愛は蜃気楼
屋根の下から出ると、雨粒が俺と小熊さんに降りかかる。
「ひゃうっ」
鬼火が炎だからか、水に濡れると彼女は悲鳴を上げる。それでも俺の手を離さずについてくる。
灰色の世界をひたすら疾走した。
「待ちなさい!」
猫田さんの声に振り返ると、車道の脇にたまった水たまりから、蛇のように蠢く水の縄が飛んできた。
初めて見る魔法らしい魔法に感動する間もない。
俺は小熊さんの体を庇い、その水を空いている手で払う。
俺が水に触れた瞬間、ぴかっと光が生まれ、縄は形を失くしてその場に飛散した。
「パンダくんすごい! 猫ちゃんの魔力を浄化した! 破魔の力!」
全身で喜びを表現する小熊さんに構わず、俺は足を進める。
自分の手の平を信じられない思いで見つめた。やはり何か特別な力があるらしい。
「ちょっとパンダ君!? どうするつもりなの!」
猫田さんの声が耳にこだました。
正直に言おう。
何も考えていない。逃げた先、なんの展望もなかった。
もちろん鬼火をそのままにしていいなんて思っていない。
ただ「恋心の火消しをします」と言われて、すぐに納得できなかっただけだ。
俺はまだ小熊さんと話がしたい。
考えがまとまるまで時間がほしい。
その一心で俺は走っていた。
俺たちの全力疾走に猫田さんはついてこられなかった。
動物園のある高台から町まで坂を下っていく。
坂の途中で灰色の世界の境目を見つけた。この人気のない不思議な空間の終わりだ。
「ここを通りたければ、我輩を倒して行け」
黒い影がゆらりと俺たちの前に現れ、立ち塞がった。慌てて足を止める。
よろりが夜井誠一の顔でにやりと笑った。
「よろり先生、通してください」
「我輩を先生と呼ぶなら、お前は生徒だ。教師に手をあげるのか、凶悪パンダ」
「それはこちらのセリフです。生徒の恋路を邪魔するんですか? 悪魔教師」
「新学期早々、停学になるか?」
「どうせ停学になるなら道連れに入院させてやりますよ」
売り言葉に買い言葉だった。中学時代に封印したはずの血が騒ぎだしている。
いけない。
ふはは、とよろりは豪快に笑う。
俺とよろりは睨みあい、膠着状態に陥った。
とりあえず、いつでも殴りかかれるように俺は拳を握りしめる。小熊さんは俺に背で可哀想なくらい震えていた。
よろりは黒い笑みを浮かべたまま腕を組み、攻撃してこなかった。時間稼ぎを狙っているのかもしれない。
「……通らせてもらいますよ。戦うつもりはありません」
俺は再び小熊さんの手を取って、足を踏み出す。よろりから二メートル以上距離を取り、警戒しながら境界線に向かう。
てっきり通せんぼや不意打ちをされると思ったが、よろりは手を出してこなかった。
それを不思議に思っていると、よろりは鼻を鳴らした。
「我が主からの命令は片方しか達成できぬ。『熊ちゃんの確保』と『パンダを傷つけるな』、どちらを優先するかは我輩の自由だ。我輩としてもお前の保護者を敵に回すのは避けたい。全く、とんだモンペを連れている」
「は?」
俺は両親を思い浮かべる。確かに二人とも怒ると怖いけど、モンスターペアレントと蔑まれるほど過剰ではない。
「あ、もしかしてこの前神社で言ってた、神様のえこひいきがどうのこうの……」
「さっさと行け。鬼火が弱っているぞ。我輩たちが手を下すまでもなく、風前の灯火状態だ」
唇を真っ青にして震える小熊さんをみて、俺は黙る。
よろりの気が変わるうちに逃げた方がいい。
灰色の世界との境界線をまたぐ。
僅かな抵抗を感じたが、気にせず突き進むと「ぱりん」とガラスが割れるような音が響いて世界は正常に戻った。
町の中に入り、雨が避けられる場所を探した。
児童公園の遊具に俺たちはもぐりこむ。動物園に近い公園だからか、何の因果か大きな口を開けたクマの遊具が置かれていた。その口の中に収まる。
「大丈夫? 無理させてごめんね」
小熊さんは正面からぎゅうっと俺に抱き着いてきた。俺は猫田さんにバケツ一杯の水をかけられてびしょ濡れだったのだが、それでも彼女は離れなかった。
「嬉しかったの。助けてくれて。ドッジボールのときもかっこよかったし、勉強教えてくれたときも優しかったし、夏休み中はたくさん一緒にいられてずっと幸せで……大好きだよ、パンダくん!」
夢みたいだった。
小熊さんに抱きつかれて愛を囁かれるなんて、幸せ以外の何物でもない。
「パンダくんの気持ちも教えて?」
無邪気な笑みを浮かべて、期待に満ちた目で俺を見上げる。
俺は弱々しく笑い返す。
「大好きだったよ」
小熊さんは一瞬喜んだ後、過去形の言葉に首を傾げた。
「パンダくん?」
「やっぱり俺は小熊さんが好きなんだ。鬼火が憑依する前の純粋で優しい彼女が。きみがそうじゃないって意味じゃない。ただ、今の状態は受け入れられない。このままにするわけにはいかないから、だから――」
「嫌だ! 消えたくない!」
泣き叫ぶ彼女の頭をそっと撫でた。
「うん。消えなくていい」
「……マスターのところにも戻らない」
「あんな奴のところ、戻らなくていいよ」
小熊さんの恋心を消したくない。よろりにも渡したくない。
なら、選択肢は一つだろう。
俺はそっと告げた。
「俺の中においで」
小熊さんは目を丸くした。
「ほ、本気で言ってる?」
「うん。消しちゃうくらいなら、もったいないから俺がもらうよ。できないかな?」
我ながら貧乏性だな、と思いつつ、彼女の答えを待った。
「パンダ君が受け入れてくれるなら……でもいいの? 熱いよ?」
「望むところだ」
「『わたし』がいなくなったら、『わたし』はパンダくんのこと、好きじゃなくなっちゃうのに」
「また一から頑張るよ。俺は諦めない」
小熊さんはくすりと笑った。
「変なの。でも、やっぱり好きだな……ありがとう」
どうやって移ってくるの、と問う前に柔らかいものが俺の口を塞いだ。
生まれて初めてのキスは、火傷するくらい熱かった。




