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第六百六話 甘き罠

翼を羽ばたかせ、二人でクトゥルフの元へ向かう。穴は依然あけたまま。

ここから入って来いと言わんばかりに鍵所か扉を閉める気配はない。


「・・暴れるぞ。」


満ち欠けの無い満月に照らされた兼定は影で作り上げた爪を上空から水の壁に振るうと、

空気を引き裂く影の斬撃が放たれる。月の光でより濃くなった影を闇夜から

肉眼で見つけ出すのは困難を極める。ましてや辺りの支配を春が行っており、

空気中に含まれる水分での探知は効かず、クトゥルフは対処する術を失っている。

壁に触れた瞬間、ぶつかったことを感じさせずまるで貫通したと錯覚するほどに

速度を失わないまま壁を引き裂き、奥にいるクトゥルフへと襲い掛かる。


「・・・・・・・・。」


察する事さえ出来なかったクトゥルフだが、気配のない者との戦いは慣れているのか

既に斬撃に備えており、その身に縛り付けた子孫達の術式を一斉に放つ。

そのどれもが影の力に対抗するにはあまりに貧弱だが、属性ごとに集めた術式達は

一つにかなり、火、水、木、土の四つの属性が斬撃へとぶつかった。


「相打ち狙いか・・・。」


血のつながりのない育ての親が作り上げた空の術式。それをさらに進化させた兼定は

異なる属性が同じ威力で一点に集まった結末をよく知っている。


「力とは使いよう。貴様らは技術と呼んでいるが、我らにとっては呼吸をするほどに

容易な日常だ。」


クトゥルフはその強大な水の力を持ってるため、他の属性に関して一切の力を持っていない。

その力を補うのは賀茂家の子孫達。長きに渡り忠行に力を与えてきたクトゥルフは

力の使い方も熟知しており、完全な相殺を行って見せる。


「貴様らの術式など、我らにとってしてみれば過去の物。小細工など使うな。

正面から来い。ハスターの様に。」


クトゥルフの煽り。それは単なる正面からのぶつかり合いを望む言葉ではない。

トリックスターの異名も持つニャルラトホテプが小細工などの面倒な立ち回りをされて

しまうとハスターの相手などしてられない。


「・・・・・・・・・・・。」


だからこそ真正面からのぶつかり合いを煽るクトゥルフだが、その目論見を兼定はもちろん

理解している。すぐさまそれは出来ないと素直に伝えるだけではなく、兼定らしい

煽りを返す所だが、口を開かず黙ったまま。その理由は置かれている状況にあった。


「匂いますねぇ・・・。」


クトゥルフとハスター。余裕を見せているのはクトゥルフだが、それらをハスターへ全て

ぶつけたとしてもその首を取れないのが現状。それを証拠にこれ以上被害を出さないための

立ち回りに切り替えている。これ以上のリソースが無ければこのまま押し込めるが、

クトゥルフには隠し続けていた真の狙いがある事実が兼定を悩ませていた。


「これは罠。私の力を熟知している奴だからこそ、煽っている。

鼻の奥が痛くなるほどの激臭を放つ危険な罠ですが・・・利点がない訳でもない。」


ハスターの力を使う龍穂とニャルラトホテプの力を持つ自分が同時にぶつかれる瞬間など、

果たして奴がこの先用意するだろうか?もしあるとすれば地球を支配した後であり、

相当な劣勢を押し付けられる状況にならなければ訪れる事は無い。


「さあ、どうします?」


見え見え過ぎる罠。だが、手を伸ばせば勝利という明るい未来を掴み取ることができるかもしれない。龍穂と自分が一気に攻め掛かれば勝機は十分にある。


「・・・・・いや。」


甘美な激臭かおるブービートラップに兼定は引っかからない。

羽ばたく翼の勢いを抑え、立ち止まる判断を下す。


「ありがたい誘いだが、断らせてもらおう。」


小細工が得意と言っても、ニャルラトホテプは外なる神。真正面から打ち合えば

力負けするのはクトゥルフの方。それを龍穂をいなしながら相手するのは至難の業。

わざわざ負け筋を作る状況に誘い込んだ理由があるはず。


「何かは分からないが、最低でも俺を封じ込める策があるんだろう。

それかニャルラトホテプに対し、俺以上の興味をそそらせる何かを持っている。」


そんな地雷をわざわざ踏みに行く必要はない。そして・・・恐らく、焦る必要もない。


「煽ったってことはある程度近づかなきゃ意味がない何か。つい先ほど接近していた

龍穂に使わない所を見るに、俺達に特効のある術式か?」


語りながら兼定は龍穂の方をちらりと見る。クトゥルフへの攻勢は続けているものの

その勢いは若干鈍り出している。


『・・私の狂気が収まりつつありますねぇ。』


強力な狂気を与えたはず。だが、それでも正気を取り戻しつつある何かが龍穂の体に

起こっている。


「どうだろうな?ただの脅しかもしれん。だが、これで一つ分かったことがある。」


「・・何だ?」


「お前達は何かに急かされている。それが知れただけで、十分な収穫だ。」


言葉一つ。たった一つの言葉で兼定の揺らぎを引きずり出した。

精神の揺さぶりはニャルラトホテプの十八番。その神が目をかける兼定から動揺を引きだし、

情報を取ったことをクトゥルフは誇らしげに見せつける。


「ふふっ・・・。ずいぶんとかわいらしくなったものですねぇ・・・。」


その姿を見た這い寄る混沌は、影の化け物となった兼定の頬に目を開かせ口を開く。


「兼定が未熟なのは今に始まった事ではありません。ですが、そこがまた愛らしい。

足りないのが良いのですよ。完璧などこの世界には存在しませんが、完璧だと言わざるおえない

程に圧倒的な力を持つ者はいる。あなたはその力を欲している様に見えますが、

私からすれば興が削がれる以外の何物でもない。」


「・・私より、その下等生物と居た方が良いと?」


「そう言っているのです。以前のあなたは弱く、不完全だった。

不安定で、小突けば簡単に崩れるあなたの姿は私の興味を強くそそり、手を貸すことはありましたが、今のあなたには何もそそられない。」


ニャルラトホテプを記す書物の中にはクトゥルフの配下だったという内容もある。

当時、封印された身でありながら必死に足掻くクトゥルフの姿を見て興味を持った

這い寄る混沌が手を差し伸べたのが知識のない者達から見れば配下だと勘違いされるには

十分だった。


「それに下等生物と見下していますが、あなたは彼らに追い詰められている。

一度目は敗北を喫し、哀れに縋りついてきた時の様に申し出れば考えない事はありませんよ?」


煽り返す這い寄る混沌。煽りとは罠に誘うためではなく、相手を心底貶し馬鹿にしなければならないとクトゥルフに教える。そうでなければ痛い目を見る。人間のみならず、

神であっても落ち度はある。決して掘り返されたくない過去はむしろ長く生きる神の方が

多く持っているのだから。


「・・・・・残念だ。」


小さく呟いたクトゥルフは子孫達の力を使い、兼定達を阻みにかかる。

押し込んだはずの怒りは収まり切れていないが、全てを使えば龍穂に押される。


(さて・・・・・。)


視界の墨に捕えていた青い光。火嶽が純恋達の元へ向かった姿。クトゥルフを護る壁は既に断ち切られ、兼定の後ろに道は作られた。後は純恋達が来るだけ。

さらに安全に突っ込むにはさらなる一手が必要。


「頼むぞ。」


自分達で道を切り開くしかない。純恋達の到着まで、兼定は耐えるしかなくなった。

ここまで読んでいただきありがとうございます!

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