第142話 将軍ゼノンの誘い
地下空洞に、将校の足音だけが、静かに響いていた。ニコラスは、ミレーナを背に庇うように、一歩前へ出た。
「……俺たちが潜入していることを、最初から知っていたんですか」
「知っていた、というほど大げさなものではない。商人の一団が、一晩遅れて到着した。それも、前の一団が襲われたと、実に都合のいい説明付きでな」
男は、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「それに、巨大な共鳴の波が、要塞の地下に近づいてくるのを、私も感じていたのだよ。君が近づくほどに、この水晶が、ざわめくのでね」
「あなたも、魔力を感じ取れるんですか」
「私は、ただの凡人だ。だが、長年この水晶を研究してきた。その反応くらいは、読み取れる」
男は、外套の胸元に手を当てて、芝居がかった仕草で一礼した。
「名乗りが、遅れたな。ヴァルシア帝国第三軍、将軍ゼノン。この要塞の、主だ」
将軍。その響きに、ミレーナが、息を呑む気配がした。
「将軍自らが、国境の荷の運搬に絡んでいたとは、驚きました」
「それほど、重要な計画なのでね。さて、ニコラス君。単刀直入に言おう。私の側に、来ないか」
あまりにも突然の誘いに、ニコラスは、一瞬、言葉を失った。
「……何を、言っているんですか」
「君の力は、この世界で、唯一無二のものだ。魔力と心を通わせ、その流れを自在に導く。かつて、古代の民だけが持っていた、失われた力だよ」
ゼノンは、巨大な水晶に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。
「この水晶は、古代文明が遺した、魔力の貯蔵庫だ。数千年の眠りの中で、膨大な魔力を蓄え続けてきた。目覚めさせれば、一国の軍勢など、一夜で灰にできるほどの力を、手に入れられる」
「そんなものを、目覚めさせて、どうするつもりですか」
「世界を、一つにまとめる。戦乱の絶えないこの大陸に、永遠の平和をもたらすためにだ。圧倒的な力による統治こそが、争いを終わらせる、唯一の方法なのだよ」
ゼノンの声は、穏やかだった。その穏やかさが、かえって、ニコラスの背筋を、冷たくした。
「ただし、この水晶の力は、普通の者には、扱えない。古代の力と、心を通わせられる者が、必要なのだ。そう、君のような」
「……王都近郊の遺跡も、その計画の一部だったんですか」
ニコラスの問いに、ゼノンの笑みが、わずかに歪んだ。
「ほう、気づいていたか。その通りだ。あの遺跡の結晶も、同じ古代文明の遺産でね。制御を失いかけていたところを、我々は、利用するつもりだった」
「利用……?」
「暴走させて、王都に、混乱をもたらす。その隙に、我が軍が、国境を越える。そういう筋書きだった」
その言葉に、ミレーナの顔が、蒼白になった。
「だが、君が、全てを台無しにしてくれた。あの結晶を、見事に安定させてしまった。……それで、君の存在を知ったのだよ。実に、興味深い少年だとね」
ゼノンは、愉快そうに肩を揺らした。
「だからこそ、君を探していた。王都の研究院に、人を送ったのも、そのためだ。もっとも、あの時は、君の所在を、突き止められなかったが」
「あなたたちが、ソフィアたちの研究を……」
怒りが、ニコラスの胸の奥で、静かに燃え上がる。けれど、ゼノンは、そんな怒りを、柔らかく受け流すように、首を傾げた。
「安心したまえ。君が味方になってくれるなら、君の大切な仲間たちには、手出しはしない。王都の、子爵家の令嬢も、研究院の少女も、全員の安全を保証しよう」
その言葉に、ニコラスの心臓が、強く跳ねた。シャルロットの顔が、脳裏に浮かぶ。
「……脅しですか」
「取引、と言ってほしいね。君が、この水晶に触れてくれるだけでいい。それだけで、君も、君の仲間も、新しい世界の、特等席に座れる」
沈黙が、地下空洞を満たした。巨大な水晶の内部で、青白い光が、ゆっくりと明滅している。
ニコラスは、目を閉じた。胸の奥で、八つ目の力が、静かに脈打っている。この水晶に、触れてしまえば、きっと、何かが起こる。それは、確信だった。けれど、それが、ゼノンの言うような平和をもたらすとは、どうしても思えなかった。
「お断りします」
静かに、けれど、はっきりと、ニコラスは言った。
「……ほう」
「力で押さえつけた平和なんて、平和じゃありません。それに、仲間を人質に取るような人の言葉を、信じることはできない」
ゼノンの表情から、笑みが、すっと消えた。
「そうか。……残念だ」
その瞬間、背後の階段から、激しい足音が、駆け下りてきた。
「ニコラス! 無事か!」
「ほらな、俺の箒、役に立っただろ!」
息を切らして飛び込んできたのは、剣を構えたレオンと、なぜか、折れた箒を握りしめたカイだった。ゼノンは、そんな二人を、冷ややかに一瞥すると、巨大な水晶に、掌を押し当てた。
「ちょうどいい。役者が、揃ったな」
その瞬間、水晶が、眩い光を放った。
「ニコラスさん、あれは……!」
「だめだ、早すぎる! 満月は、明日のはずなのに……!」
地下空洞が、激しく震え始める。青白い光が、天井まで噴き上がり、冷たい意志が、ついに、その目を開こうとしていた。
第143話へ続く




