アニマルクラスは波乱万丈
「ダメだった」
九月一日。
二学期の最初の朝、学校へ向かいながら、俺は忠弥と響子ちゃんに告白の結果を報告する。
「マジか」
「絶対うまくいくと思ったのに……」
二人はそう言って俺の肩をぽんぽんと叩いた。その優しさが胸にしみる。
「さったん、いつか私が億万長者になったら、お嫁さんにもらってあげる……」
「空気読めよ」
「今のは、嫁と読めをかけている……? 忠弥は本当に、あれだね……」
「あぁ!? あれってなんだ! よく分かんねぇけど腹立つ!」
久しぶりの忠弥と響子ちゃんの漫才が見られて、俺は苦笑する。
良かった。なんとか笑えそうだ。
昨日の今日で失恋の痛手は全然癒えていないけど、強がりでも笑えるならそのうち乗り越えられるだろう。
それに俺は、小熊さんのことを諦めたわけではない。
「あ、パンダくん、ネズミくん、ウグイスちゃん、おはようー。久しぶり!」
昇降口で小熊さんに会った。
何の憂いも邪気もない、爽やかな笑顔を浮かべている。
忠弥と響子ちゃんは一瞬固まったが、俺は普通に挨拶を返した。
「夏休み、楽しかった?」
「ああ、うん。とても」
良かったね、と小熊さんは笑った。
彼女の頭の中からは、夏休みに俺と勉強会をしたことやお茶をしたこと、動物園へ行ったことなどの記憶が消えている。猫田さんとよろりが全て夢幻に変えてしまったのだ。
その方がいい。
恋心が消えた今、俺と二人で会っていた記憶があるのは不自然だろう。
今回の件で一番の被害者は小熊さんだ。
もう少しで精神を灰にされるところだったのだから。
それを思えば、小熊さんの心を守るのが最重要だ。
記憶の齟齬を抱えていたら、彼女の笑顔が曇るかもしれない。
だから、これでいいのだ。
なけなしの根性で笑っている俺だが、胸がずきずきと痛み出していた。あ、泣きそう。
俺だけが覚えている二人の思い出が脳裏に甦ったとき、全身がかっと熱くなった。
まるで『わたし』もいるよ、と言われているようで、俺は小さく笑う。
「パンダくん、ちょっといいかしら?」
みんなと連れ立って、教室に入ろうとしたとき、猫田さんに呼び止められた。不機嫌なライオンを思わせる鋭い目つきに一瞬怯む。
俺はカバンを机に置いて、密談に最適な人気のない階段の踊り場へ向かった。
「えっと……改めて言うよ。昨日は……ごめん。そしてありがとう」
頭を下げると、猫田さんはむっとした。
俺たちが逃げ出し、児童公園でやり取りをした後、小熊さんは意識を失ってしまった。
雨に濡れた小熊さんの体を前に俺が煩悶して困り果てていたところに、猫田さんが駆けつけてくれた。
そして後の処理をお任せしたのだった。
「別に……あなたに謝罪や礼を言われる覚えはないわ。元はといえば、その……私たちサイドのせいで、あんなことに……」
「確かにそうだけど、でも、俺にも原因の一端はあるよ。忠弥の夢で夜井さんが驚いたのも、過去の俺の映像が原因だしね」
「ネズミくんの夢に入るきっかけは私が作ったのよ」
「二人の喧嘩の原因である忠弥のトラウマを作ったのは俺だ」
責任のなすりつけ合い、ではなく取り合いをしていることが滑稽に思え、俺と猫田さんはひとまず引き下がった。
「それで、体調はどうなのかしら? 鬼火の様子は?」
「大丈夫。鬼火ちゃんも大人しくしてるよ」
「鬼火……ちゃん?」
実は昨日の夜、夢の中で鬼火ちゃんに会った。
炎の姿をしたそれは、こう言った。
「今はパンダくんの中にある、パンダくんじゃないものに憑依してるから大丈夫なの。それに『わたし』はパンダくん大好きだもん。燃やし尽くしたりしない。これからはずぅっと一緒だよ」
小熊さんの恋心と融合しているせいか、鬼火ちゃんは俺に非常に好意的だった。
そこまで言われてしまうと、俺も無下にはできない。
「鬼火の心を掌握するなんて……非常識ね」
猫田さんは呆れていた。
いや、魔女に常識について語られたくないな。口には出さないでおくけど。
