6.夜の帳に咲く絆
「――姉様、本当に行くの? あいつに……売られるようなものじゃないか!」
夜。部屋に入ってきたファビオが低く、震えた声をあげる。
私は、首を振り、静かに答えた。
「私だって、怖い。――でもね、あの方は……初めて私の瞳を見ても、侮蔑しなかった」
そう言いながら、私の体はわずかに震えている。
ファビオが、心配そうにこちらを見て、呟く。
「姉様は怖くないの? 『血霞の侯爵』が――敵対するものは身内でも……って噂じゃないか。姉様だって、何をされるか――」
「ファビオ。あの方は……『血霞』の名を冠するような方ではない。そんな気がするの」
ファビオが、黙り込む。「まだ納得がいかない」そんな表情を浮かべている。
国境の町、ファルネーゼ侯爵領は、王都とは文化が少し違うと聞く。馴染めるだろうか。いや、こことは違う文化の町なら――何か変わるかもしれない。そんな僅かな期待が胸の奥に灯った。
私の翡翠色の瞳が誇りの色だと、そう仰ってくれた方のもとならば、ここよりは息ができるかもしれない。
ファビオをまっすぐ見て、私は口を開く。
「……信じてみたいの。あの方のことを」
私の口から、初めて出た心からの言葉。
ファビオは、一瞬目を丸くして、少し俯いて呟く。
「姉様の意思なら、僕は反対しない。僕も本当は、姉様には家を出て……幸せになってほしい。こんな生活、していてほしくない」
私はそっとファビオに触れる。
「ありがとう……ファビオ。その言葉が、とても嬉しい」
視界がじわりと滲む。
「姉様が信じるなら、僕も――侯爵様を信じて教えを請うよ」
ふっと、ふたりで吹き出すように笑う。
ファビオが部屋を出ていき、静けさが戻った部屋で私は荷造りをする。
……と言っても、古びたドレスが数着と、お祖母様の贈り物の翡翠色のドレスと首飾り。
私の持ち物は、このくらい。小さな鞄に収まるかもしれない。
(――本当に、この家には私のものは何もない)
心の中で呟く。
音を立てぬよう静かに部屋の扉を開け、バルコニーへ向かう。
バルコニーへ出て空を見上げると、夜空には満天の星と、月が白くふわりと浮かんでいる。
その下に、人影が見えた。
「お父様……? 夜風はお体に障ります」
お父様は、静かに首を振り答えた。
「アリーチェか……。ただ、夜風にあたりたい気分でね――アリーチェ、本当にすまないことをした」
私は、首を傾げる。
「なぜ、お父様が謝るのですか? ……ファルネーゼ侯爵家に嫁ぐのは、私の意思です。家のためではありません」
(お父様とファビオ――そしてこの家が守られるなら、駒にだってなんだってなる。そう思っていたけれど……)
「……これを、持っていきなさい」
お父様の手には小さな翡翠色のブローチ。
「……これは……?」
お父様が空を見上げ、静かに口を開く。
「これは、代々この家に伝わるものだ。アリーチェ、お前にこそふさわしい。お前を、守ってくださるだろう」
私は小さく「はい」とだけ答え、頷いたあと翡翠色のそれを受け取った。
忌むべき翡翠色の装飾品が、なぜこの家に代々伝わっているのだろう。
お祖母様も「誇るべき色」と仰っていた。
その意味は――私にはわからない。
ただ、私の胸は少しだけ暖かくなる。
私は、お父様の方を向き、呟く。
「ありがとうございます――お父様も、お休みになってください」
お父様は微笑み、静かに頷いた。
静かに部屋へ戻り、翡翠のブローチを見る。
それを見ると、暖かく、どこか懐かしい空気が漂う。
刻まれた紋章を見て、私は目を見開く。
(これって――王家の紋章じゃない。どうしてこの家に――?)
翡翠色の意味、お祖母様と侯爵様の言葉の意味。
そして王家の紋章。
私は、胸のどこかでざわざわした予感のような感覚がした。




