七歳の誕生日
朝、エリシアはゆっくりと目を覚ました。
窓から差し込む朝の光が、部屋の中を淡く照らしている。
ぼんやりと天井を見つめていたエリシアは、ふと今日の日付を思い出した。
「……今日は……」
小さな声がこぼれる。
「私の……誕生日……」
七歳の誕生日。
去年は、お母様がいた。
朝、目を覚ますと、お母様が笑顔で迎えてくれた。
『エリシア、お誕生日おめでとう』
優しく頭を撫でてもらって、抱きしめてもらって。
食卓には、エリシアの好きな料理が並んでいた。
そして最後には、小さなケーキも用意されていた。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
「……お母様……」
胸が、きゅっと締めつけられた。
去年は幸せだった。
けれど――今年は違う。
お母様は、もういない。
エリシアはベッドの上で膝を抱えた。
「……今年は、誰も……」
そのとき。
コンコン。
扉がノックされた。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「……ミリア?」
「はい。入ってもよろしいでしょうか?」
「うん……」
扉が開き、ミリアが入ってくる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう……」
エリシアの返事は小さかった。
ミリアはそんなエリシアの様子を見つめると、そっと近づいた。
「お嬢様」
「なに?」
「今日は、何の日でしょう?」
エリシアは少し考えた。
「……私の誕生日」
「はい」
ミリアは微笑んだ。
「お嬢様、七歳のお誕生日、おめでとうございます」
「……!」
エリシアの瞳が、大きく開く。
しばらく何も言えなかった。
「……覚えてたの?」
「もちろんです」
ミリアは優しく笑った。
「お嬢様がお生まれになった大切な日ですもの」
「……ありがとう」
エリシアは小さく笑った。
ミリアは胸元から、小さな包みを取り出した。
「それから、こちらを」
「これ……?」
「ささやかなものですが、私からのお祝いです」
エリシアが包みを開く。
中には、小さな髪飾りが入っていた。
「かわいい……」
「お嬢様によく似合うと思いまして」
エリシアは髪飾りを両手で大切そうに握った。
「ありがとう、ミリア……」
「どういたしまして」
けれど――。
笑顔は、長くは続かなかった。
エリシアは髪飾りを見つめながら、ふと思う。
「……お父様も、覚えてるかな」
「……」
ミリアは答えられなかった。
アーヴィンは今日、ソフィアとカイルとともにローゼンベルク家から帰ってくる予定だった。
もしかしたら。
帰ってきたお父様が、
『エリシア、誕生日おめでとう』
そう言ってくれるかもしれない。
そんな小さな期待が、胸の奥に生まれた。
「……帰ってきたら、言ってくれるかな」
エリシアはそう呟いた。
ミリアは微笑んだ。
「きっと……」
* * *
午後になった。
エリシアは窓辺に座り、外を眺めていた。
今日は朝から、何度も時計を見ている。
父たちが帰ってくる時間が近づいていた。
「……まだかな」
小さく呟く。
やがて――。
屋敷の外から、馬車の音が聞こえてきた。
カタカタ、カタカタ……。
「……!」
エリシアは立ち上がった。
「帰ってきた……」
胸が少しだけ高鳴る。
エリシアは急いで部屋を出た。
廊下を歩いていると、玄関のほうから声が聞こえてきた。
「ただいま」
「お疲れさまでした、あなた」
「父上、今日は楽しかったですね!」
アーヴィン。
ソフィア。
カイル。
三人の楽しそうな声。
エリシアは足を止めた。
玄関では、三人が笑顔で話をしていた。
「ソフィアのご家族も、とても喜んでくださっていたね」
「ええ。久しぶりにゆっくり話せたわ」
「僕も楽しかったよ!」
三人の間には、温かな空気が流れている。
まるで――。
本当の家族のようだった。
エリシアは、その光景を少し離れた場所から見つめていた。
「……お父様」
アーヴィンがこちらを振り向いた。
「エリシアか」
「……お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま」
それだけだった。
エリシアは、少し待った。
けれど――。
「……」
アーヴィンから、何も言葉はなかった。
誕生日のことにも触れない。
エリシアの胸にあった小さな期待が、静かに消えていく。
「……そう」
小さく呟いて、エリシアはその場を離れた。
背中に、カイルの声が聞こえた。
「エリシア?」
けれど、振り返らなかった。
* * *
エリシアは自分の部屋へ戻った。
扉を閉める。
そして、しばらくその場に立ち尽くした。
「……やっぱり、忘れてた」
今日が自分の誕生日だということを。
お父様は覚えていなかった。
ソフィアも。
カイルも。
誰も。
エリシアはベッドのそばにある机へ向かった。