俺が困ったように笑うと、猫田さんは周囲を見渡した。そして誰もいないことを確認すると、俺の耳元でそっと告げた。
「ねぇ、パンダくん。失恋させちゃったお詫びに、私が付き合ってあげましょうか?」
一瞬何を言われているか分からず、俺がきょとんと間抜け面を晒していると、猫田さんは艶やかな唇に指を当て、妖艶な瞳で俺を見上げた。
「パンダくんが望むなら、好きにさせてあげてもいいわよ?」
甘い吐息が首筋にかかり、俺の全身に電撃が走った。
「え? あの、それはその……」
俺が照れて熱くなっているのか、鬼火ちゃんが怒って熱くなっているのか、とにかく全身が沸騰しそうに熱い。
「ふふ、なんてね」
「なんだ、冗談か……」
「そうね。今は自重してあげる。人の恋路を邪魔して奪い取ったみたいで、私のプライドが許さないから」
「へ?」
小悪魔めいた笑みを残し、猫田さんは軽やかに階段を下って行った。
俺は全身の熱が引くまでその場に立ち尽くし、始業式に遅刻した。
式が滞りなく終了し、教室に戻ってきた。
夏休みということもあり、部活の大会や旅行の話で盛り上がっている。中には涙を浮かべて宿題をやっている生徒もいる。響子ちゃんもその一人だった。
一学期も夏休みも濃厚だったな、と俺は思い返す。
アニマルクラス発足、悪魔教師、魔女、夢の世界への侵入、そして泡沫に消えた恋。
楽しいことばかりではなかったけど、嫌なことばかりでもない。
ああ、でも、二学期はもう少し平和だと良いな。
俺はそんな夢を見ていた。
「ホームルームを始めるぞ、飢えた動物ども」
黒一色のよろりの登場に、教室中にため息が満ちる。
久しぶりの登校でみんなの気が緩んでいた。怒ってまた無茶な課題を吹っかけてくるかな、と俺は身構える。
しかし、よろりは面白くなさそうにそっぽを向くだけ。
「ふん。我輩に、ザコどもに構う暇はないのだ。……転校生を紹介する」
その言葉に教室は大きくどよめいた。
俺はもちろん、猫田さんも目を見開いて驚く。どうやら何も聞いていないらしい。
前方の扉ががらりと開く。
一瞬で教室が静まり返った。みんな言葉を失くしてしまった。
異様に長い銀色の髪を耳にかけ、その少女は透き通った水色の目で教室を見渡す。
外国人かと思ったが、顔立ちは東洋風だった。
神秘的、神々しい、神聖……。
そんな言葉がよく似合う美少女だ。
彼女と目が合った瞬間、俺の体は軽くなり、ミントのような爽快さが鼻を突き抜けた。いつも嫌なことが起こりそうになると疼く瞳は沈黙している。
「私はある者の願いを叶え、守るためにやってきた」
荘厳な鐘の音を思わせる明朗な声だった。
何を言っているのか全く意味が分からないが、男子も女子も彼女に見とれ、ため息を吐いた。
祈りたくなるような、すがりたくなるような、カリスマ性を備えている。
しかし。
「彼の者は私に頼り、この国で最も価値のある硬貨を捧げてくれた。その願いを叶えず、八百万に名を連ねるわけにはいかぬ。その上邪悪なる炎のせいで、私と彼の者の絆は途絶えた。神なる私の身も焦がれてしまいそうだ。心配でたまらぬ。だから、来たのだ」
んん?
目の覚めるような強烈なセリフで教室が再びざわめきだす。
「中二病……」「痛い……」「残念な美人……」そんなワードが飛び交っている。
少女は咳払いをした。
「というわけで、私は転校してきた女神だ。どうぞ、よしなに」
水を打ったような静けさの教室。
よろりを含め、全員が遠い目をしていた。
「傷つくだろう! デリケートなんだぞ! ちゃんと動物がつく名前だって考えて――」
少女が叫ぶ。せっかくの美貌が台無しだ。
ついに神様まで現れてしまった。
俺は平和な二学期が来ないことを確信した。
アニマルクラスは今日も通常運転です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




