5.なぜ、私?
いつものように帰宅すると、屋敷の中がざわついていた。
きょろきょろとしている私に、母の厳しい声が飛ぶ。
「アリーチェ、これからファルネーゼ侯爵がお見えになるそうよ。早く着替えなさい。汚い格好はしないで――オルドラン家の品格に関わるわ」
品格以前の問題だ――と私は言いたいのを抑え、自分の部屋へ向かい、クローゼットを開く。
どれも、人前で着るにはあまりにも古びていた。
(汚い格好をするな、か)
よく言えるものだ。私は心の中で呟きながら、お祖母様に贈られた翡翠色のドレスを身にまとう。
お祖母様がこのドレスをくださった時、私にだけ聞こえる声でこう言った。
「アリーチェ、翡翠色は忌まわしき色ではないわ。誇り高き色よ」
装飾も、お祖母様の贈り物を身につける。翡翠のあしらわれた首飾りが一瞬、ふわりと光って見えた。
まるで、私に「大丈夫」と告げるように。
目の色が見えないように深くヴェールを被り、広間へ降りる。
遠くから聞こえる馬車の音が少しずつ近づいて来たその時――一瞬、空気がぴんと張りつめた。
馬車から降りて足音が重く響く。張り詰めた空気が、さらに何重にも増す。
扉に現れた彼――ファルネーゼ侯爵様は、少し威圧感がある。
つかつかと私の前に近づいてきて、立ち止まり、正面から私の瞳を見た。
つい俯く私に、侯爵様は「顔を上げて」と囁く。
顔を上げると、彼はとても優しい微笑みを私に向けた――が、彼の真意は見えない。
心臓が、大きく早鐘を打ち、顔が熱くなる。
なぜ、こんな私を選んでくださったのか、優しい目を向けてくださるのか――私にはわからない。
その時、バンッと大きな音を立て、扉が開く。
「……姉様を、買ったんですか?」
奥の部屋から飛び出してきたファビオが震える声で言う。
侯爵様は、静かに答えた。
「買ったのではない――選んで、迎えに来たのだ」
「それでも信じられない」と疑うように睨みつけるファビオを見る侯爵様の目は、どこか懐かしいものを見ているようだった。
まるで、遠い過去を見ている、そんな眼差し。
「――おやめなさい! ファビオ!」
母が止めに入る。侯爵様は、母に冷たい射抜くような目を向ける。
「婚姻の条件に追加する――令息ファビオ・オルドランの教育も我がファルネーゼ家で行う」
母が、苦虫を噛み潰したような顔をしつつ、かろうじて笑みを保っている。
私とファビオは状況が飲み込めず、その場から動けずにいた。
「アリーチェ、こちらへ」
侯爵様の言葉に、私の胸がまた高鳴る。そして、彼の後ろを静かに歩き出す。
二階の、私の部屋の前。ふたりきりになった状況。私は胸の鼓動が聞こえてしまいそうなほど大きな音を立てていた。
侯爵様は、私の目を覆っていたヴェールを上げて、静かに声を落とす。ただ、その瞳は私を絡め取り、逃れることのできない色を僅かに秘めている。
「アリーチェ、もう瞳を隠す必要はない」
私は、絞り出すように「はい……」と返事し、ゆっくりと頷く。
(なぜ、侯爵様は私の瞳を見ても否定しないのだろう……そして、なぜ私なんだろう)
何度も、何度も、その疑問が頭から離れない。
「呪われた子」「忌まわしい色」と言われてきた私を、妻として迎え入れてくださる。
その本当の意味は何なのだろう。何か裏があるんじゃないか。そのような考えがぐるぐると駆け巡る。
ただ、私を見る侯爵様の目は、本当に優しい。今まで向けられたことのない暖かさに、私は戸惑ってしまう。
お祖母様が亡くなった今、私に優しい眼差しを向けてくれる人なんて、周りにはいなかったから。
「翡翠の色は……誇るべき色だ」
侯爵様の声に、かつてのお祖母様の声が、重なった気がした。
ファルネーゼ侯爵領へ発つのは一週間後。
怖くないと言ったら嘘になってしまう――しかし、私の心には少しだけ暖かいものが灯り始めていた。




