16.翡翠は静かに血霞を照らす
「図書室に行ってから、部屋に戻ります――なんだか今日は、本が読みたいの」
「アリーチェ様、何かあったらすぐ行きますからね!」
夕食の後、エルミラと言葉を交わし屋敷の図書室へ向かう。元気そうに見えるがどこか心配そうに私を見るエルミラを背に、私は燭台が揺らめく廊下をゆっくりと歩く。
「自由に使っていい」とアウレリオ様が話していた図書室に、今日はなんだか呼ばれている――そんなざわっとした予感がした。
カチャリと木の扉を開けると、壁のランプだけが照らされている図書室の奥に人影が見えた。
(アウレリオ様――?)
彼は図書室の奥の机いっぱいに、古い本を広げ、熱心に何かを書き写している。
サラサラ、カサリとペンと紙の擦れる音が途切れずに響き、彼は何かに取り憑かれたかのように集中している。
私は彼の邪魔にならないよう音を立てず静かに図書室に入り、彼の近くを通り過ぎる時、ちらりと何かが書かれたメモのようなものが目に入った。
(リーサ……エレノア……翡翠……五代前……? 何だろう?)
そのまま私は本棚の方に向かう。古びた本から新しめの本まで様々な本が並んでいて、本の紙とインクの香りが、私の心を静かに落ち着かせてくれる。
数冊気になった本をパラパラとめくる私の後ろで、彼の忙しない筆記音が絶え間なく続いている。
(この本も……あの本、読みたいと思っていたのにまだ読めてない! これを自由に読んでいいだなんて!)
私は、本の前で静かに心を躍らせる。ゆっくり本を読む時間なんて、何年ぶりだろうか。
時間が水のように溶けて流れていき、久々にゆっくり本を読む時間を噛み締める。
静寂を、壁のランプの灯りだけがゆらりと照らす。
一冊の本を読み終わった私は、次読む本を本棚から探そうと、棚の前で指をすべらせたその時、古びた本の中に一冊、王宮にしかなさそうな装丁の本が目に留まった。
(なんだか、気になる)
私はその本に呼ばれるように手を伸ばし、本を開いたその時、一節が目に入る。
『王国の初代女王リーサ・ウィンドミル、その瞳はどこまでも澄んだ翡翠の瞳をもち――』
――翡翠の瞳。忌まわしき色。
指が止まり『翡翠』の二文字だけが浮かび上がる。
しんとした空気の中で、時が止まったかのように周囲も、私も動けない。
『アリーチェ、翡翠色は忌まわしき色ではないわ。誇り高き色よ』
かつてのお祖母様の声が一瞬聞こえた。ぽうっとした、けれど芯のある声で。
忌まわしき色。誇り高き色――翡翠の瞳。
私の輪郭が一瞬揺らいだその時、背後から声がした。
「アリーチェ」
声をかけられても、すぐには動けなかった。本に吸い寄せられるかのように。
ゆっくりと振り向くとアウレリオ様がこちらを見ていた。私を見る瞳の色が少し揺れている。
彼は視線を本に落とし、目を丸くしている。私は彼と手元の本を交互に見つめ、ふたりの間をしばし沈黙が包む。
「……その本を、読んでいたのか?」
「え、ええ……勝手に読んでしまって……翡翠の瞳……と書かれていて、つい気になって」
彼の少し震えた声に、私は一瞬びくりとする。
「意外」と言いたげな顔をしながら、彼は声を落とす。
「構わない。そして君に……話がある。場所を移そう。私の部屋へ」
「はい……」
コクリと頷き、彼の後をついて図書室を出る。
燭台の灯りが揺らめく廊下をふたりで歩く。照らす影がすうっと伸びて、静寂が包む。
いつもより長く感じる廊下を私は視線を落としながら歩く。靴の音が、かすかに響く。
あの本に書かれている内容、初代女王陛下は翡翠の瞳。それならなぜ翡翠の瞳は忌まわしき色となったのだろう。
その意味が、お祖母様の言葉と繋がっている――そんな予感が僅かにした。
キィ……と蝶番の軋む音がし、アウレリオ様の私室の扉が開かれる。
深い紅色の調度品で揃えられたその部屋に、一瞬私はどきりと心臓が跳ねる。
「そこに、座るといい」
彼の指差すソファに私はゆっくり腰を下ろす。薄暗い部屋に、ランプの光が揺らめきながら彼の顔をぼんやりと照らす。
その光が、私を捉えて離さなかった。
彼は私の横に座り、静かに話し始めた。
「……アリーチェ、いつか君に、話しておかなければならないと思っていた。――この屋敷で五年前に起こったことを」
静かに話す彼の声は、わずかに震えている。私は、彼の手の上に手を重ね、頷くと、彼は話を続けた。
私は、彼の瞳をじっと見つめる。
「――五年前、この屋敷は何者かに襲われ、私の両親と姉、そして当時の侍女長が……殺された」
彼は話を続けるが、声の震えが次第に強くなっていく。
「その時、私は王都の成年式に出席し……帰っているところだった……。屋敷に帰った時、誰の声もせず――血の香りだけが漂っていた」
彼の目が震え、涙が一筋、伝う。私は、頷きながら重ねた彼の手を静かに握った。
「広間には……両親と姉、そして……侍女長の遺体がかばい合うように重なっていた……」
ここまで話し終えた時、彼は私の方へ力なく倒れ込む。私はそれを抱きとめた。
私の肩に、彼の涙が滲む。私は、何も言わず、震える彼の背に手を回す。
――彼と、屋敷の人々が時折寂しい目をする理由が、カチリと音を立ててひとつ、はまった。
「俺は……守れなかったんだ……家族さえ……」
浅い呼吸混じりの嗚咽を漏らす彼に、私は静かに声をかける。
「いいえ、アウレリオ様。私は……こうして、傍におります」
ランプの灯りがゆらり、ゆらりと揺れ、沈黙が落ちる。
彼は、私を抱き返し、静かに言葉を落とした。
「アリーチェ、最初は君に翡翠の瞳と打算で近づいた。――しかし、学舎で初めて君を見た時、君自身から目を離せなかった。強い――心のある眼差しに」
彼が私の顔を真剣な表情で射抜くように見つめる。彼の琥珀の瞳が、かすかに揺れる。
「――だが、今は違う。毎日くるくると変わる君の表情に、君自身に惹かれている。離したくない……愛している、アリーチェ」
彼の言葉に、全身が熱くなり、心臓が強く早鐘を打つ。私は彼の目を見つめ、答える。
「私も……愛しています。アウレリオ様。あなたの過去も、未来も共にお傍で支えます」
彼がゆっくりと近づき、優しく甘い口づけが落とされる。そのまま、静かにふたつの影が重なる。
アウレリオ様の妖艶さを含んだ琥珀の目が、私の翡翠の瞳を絡め取るように見据え、執着にも似たその眼差しが、何度も私を捕らえて離さなかった。




