第8話「噂の行方」
模擬試合から数日が経っても、学園内でのニコラスへの注目は冷めるどころか、むしろ日に日に大きくなっていった。
「あそこにいるのが、噂のローウェル君?」
「一年生なのに、あんなに凄いなんて」
廊下を歩くだけで、そんな囁き声が耳に入ってくる。ニコラス自身は、できるだけ普段通りに振る舞おうとしていたが、四方八方から向けられる視線には、さすがに落ち着かないものを感じていた。
「なんか、有名人みたいだな、ニコラス」
昼休み、中庭のベンチに腰掛けながら、ルーカスがからかうように言った。
「勘弁してほしいよ、正直」
「まあまあ、悪い気分じゃないだろ?」
「別に、そういうんじゃないんだけどな……」
前世で言うところの「社内の噂の的」に近い感覚だと、ニコラスは内心で苦笑していた。会社員時代、大きなプロジェクトを成功させた同僚が、しばらく周囲から特別扱いされていたのを思い出す。あの時は他人事だと思っていたが、いざ自分がその立場になると、思いのほか居心地が悪いものだった。
「私は、ちょっと羨ましいけどな」
ソフィアが控えめにそう呟いた。
「羨ましい?」
「うん。私、目立つこととか苦手だから……そんな風に、堂々と自分の力を発揮できるの、素敵だなって」
ソフィアの言葉に、ニコラスは少し驚いたように瞬きをした。彼女がこうして自分の気持ちを積極的に口にすることは、あまり多くなかったからだ。
「そんなたいそうなものじゃないと思うけどな、僕は」
「でも、皆に注目されても、ちゃんと自分らしくいられてるじゃない。それって、案外難しいことだと思うよ」
シャルロットがそう付け加えると、ソフィアも小さく頷いた。友人たちのそんな言葉に、ニコラスは少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「それより、フェリックスは大丈夫? なんか今日、静かじゃない?」
シャルロットがふと、そう尋ねた。いつもなら真っ先に軽口を叩くフェリックスが、その日はどこか考え込むような表情を浮かべていた。
「ん、ああ……ちょっと、家からの手紙でね」
フェリックスは曖昧に笑いながら、そう答えた。商家の三男として、父の商売のことで何か気になる知らせがあったのかもしれない。だが、それ以上は深く語ろうとせず、話題はすぐに他へと移っていった。
一方その頃、学園の一室では、教師たちの間で一つの議論が交わされていた。
「ローウェルの件だが、正式に王都の記録院へ報告するべきではないか」
「まだ一年生だぞ。あまり大げさに扱うのは、本人のためにもならないだろう」
「しかし、あの実力は……国としても、無視できる話ではないはずだ」
レイラ先生とグレイソン先生、そして学園長を交えた話し合いは、なかなか結論の出ないまま続いていた。
「本人には、まだ自覚がないようだ。だからこそ、慎重に扱う必要がある」
学園長がそう口を挟むと、部屋の空気が一瞬、静まり返った。
「自覚がないからこそ、危ういとも言えます。もし本人が知らぬ間に、王侯貴族や他国の目に留まるようなことがあれば……」
レイラ先生の言葉に、グレイソン先生も苦い表情で頷いた。
「エルデシアは小国だ。優れた人材が現れれば、それだけ他国から狙われる可能性も高くなる」
学園長は静かにそう呟くと、しばらく考え込んだ後、口を開いた。
「しばらくは、内々に注視するだけに留めよう。まだ一年生だ。焦って動く必要はない」
もちろん、その話し合いの内容が、生徒たちに伝わることはなかった。だが、この学園の片隅で交わされたやり取りは、いずれニコラスの人生に静かな影を落としていくことになる。
放課後、寮に戻る道すがら、ニコラスはふと空を見上げた。
「なあ、フェリックス」
「ん?」
「さっきの手紙のこと、大丈夫か? なんか、元気なかったから」
ニコラスがそう尋ねると、フェリックスは一瞬驚いたような顔をした後、小さく笑った。
「気づいてたのか。大したことじゃないよ、本当に。ただ、うちの商会、最近ちょっと商売敵が強気でさ。父さんが、少し苦労してるみたいなんだ」
「そうなんだ……」
「まあ、いつものことだよ。商人なんて、常に誰かと競争してるものだからね」
フェリックスは軽い調子でそう言ったが、その笑顔には、いつもより少しだけ影があるように見えた。
「何か力になれることがあったら言ってよ」
「ははっ、ありがとな。でも、これは僕の問題だから」
そう言って、フェリックスは足早に寮の入り口へと歩いていった。その背中を見送りながら、ニコラスは小さく息を吐いた。
(みんな、それぞれに事情を抱えてるんだな)
エドワードの家の派閥争い、フェリックスの家の商売の苦労。華やかに見える学園生活の裏側にも、それぞれの重みがあることを、ニコラスは改めて実感していた。
自分自身は、規格外な力を持ちながらも、まだその力が何をもたらすのか、はっきりとは分かっていない。だが、この学園での日々を通じて、少しずつ、この世界の広さと複雑さを知っていくことになるのだろう――そんな予感を胸に、ニコラスは寮の廊下を歩いていった。
学園一年目、まだ物語の入り口に立ったばかりだった。
その夜、寮の自室でベッドに横になったニコラスは、天井をぼんやりと眺めながら、これまでのことを振り返っていた。
模擬戦での勝利、周囲からの注目、そして友人たちがそれぞれに抱える事情。前世で三十年以上生きてきた記憶があるとはいえ、この世界での自分は、まだたった十歳の子供でしかない。分からないことの方が、ずっと多かった。
(まあ、焦っても仕方ないか。一歩ずつ、やっていくしかない)
そう自分に言い聞かせながら、ニコラスは静かに目を閉じた。窓の外では、王都の夜がゆっくりと更けていく。
明日もまた、変わらない学園生活が続いていくはずだった。少なくとも、この時のニコラスは、そう思っていた。
(第9話へ続く)




