」


 誰もが暗い顔をしていた。


 エリシアが目を覚ますことだけを、ただ願っていた。


     * * *


 その頃。


 エリシアは、暗い場所にいた。


 周りは何も見えない。


 ただ、どこか温かかった。


「……ここは……?」


 エリシアが歩いていると――。


 前方に、懐かしい姿が見えた。


「……お母様?」


 そこにいたのは、エレノアだった。


 いつもと変わらない、優しい笑顔。


「お母様!」


 エリシアは駆け寄った。


「お母様……!」


 エレノアは、優しくエリシアを抱きしめた。


「エリシア」


「お母様……私も、お母様と一緒にいます」


 エリシアは安心したように目を閉じた。


「もう寂しくないね」


 けれど――。


 エレノアは、悲しそうに首を横に振った。


「いいえ、エリシア」


「……え?」


「あなたは、まだこちらへ来てはいけないわ」


「どうして……?」


「あなたには、まだ生きてほしいから」


 エレノアはエリシアの頬に手を添えた。


「あなたはこれから、幸せにならなくてはいけないの」


「……幸せ?」


「ええ」


 エリシアの目から涙がこぼれる。


「でも……私は、いらない人間なの」


「そんなことはありません」


 エレノアは、はっきりと言った。


「あなたは、誰かに必要とされるために生きるのではないのよ」


「……」


「自分の気持ちに素直になって、生きていきなさい」


 エレノアは優しく微笑む。


「悲しいときは、泣いていいの」


「……うん」


「寂しいときは、寂しいと言っていいの」


「うん……」


「嫌なことは、嫌だと言っていいのよ」


 エリシアは涙を流しながら頷いた。


「……お母様」


「大丈夫」


 エレノアは、もう一度エリシアを抱きしめた。


「あなたなら、きっと大丈夫よ」


「お母様……!」


「いってらっしゃい、エリシア」


「待って……!」


 エリシアが手を伸ばす。


 けれど、エレノアの姿が少しずつ遠ざかっていく。


「お母様……!」


     * * *


「……お母様……」


 エリシアの瞼が、ほんの少し動いた。


 けれど、まだ目は開かない。


 夢の中で聞いた母の声だけが、胸の奥に残っていた。


 ――自分の気持ちに素直になって、生きていきなさい。


     * * *


 翌朝。


 医師が再びエリシアの様子を確認した。


「まだ予断は許しませんが……」


 ほんの少しだけ、表情が和らいでいる。


「昨夜より状態が安定しています」


「……本当ですか?」


 ミリアの目に涙が浮かぶ。


「はい。まだ危険な状態ではありますが、希望はあります」


 その言葉に、皆がほっと息をついた。


 けれど、グスタフの表情は厳しいままだった。


「アーヴィン」


「……はい」


「エリシアを、私のところへ連れていく」


「……!」


 アーヴィンが顔を上げた。


「待ってください。エリシアは私の娘です」


「分かっている」


 グスタフは静かに答えた。


「だからこそだ」


「……」


「この家に戻れば、また同じことが起こるかもしれない」


「そんなことは……」


「では、もしまたエリシアが苦しんだらどうする?」


 アーヴィンは言葉を失った。


「また『エリシアのためだ』と言って、自分の考えを押しつけるのか?」


「……」


「次は、本当に助からないかもしれない」


 アーヴィンの顔が青ざめた。


「……それは……」


「私は、エリシアを失いたくない」


 グスタフは静かに言った。


「この子が安心して暮らせる場所へ連れていく」


 マルガレーテも頷いた。


「エリシアには、今まで失った分まで、たくさん笑ってほしいのです」


 アーヴィンは、しばらく黙っていた。


 やがて、目を伏せる。


「……分かりました」


 絞り出すような声だった。


「エリシアを……お願いします」


 グスタフは静かに頷いた。


「任せろ」


 こうして――。


 エリシアは命を取り留めたなら、母方の祖父母が暮らすヴァレンシュタイン辺境伯領へ移り、そこで暮らすことになった。


 それは、エリシアにとって――。


 新しい人生の始まりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。