引き出しを開ける。
そこから一枚の紙とペンを取り出した。
「……」
何を書けばいいのか分からなかった。
けれど、胸の中に溜まっていたものが、次々と浮かんでくる。
お母様が亡くなったこと。
新しい家族ができたこと。
自分がそれを受け入れられなかったこと。
お父様が、自分のためだと言っていたこと。
でも――。
本当は、お父様自身が新しい家族を欲しかったのではないか。
そう思ってしまう。
エリシアは震える手で、ゆっくりと文字を書き始めた。
『お父様へ』
一文字、一文字。
涙が紙の上に落ちる。
それでも、エリシアは書き続けた。
『私はこの家のいらない人間です。』
ペン先が震える。
『新しい家族なんてほしくなかった。』
涙を拭う。
『私のためというけれど、お父様のためではないかと思います。』
書き終えると、しばらくその文字を見つめた。
そして最後に――。
『私はいらない人間なので、お母様のところへ行きます。』
『さようなら。』
『三人で仲良く暮らしてください。』
最後の文字を書き終えた。
エリシアは紙をそっと机の上に置いた。
「……これでいい」
もう、何も考えたくなかった。
ミリアからもらった髪飾りを手に取る。
それを大切そうに握りしめると、エリシアは部屋を出た。
* * *
その頃、屋敷の玄関では――。
「今日はエリシアの七歳の誕生日だろう?」
グスタフの声が響いていた。
マルガレーテとレオンハルト。
そして、クラリッサとエドワード、アリスも到着していた。
「エリシアちゃん、驚くでしょうね」
クラリッサが笑顔で言う。
「エリィ、喜んでくれるかな」
エドワードも嬉しそうだった。
「プレゼント、ちゃんと持ってきたよ」
アリスも小さな包みを抱えている。
遠く離れたところから、エリシアの誕生日を祝うために、みんなが来てくれたのだ。
ところが――。
「エリシアはどこにいる?」
グスタフが尋ねた。
屋敷の使用人たちが顔を見合わせる。
「それが……」
ミリアが青ざめた顔で駆けてきた。
「お嬢様が……」
「どうした?」
「お嬢様のお姿が……見当たりません」
「……何?」
グスタフの表情が変わった。
「屋敷中を探せ!」
「はい!」
使用人たちが一斉に動き始める。
ミリアも慌ててエリシアの部屋へ向かった。
「お嬢様……どちらへ?」
部屋の中には、エリシアの姿はなかった。
けれど――。
「……?」
机の上に、一枚の紙が置かれている。
ミリアは何気なく手に取った。
「これは……?」
紙を開く。
そして――。
顔から血の気が引いた。
「……旦那様!」
震える声が屋敷に響いた。
「これを……!」
アーヴィンが駆け寄る。
「何だ?」
ミリアは震える手で、手紙を差し出した。
アーヴィンが読み始める。
『お父様へ』
そこから先を読み進めるにつれて、アーヴィンの顔が青ざめていく。
「……そんな……」
グスタフが手紙を取り上げる。
マルガレーテも、クラリッサも、レオンハルトも、その内容を読む。
エドワードも横から覗き込んだ。
「……エリィ……?」
誰も言葉を失った。
『私はこの家のいらない人間です。』
『新しい家族なんてほしくなかった。』
『私のためというけれど、お父様のためではないかと思います。』
『私はいらない人間なので、お母様のところへ行きます。』
『さようなら。』
『三人で仲良く暮らしてください。』
「……私たちが……」
ソフィアの目に涙が浮かぶ。
「エリシアちゃんは……こんなふうに思っていたの……?」
エドワードは震えていた。
「違う……」
何度も首を横に振る。
「エリィは……いらない子なんかじゃない……」
グスタフは手紙を強く握りしめた。
「エリシア……!」
その瞬間だった。
ミリアが何かを思い出したように顔を上げた。
「……池」
「何?」
「以前、お嬢様が一人で池へ行かれたことがあります」
ミリアの声が震える。
「奥様が、危ないから近づいてはいけないとおっしゃっていた場所です……!」
グスタフが振り返った。
「池へ向かうぞ!」
「私も行きます!」
レオンハルトが走り出す。
「僕も!」
エドワードも後を追った。
アーヴィンも青ざめた顔で走り出す。
「エリシア……!」
* * *
その頃。
エリシアは、屋敷から遠く離れた場所を歩いていた。
何度も涙を拭った。
けれど、涙は止まらない。
気がつけば――。
目の前に、あの池があった。
「……また、ここに来ちゃった」
静かな水面。
風に揺れる木々。
以前、お母様に「近づいてはいけない」と言われた場所。
エリシアは池の前で立ち止まった。
「……」
もう、何も考えたくなかった。
私は、この家にはいらない人間。
誰からも必要とされていない。
そう思い込んでしまった。
「お母様……」
小さく呟く。
「今から……そっちに行くね」
エリシアは静かに目を閉じた。
そして――。
一歩、池へと足を踏み出した。




