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座敷に落ちた噂

 島原に灯がともるころ。


 乙葉が上がる座敷が開かれた。


 理瀬は膳を運びながら、芸妓姿の乙葉へ視線を滑らせる。


 乙葉は笑顔を張り付け、酌をしていた。


(……問題は、なさそう)


 理瀬はわずかに息を吐いた。



 その視線の先で、乙葉は笑みを浮かべたまま徳利を傾けた。


「どうぞ」


「おお、すまんな」


 透明な酒が盃を満たす。

 客は機嫌よく酒をあおり、隣の男へ話を続けた。


「そういや聞いたか」


「なんだ」


「また娘が一人、姿を消したそうだ」


 乙葉は何事もない顔で徳利を戻す。

 笑みは崩さない。

 耳だけが、その続きを待つ。


「最近、多いな」


「身寄りのない娘ばかりらしい」


「町奉行も探してるって話だが……」


「見つからねえそうだ」


(……失踪)


 乙葉は客へ盃を差し出す。


「もう一献、いかがですか」


「おう」


 話は別の話題へ流れていく。


 それでも乙葉は頭の中で言葉を整理していた。


 また。

 最近。

 身寄りのない娘。


 どれも酒席の噂話だけでは済ませられない響きだった。


 


 理瀬は酒や料理を運びながら、乙葉を見る。


 乙葉は客へ笑いかけている。

 けれど客が何気なくこぼした一言に、視線だけが静かに動く。


 誰が話しているのか。

 誰が聞いているのか。

 

 まるで客ではなく、座敷全体を見渡しているようだった。


 客の話に耳を傾けている乙葉。

 

 ――娘が消える。


 その言葉が聞こえたとき、乙葉の視線がわずかに止まったのを見逃さなかった。


 

 その噂は、今日初めて耳にしたものではない。


(……)


 一瞬だけ、理瀬は目を伏せた。

 盆を抱え直し、何事もなかったように座敷を後にした。




 宴が終わる。


 廊下へ遠ざかる足音と笑い声もやがて途切れ、座敷には静けさだけが残った。


 倒れた徳利、飲み干された盃、崩れた座布団。

 理瀬は一つひとつ元の場所へ戻していく。


 ふと気配を感じ、入り口を見た。


 芸妓姿からいつもの姿に戻った乙葉が立っていた。


「おつかれさま」


「ありがとう。結構、楽しかったわ」


「そう」


 乙葉は部屋へ入り、静かになった座敷をひと目見回す。


 床に転がった徳利を拾い、理瀬の傍らに置かれた盆へ乗せる。

 ついでとばかりに散らばった盃も重ねた。


「乙葉」


「なに」


「……聞きに来たのね」


「そうよ」


 あっさりと乙葉は返す。

 

 理瀬は小さく息を吐く。


「ただ体を動かしたいだけじゃないとは、思ってた」


「やっぱり気づいてたのね」


「座敷にいる間、視線がずっと動いてた」


「……よく見てるわね」


「家出してまで、よく働くなと思って見てた」


 理瀬は乙葉を見つめながら、静かに続ける。


「どこにいても、乙葉は変わらないのね」


 乙葉は肩を竦め、苦笑する。


「仕事を忘れたら、それこそただの家出娘じゃない」


「……家出娘でしょ」


 乙葉は一瞬だけ考える素振りを見せる。


「そうね」


 くすりと笑った。


「でも……」


 理瀬は少しだけ黙る。


「そういうところ、嫌いじゃない」


 乙葉は理瀬を見つめた。


「私もあんたのこと、嫌いじゃないわ」


「……そう」


 それきり、理瀬は何も言わなかった。

 しばらく二人は黙って片付けを続ける。

 

 座敷には、器を重ねる小さな音だけが響く。


 廊下の向こうから、三味線の音と杯の触れ合う音がかすかに聞こえてきた。


 普段通りの音なのに、ふっと片付ける乙葉の手が止まった。


 ――なにか、探っているような気配を感じる


 言葉にならない違和感が、胸の奥に引っかかっていた。



 翌日。

 新選組と長州藩が、同じ刻限に座敷を予約したと知らされた。


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