第136話 月下の追跡
夜が更け、ハルベルクの街が静まり返った頃。ニコラスは、商人の宿を見下ろせる屋根の上に、息を潜めて腰を下ろしていた。
「どうだ、ニコラス。動きはあるか」
隣で屋根にへばりついているレオンが、小声で尋ねる。ニコラスは、目を閉じて『探知』に意識を集中させた。街中に散らばる人の気配が、淡い光の点となって、頭の中に浮かび上がる。
「倉庫の周りで、人が動き始めました。荷馬車が三台、馬を繋いでいます。護衛は、十人前後です」
「ついに来たか」
「それと……」
ニコラスは、言い淀んだ。倉庫の方角から、またあの感覚が、じわじわと胸の奥に広がり始めていたのだ。
「どうした?」
「いえ、大丈夫です。少し、気配が濃いだけで」
レオンは、何か言いたげな表情を浮かべたが、結局、黙って頷いた。後ろでは、カイが、なぜか持参した干し果物をこっそりかじっている。
「カイさん、見張り中に食べないでください」
「大丈夫だって。音は立ててないだろ」
「匂いがします」
「え、そんなに匂う?」
ミレーナが、無言で、カイの口元から干し果物を取り上げた。カイの情けない悲鳴が、夜風に溶けていく。
やがて、荷馬車の列が、静かに宿の裏口から動き出した。月明かりの下、車輪の音を殺すように、ゆっくりと街の裏路地を進んでいく。
「追うぞ。距離を保て」
レオンの合図で、四人は、屋根から屋根へと音もなく移動を始めた。ニコラスは、『探知』で荷馬車の位置を常に把握しながら、先導役を務める。
「彼らは、正門には向かっていません。街の北側へ、回り込んでいます」
「北……城壁の裏口か?」
「いえ、もっと外側です。城壁の外へ出て、河原に降りるようです」
守備隊長から聞いていた情報を、ミレーナが思い出した。
「北の河原には、昔、旧街道があったと聞いています。今は使われていませんが、国境の峠へ、直接繋がっているはずです」
「なるほど、正規の関所を避けて、抜け道を使うつもりか」
荷馬車の列は、城壁の小さな通用門から外へ出ると、予想通り、河原へと降りていった。ニコラスたちも、距離を保ちながら、慎重に後を追う。
冷たい夜風が、頬を撫でていく。草むらを踏みしめる足音さえ、ここでは命取りになりかねない。ニコラスは、呼吸を整えながら、一歩一歩を丁寧に進めた。
「ニコラス、足元に気をつけろ。ここは、石が緩い」
「はい、大丈夫です。……あ」
言った傍から、後ろで、小石の崩れる音がした。振り返ると、カイが、見事に足を滑らせて尻餅をついている。
「痛ってえ……」
「カイ、静かにしろ」
「静かにしてるって! 今のは、石が悪いんだよ、石が!」
ひそひそ声での言い合いに、ミレーナが、深いため息をついた。幸い、荷馬車の護衛たちは、前方に気を取られているのか、気づいた様子はない。ニコラスは、胸を撫で下ろしながら、再び前を向いた。
その時だった。
「……っ!」
体の奥で、激しい衝撃が走った。違和感が、これまでにないほど強く、はっきりと脈打っている。荷馬車の積荷に宿る魔力と、自分の内側にある何かが、まるで呼び合うように、共鳴していた。
「ニコラス、どうした!?」
足を止めたニコラスの肩を、レオンが支える。
「大丈夫、です……でも、感覚が、すごく強くなって」
「無理をするな。一度、引くか?」
「いえ。むしろ、この感覚、方向が分かるんです。荷馬車の積荷が、はっきり、感じ取れる」
ニコラスは、深く息を吸って、意識を研ぎ澄ませた。『探知』とは別の、もっと深い場所で、積荷の魔力の流れが、手に取るように分かる。まるで、魔晶石の一つ一つが、自分に話しかけてくるようだった。
「……荷馬車の積荷、全部で魔晶石が四十二個。うち三つに、不安定な亀裂があります。このまま運べば、峠の途中で暴走するかもしれません」
その言葉に、ミレーナが、息を呑んだ。
「そんなことまで、分かるんですか」
「分かる、みたいです。……自分でも、よく分かりませんが」
ニコラスは、苦笑した。説明のつかない感覚だったが、不思議と、恐怖はなかった。むしろ、ずっと昔から知っていた力に、ようやく気づいたような、静かな確信があった。
「暴走するかもしれない、か。それは、放っておけんな」
レオンの表情が、引き締まった。
「予定を変更する。峠に着く前に、ここで押さえるぞ」
「了解!」
カイが、調子外れの返事とともに、腰の剣に手をかけた。ミレーナも、杖を構えて、詠唱の準備に入る。
「ニコラス、お前は、積荷の魔力を抑えられるか」
「やってみます。皆さんは、護衛の対応をお願いします」
作戦は、短い言葉で決まった。
「ニコラス、くれぐれも、無茶はするなよ」
「分かってます。シャルロットとも、約束しているので」
「……そうか。なら、いい」
レオンが、ほんの少しだけ、表情を和らげた。月の光が、河原の石を白く照らしている。荷馬車の列が、ちょうど狭い岩場の間を通過しようとしていた。
「今だ!」
レオンの号令とともに、四人は、一斉に飛び出した。
「王国騎士団である! 全員、そこで止まれ!」
荷馬車の護衛たちが、驚愕の表情で振り返る。次の瞬間、護衛の一人が、懐から笛を取り出して、高く吹き鳴らした。
甲高い音が、夜の河原に響き渡る。
「……罠か!?」
カイが叫ぶより早く、周囲の岩陰から、無数の人影が、一斉に立ち上がった。月明かりに照らされた彼らの装備を見て、レオンの顔が強張る。
「あの鎧は……隣国軍の、正規兵だ」
第137話へ続く




