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第五百九十六話 狂気を揺さぶる弱い心

「ふふっ・・・!!」


狂気を孕む笑顔を向けながら龍穂はクトゥルフへと迫る。影の刃を全て引き抜き終え、

臨戦態勢にあるクトゥルフに傷は残されていない。


「まったく、良い力だ。」


地球において、海とは生命の繁栄の象徴。この惑星で生まれた生命の祖はこの海を

住処とし、進化を繰り返してきた。そのような背景から海にはすさまじいほどの力が

込められており、深海に封印されていたクトゥルフはその力の全てを研究し、

扱うための技術を磨いてきた。


「これであればいくらでも戦える。」


新たな生命を生み続けた海の力を細胞の活性に置き換える技術を習得したクトゥルフの

体はわずかな傷さえもすぐに肉が動き出し塞いでしまう。戦いにおいて

これほどまでに厄介な体はそうはないだろう。

それに対し、龍穂が扱う風の力。創造(デミウルゴス)と名付けたハスターが支配する大気。

宇宙空間と地球上において、大気の役割は大きく異なるが新たな生命をきっかけを与えてきた

風を極めた者が扱う事の出来る自由多彩な力もまた、相手するには非常に厄介。

風は生命の息吹を運ぶだけではなく、環境までも変えてきた。

種や生物、季節を運んできた風を極めた龍穂は乱れ狂ったまま風を動かしクトゥルフへと

打ち放った。


「死ね!!!」


後先考えず打ち放った風の塊。今まで空気操作にリソースを割いてきた部分を

海に浮かぶクトゥルフを討ち果たすだけに集中した結果、不可視の衝撃波として襲い掛かる。

それは人類が生み出した自走する鉄の塊が最大速度で衝突したとしても上回ることの無い

無慈悲で前例のない範囲攻撃。避ける素振りを見せないクトゥルフは真正面から

無抵抗に受けると体に張り付いていた皮膚は避け、肉が骨から剥がれていき全てが

体から離れていく。それと同時に同じ衝撃を受けた海は、空気の摩擦に耐えきった隕石が

作り出すクレーターの様にえぐり取られ大きな穴が一瞬にして作り上げられる。


「っ・・・・・!!!」


傍にいた楓はその光景を見て驚かずにはいられない。決して抑えていた訳ではない事は

分かっているが、龍穂が持つ力の全てを動員した一撃は人類が出せる力の範疇をゆうに超えている。繁栄するために磨いてきた知識など無駄であると言わんばかりの一撃を、

しかも無詠唱で無造作に打ち放った姿に思わず動きを止めてしまったが、

本能のままに動く龍穂に追いつかれまいとすぐさま翼を動かした。


「・・・・・・・・・・。」


抉られた穴を包み込む水蒸気。肉と同じ様に引き剥がされ、粒となった海の中。

衝撃波の余韻で吹き荒れた強風が浮かぶ粒の海を晴らすと、その中には先ほどの光景とは

真逆の五体満足に佇むクトゥルフの姿があった。


「ハスターよ。貴様が持つ力は確かに私を上回っている。まともにぶつかればまず勝ち目はない。」


粒となった水蒸気が動き出し、巨大な隕石と類似した形に集まり龍穂に向けて打ち放たれる。


「だが、貴様は知らないだろう。絶対的な実力が勝負の決め手にはならんことを。

弱者が強者に勝利するための武器を、お前はその身で味わったことが無いだろう。」


向かってきた隕石を前にしても、龍穂は足を止めずただ右手を払う。

手のひらに押し込まれた空気がわずかな風を起こしたと同時に、繋がりによって

生み出された隕石が再び水蒸気へと変わった。


「情けないな!!自己紹介もほどほどにしておけよ!!!」


クトゥルフを煽る龍穂。その言葉通り、技術で上回ろうとする者に対し圧倒的な

実力で返していく。単純なぶつかり合いでは龍穂の方が上であり、このままであれば

簡単に押し込まれるだろうが、クトゥルフには龍穂にはない圧倒的な利点を手にしている。


「味わうといい・・・。」


再び浮かんできたルルイエはボロボロの姿ながらも、その真価を発揮する。

主神を封じし祭壇を積んだ島であるはずが、長年クトゥルフが貯めこんだ力が溜まっており

以前の形を成しておらずとも近くに浮かぶだけで邪神の力が増幅させる。

そして最も大きな違いは領地の形状。大気を司る力より遥かに扱いやすく、

攻守において予備動作が少ない水相手では龍穂と言えど初速が劣る。

その上子孫の力を未だその身に携えており、強力な範囲攻撃を行えたとしても

すぐさま回復され、手数で押されれば押し込まれる。

狂気に包まれた龍穂と言えど、これまでの戦いと同じ轍は踏めば今度こそ命を落とすことを

十分に理解している。その上で全てを破壊するため、早期且つ圧倒的な破壊で

クトゥルフを打ち果たそうと行動を開始する。


「死ね!!!」


まずはリソースを削る。狂いながらもいつも様に戦う姿を見て、隣にいる楓は酷く安堵する。

