8.
テヘトは部屋を出ていった、はずだ。
それではこれは何事だ?
朝から慣れない準備をしていて、疲れていたということはあるだろう。思いの外はかどって、これなら明朝にでも出かけられるな、と気が抜けたのも確かだ。ごまかすためにベッドに入ったことも覚えている、体調が悪いということにしていたのだし、そのときは自然なごまかしだと思ったのだ。浅はかにも。
気付いたら本当に寝入っていた。
そして目を覚ましたら、あぁ、何と言ったらいいのだろう、この事態は。
「あぁ、マナファナ、起きた?」
「テ‥‥ヘト‥‥?」
声がかすれた。マナファナを支配するのは、これは困惑だ。それなのに怯えたような声が出て、心のどこかが傷ついた。
全身にのしかかられていて、薄暗い部屋で、表情が見えない。
「許さないよ、マナファナ。出て行くなんて許さない‥‥」
きみをぼくのものにするよ。
その台詞が耳を打ち、意味を理解して、次に怒りが爆発した。同時に落とされた唇よりも舌よりも、その意思が気持ち悪い。
「ふざ‥‥ふざけるなぁ!私は私のものだ、誰にも所有なんてさせない!できるものか!」
マナファナは怒鳴り、渾身の力を持って重い体を押しのけた。許せなかった。父親と同値ですらあったというのに、彼はいとも簡単に裏切ってのけた。寝起きに急に動いたことと、怒りで、どくどくと血が巡っている音がする。
押しのけた身体をベッドの下に落とす。すさまじく鈍い音がしたが、同情など覚えない。それにしても火事場の馬鹿力というのだろうか、尋常でない力が出たものだ。相手がどこか投げやりであったせいかもしれないが。そのときはそこまで思い至らなかったけれど。
「マナファナ‥‥何をするんだい?」
口調だけはいつもと同じ、柔らかく。目だけが尋常でない光を呈して見えた。
「私は、‥‥」
無性に腹立たしく哀しかった。恐怖はない、こんな男を恐れたりしない。
「私の邪魔を、するな‥‥!」
何故それが出来てしまったのか、後から考えても理屈は分からない。
事実を言うのなら、吠えたマナファナの左手から、いつか自身を傷つけたものと同じ刃が生まれ、マナファナに躊躇はなく、見上げるテヘトの肩口めがけて振り下ろしていた。




