第149話 外交作法、再び
「帝国への使節団に、同行する……ですって?」
王都の食堂の個室で、シャルロットの声が、低く震えた。ニコラスは、思わず背筋を伸ばす。
「うん。陛下から、直々に頼まれて、引き受けたんだ」
「あなた、国境から帰ってきたばかりなのよ? また、危険な場所へ行くつもりなの?」
「今回は、戦いに行くわけじゃないよ。話し合いの場に、同行するだけだから」
「話し合いの場ほど、危険なものはないわ。何しろ、相手は、昨日まで戦争を仕掛けようとしていた国なのよ?」
ぐうの音も出ない正論だった。ソフィアが、心配そうに、二人を見比べている。フェリックスは、なぜか、嬉しそうに、商談用の手帳を取り出していた。
「帝国か! 未開拓の市場じゃないか! ニコラス、帝国向けの商品、俺が見繕っておくよ!」
「フェリックス、今、そういう話じゃないんだけど」
「いやいや、外交の場では、手土産が大事なんだ。ここは、商人の出番だろう?」
「……それは、確かに、一理あるわね」
意外にも、シャルロットが、頷いた。
「外交の場で、手土産を軽んじる者は、まず、相手にされないわ。ニコラス、あなた、外交作法の心得は?」
「え、ええと、国王陛下への礼儀作法なら、シャルロットに教わったけど」
「それは、国内向けの、基本中の基本よ。他国の使節団と、同じ作法が通用するとは限らないの」
シャルロットの目が、きらりと光った。嫌な予感が、ニコラスの背筋を駆け上がる。
「出発まで、あと十日ね。……十分よ」
「な、何が?」
「あなたに、外交作法を、一から叩き込むには」
その日から、ニコラスの地獄の特訓が、始まった。
「お辞儀の角度が、国によって違うの! 帝国式は、深く、長く! 王国式の三倍よ!」
「さ、三倍……」
「それと、挨拶の言葉は、必ず、相手の身分に合わせること! 皇帝陛下には『陛下』ではなく、『皇帝猊下』と呼ぶのよ!」
「『げいか』……って、どう書くの?」
「書かなくていいから、発音を覚えなさい!」
子爵家の令嬢の指導は、容赦がなかった。隣の部屋で、様子を見に来たフェリックスが、扉の隙間から、そっと、手を合わせている。
「ニコラス、頑張れ。骨は、拾ってやる」
「縁起でもないこと言わないで!」
「聞こえているわよ、フェリックス! あなたも、手土産の選定を手伝いなさい!」
「は、はいー!」
三日目には、ソフィアが、差し入れのお菓子を持って、様子を見に来てくれた。
「ニコラスさん、大丈夫ですか?」
「ソフィア……優しさが、身に沁みる……」
「あ、あの、無理は、なさらないでくださいね」
「ありがとう。……でも、もう、お辞儀の角度が、頭から離れなくて」
「それは、重症ですね」
ソフィアが、くすくすと、笑った。
その夜、特訓が終わった後、ニコラスは、シャルロットを、静かな中庭に誘った。
「ねえ、シャルロット。見せたいものがあるんだ」
「何かしら」
ニコラスは、懐から、小さな布包みを取り出した。そっと開くと、中には、澄んだ宝石のような、小さな結晶が、収まっている。
「これは……?」
「守り手さんが、最後にくれた、結晶なんだ」
シャルロットが、息を呑んだ。月明かりの下、結晶は、ほんのりと、金色の光を、帯びている。
「綺麗……。まるで、小さな心臓みたいね」
「うん。ずっと、温かいんだ。……あの時、本当は、少し怖かった。守り手さんの孤独を、全部、背負ってしまいそうで」
「ニコラス……」
「でも、シャルロットたちが、待っていてくれると思ったら、踏みとどまれた。この結晶は、その証みたいなものなんだ」
シャルロットは、しばらく、黙って結晶を見つめていた。やがて、そっと、ニコラスの手を、両手で包み込んだ。
「……あなたは、本当に、規格外ね」
「え?」
「でも、そんなあなたの隣にいられることが、私は、誇らしいわ」
不意打ちのような言葉に、ニコラスは、顔が一気に熱くなるのを感じた。シャルロットも、耳まで真っ赤になっている。
「い、今のは、その、深い意味はないんだからね! 子爵家の娘として、当然の感想を述べただけよ!」
「う、うん、分かってる、分かってる!」
「分かってるなら、いいのよ!」
二人して、顔を背けた。どこからか、ひそひそ声が、聞こえてくる。
「ねえ、フェリックスさん、今の……」
「しっ、静かに。名場面を、邪魔しちゃダメだ」
「聞こえているわよ!!」
シャルロットの怒声が、夜の中庭に、響き渡った。
そして、出発の三日前。ニコラスは、王城で、使節団の団長との顔合わせに臨んだ。
「外務大臣の、エルンスト・グレイヴだ」
痩身で、鋭い目つきの壮年の男が、冷ややかに、ニコラスを見下ろした。
「君が、噂の勲章持ちか。……正直に言おう。私は、君のような若造が、使節団に加わることに、賛成していない」
室内の空気が、一瞬で、冷え込んだ。レオンが、眉をひそめる。
「大臣、それは、陛下の御意向でして」
「陛下の御意向であろうと、外交は、遊びではない。礼儀も知らぬ田舎の少年に、務まるのかね」
ニコラスは、ゆっくりと、深く息を吸った。そして、教え込まれた作法通り、完璧な角度で、丁寧に頭を下げた。
「ご懸念は、ごもっともです。ですが、私にできることを、全力で、尽くさせていただきます」
エルンスト大臣の眉が、わずかに、動いた。
第150話へ続く