正常な判断を取ることができない者が自ら命を絶つような行動を取る可能性は十分にある。

その時こそ、従者である自らの出番。命を刈り取る凶弾を防ぐ。主が歩もうとする道に

転がる小石などを排除し、目的地へと無事にたどり着かせる。

そのためになら例え凶刃が降り注ごうとも体を張らなければならない。

龍穂のためになら当然の行動だが、安堵させたのは決して死を恐れているわけではなく、

命を落とすことがあれば龍穂の隣に歩くことが出来ないことへの恐れ。


「・・・・・・・・。」


そして安堵と同時に感じる敗北の香り。これでは狂った意味がない。

空気操作を止めたことで威力が上がっているのは目に見えているが、先ほどの人間の力を

越えたすさまじいの一言に尽きる強風。あれほどの一撃でも傷一つ付かない姿は見て、

さらなる狂気で戦わなければ戦況は変わらない。


「・・・・・ふふっ♪」


であればこそ狂う。従者の仕事は決してただその場にいるだけではない。

道に迷い、間違う主を正しい道に導く必要がある。


「龍穂さん。そこではありませんよ?」


妖艶な笑顔で龍穂の体にピタリと体を寄せると、ルルイエを破壊するために伸ばされた

腕の先に付いた右手を優しく握り、正しい標的がいる方向に人差し指を伸ばす。


「あなたはあれだけ見ていてください。龍穂さんの優しさは嬉しいですが、

今あなたに必要なのは正気ではなく、狂気。」


後ろから伝わる気配。どうやら仲間達がこちらに近づいてきている。

その気配を龍穂が感じ取っているかは分からないが、もし彼女達が龍穂の近くに来てしまえば

狂気が風に乗り、どこかへ吹き飛んでしまう。


「・・・・・・・・・。」


「大丈夫。私がお供します。心身ともに共に狂いましょう。」


龍穂の中にこびりついた一度目の敗北を払拭するため、打ち放った嵐だったが

思っていた成果を上げられなかった現実が狂気を薄れさせた。

這い寄る混沌の術式でもなお、薄れさせる仲間への思いを嬉しく思う楓だったが

このような所で正気を取り戻せば先はない。だからこそ、正しい道を選ばせる必要がある。

龍穂の首筋へとキスをしこの先へ行こうと誘惑すると、再び龍穂から笑みがこぼれた。


「・・・いいね。」


静かな声。だが、それは深い狂気へのスイッチ。信頼できる楓と共に行けるのなら

狂いきってしまっていいという龍穂の覚悟。既に術式の名を呼ぶことなくとも

吹き荒れる風は再びクトゥルフへと標的を変え、打ち放たれる。


「無駄な事を・・・。」


一度見た術式を二度は喰らわないとクトゥルフは自らの領地へ潜っていく。

敷かれた海。その深くまで潜れば風は喰らわない。正しい判断に思えたが、龍穂もまた

効果の無かった術式を二度も打ち放つことは無い。

一面に吹き荒れる嵐の力を一点に集め、領地へ引きこもったクトゥルフに向けて撃ち放つ。

黄衣の下から触手を出し、いつもの触手の先に風の力を集め領地を荒すために無造作に、

幾度となく蹂躙し始める。


「そうです。それでいい・・・・・。」


恐怖を感じていない事を確認した楓は体を少しだけ動かし、後方にいた竜次達を見つめる。

それは合図。これから私も共に狂う。そう視線で伝えると龍穂の背後に回り、翼を広げる。

すると龍穂と同じ様に空気を集め、漆黒の海へと打ち放ち始める。辺りに広がる轟音だけが

その場の様子を辺りに伝えるが、助けるために付いてきた竜次達でさえその様子を確認する

術は無い。


「こりゃ・・・・・。」


「私達の出番ではないみたいね。」


古い英雄達と言えど、視界の悪い中化け物達の戦いに身を投じる事は出来ない。

仮にしたとしても、それは犬死であり、投身するのと同義であった。


「・・我々には我々の役割がある。龍穂君が再び人間に戻る時がその時であると私は確信してしています。」


そのためには戦場に踏み入った仲間達の力が必要。彼女達を無事に迎え入れるための

下準備こそが今の自分達の役目だとノエルは二人に語る。


「じゃあ・・・・あれか。」


役目を果たすため、三人の視線はルルイエに向けられる。先祖達が封印するための場として

選んだ島。当時の戦いを記した数少ない資料によれば、本来破壊する予定であった

クトゥルフの根城に封じ込める事だけで精いっぱいだと記されていた。

先祖が果たせなかったルルイエの破壊。それを受け継ぐのは自分達だと、

狂った龍穂達から離れて移動を始める。背負った荷物を捨て狂った者。

先祖の無念を果たすため、その思いを背負う者。入り乱れた混沌の戦場には、

クトゥルフと地球の生命体の戦いの歴史が詰まっていた。



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