第151話 帝都ヴァルシア
国境を越えて五日。馬車の窓から見える景色は、少しずつ、街の気配を帯びていった。整然と区画された畑、石畳の街道、そして、行き交う荷馬車の列。
「さすが、帝国ですね。街道の整備が、王国とは段違いです」
ミレーナが、窓の外を眺めながら、感嘆の声を漏らした。向かいの席のエルンスト大臣も、静かに頷く。
「国力の差は、素直に認めねばならん。だからこそ、交渉は、慎重に進める必要がある」
「……はい」
ニコラスは、膝の上の布袋を、そっと握りしめた。シャルロットから渡された、あの刺繍入りの袋だ。帝国に着いてから読むように言われた手紙が、中に入っている。
「そろそろ、いいかな」
夕暮れ前の休憩で、ニコラスは、人気のない木陰で、手紙を開いた。
『ニコラスへ
この手紙を読んでいるということは、無事に帝国へ着いたのね。
まず、言っておくわ。無茶は、禁止。あなたが怪我でもしたら、私が許さないから。
それと、外交の場で、困ったことがあったら、私の教えたことを思い出しなさい。お辞儀の角度、言葉遣い、相手の目を見て話すこと。全部、あなたなら、できるはずよ。
追伸。ソフィアが、あなたのために、毎晩、お祈りしているわ。フェリックスは、お土産の売上を、毎晩、計算しているけれど。
あなたの帰りを、待っています。 シャルロット』
読み終えて、ニコラスは、思わず、笑ってしまった。フェリックスの追伸が、なんとも彼らしい。けれど、手紙の最後の一行が、胸に温かく染み込んでくる。
「……必ず、帰るよ」
小さく呟いて、手紙を、丁寧に袋へ戻した。
翌日の昼過ぎ、使節団の馬車は、帝都ヴァルシアの城門をくぐった。
そこに広がっていたのは、王都とは比べものにならないほど、巨大で、壮麗な街並みだった。白い石造りの建物が、整然と立ち並び、中央には、天を衝くような城が、そびえ立っている。
「うわあ……すげえな」
カイが、窓にへばりついて、目を丸くした。
「カイ、みっともない。シャツの襟を、直せ」
「いや、だって、レオン、見ろよ。あの城、うちの王城の三倍はあるぞ」
「だからこそ、堂々としていろ。我々は、王国の使節団だ」
レオンの低い声に、カイが、しぶしぶ襟を正した。ニコラスは、窓の外を眺めながら、胸の奥で、微かな共鳴を感じていた。
帝都の北の方角から、何かが、呼びかけている。ガルメア要塞で感じた、あの冷たい意志とは、少し違う。もっと、か細くて、遠い声。
「……聞こえる」
「ニコラスさん?」
隣のミレーナが、気づいて、小声で尋ねた。
「北の方に、誰かが、呼んでいる気がします。きっと、帝国北方の遺跡の、守り手です」
「そうですか……。まだ、反応は、弱いですか?」
「はい。眠っているような、そんな感じです」
ミレーナは、静かに頷き、そっと周囲を窺った。
使節団は、城の大広間に、通された。天井の高い、豪奢な広間の奥に、玉座が据えられている。その傍らに、一人の男が、静かに立っていた。
「ようこそ、エルデシア王国使節団の皆様。私は、宰相のヴェルナーと申します」
銀髪を撫でつけた、品のある壮年の男が、穏やかな笑みを浮かべて、一礼した。物腰は柔らかく、声音も、どこまでも丁寧だった。
「遠路はるばる、ご苦労様でした。皇帝猊下は、ただいま、ご準備中でして。お待ちの間、広間にて、歓迎の宴を、ご用意しております」
「お心遣い、痛み入ります、宰相閣下」
エルンスト大臣が、礼を返す。ニコラスも、教え込まれた通りの角度で、深く、長く、頭を下げた。
その瞬間、ヴェルナーの目が、わずかに、細められた。
「ほう……帝国式の礼を、完璧にこなされるとは。まだ、お若いのに、見事ですな」
「恐れ入ります。作法の先生が、厳しい方でして」
「それは、素晴らしい先生だ」
ヴェルナーが、柔らかく笑う。けれど、ニコラスの胸の奥では、共鳴が、警戒を告げるように、ざわついていた。この男の笑顔の奥に、何か、冷たいものが潜んでいる。
歓迎の宴は、豪勢だった。長いテーブルに、見たこともない料理が、ずらりと並ぶ。カイは、目を輝かせて、料理に手を伸ばそうとして、レオンに、肘で小突かれていた。
「なんだよ、レオン。食べるくらい、いいだろう」
「作法を守れ。お前の一挙手一投足を、見られているんだぞ」
「分かってるって。箒は、置いてきたし」
「それは、当然だ」
穏やかな会話の中、ヴェルナーが、ふと、ニコラスの方に、杯を向けた。
「ニコラス殿。ガルメア要塞での顛末は、伺っております。あの水晶を、鎮めたのは、あなたとか」
「……はい。皆さんの協力があったからこそです」
「ご謙遜を。その力は、実に、興味深い」
ヴェルナーの目が、鋭く光った。一瞬の沈黙のあと、広間の奥の扉が、ゆっくりと開かれる。
「皇帝猊下の、おなりです」
居並ぶ人々が、一斉に、頭を垂れる。ニコラスも、同じように、深く頭を下げながら、そっと、視線を上げた。
玉座に向かって歩いてくるのは、まだ、あどけなさの残る、一人の少年だった。ニコラスと、同じくらいの年頃。銀色の髪と、どこか、寂しげな、翠色の瞳。
その瞳が、一瞬だけ、ニコラスの胸元を、じっと見つめた。まるで、そこに隠された小さな結晶の存在を、見抜いたかのように。
第152話へ続く




