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花街に重なる影

 その日。

 島原の揚げ屋——「葵屋」は、朝から忙しかった。

 大きな宴席を控えた日は、いつもこうだ。

 料理場では仕込みが進み、廊下では仲居たちが行き交い、座敷の設えも念入りに整えられていく。

 それ自体は、決して珍しいことではない。

 

 だが、この日は違った。

 

 誰もが普段どおりに振る舞いながら、その胸の内では、いつもより幾分か強く気を張っていた。



 女将・椿から「今夜は大きな予約が重なっている」と告げられた理瀬は、思わず頭を押さえた。


 葵屋は、もともと長州藩の出入りが多い揚屋である。

 そこへ今夜は、新選組の座敷も入っていた。


 ——しかも、ほぼ同じ刻限。


 それはいい。

 今までも、何度かこういうことはあった。

 葵屋では客同士が鉢合わせぬよう、通す廊下も座敷も細かく振り分ける。 

 長州藩と新選組の席も、互いの姿が見えぬよう離してある。


 

 それよりも心配なのは、乙葉のことだった。


 朝から葵屋は目が回るような忙しさだ。


 仲居たちへ次々と指示を飛ばし、廊下を行き来する椿を見つけ、理瀬は声をかけた。


「椿さん」


「なんや、理瀬」


「今夜のことです」


 椿は仲居へ手短に指示を出してから、理瀬へ向き直った。


「……乙葉のことかいな」


「分かっていたんですか」


「あの子が気になる顔してるさかい」


「乙葉を座敷につけるのは、やめてください」


「心配なのは分かるけどなぁ」


 椿は小さく息をついた。


「あの子はよう気がつく。客の様子もよう見とる。芸妓としても悪うない」


「ですが……」


 言いかけた言葉を理瀬は飲み込む。

 乙葉が新選組の隊士であることを、椿は知らない。


「それでも、あんたが気になるなら理由があるんやろ」


 理瀬は答えなかった。


「……大事なんやな」


 椿の静かな声に、理瀬は顔を上げた。


「……私の担当は長州藩ですよね」


「せや」


「……」


 理瀬は内心で舌打ちする。


 そう。

 いつもなら、問題ない。

 だが、今夜は乙葉がいる。


「せやけどな」

 

 椿は少しだけ声を落とした。


「あんたがおるなら、うちは安心して任せられる」


 ぽん、と椿は肩を叩く。


「乙葉のこと、よう見てやって」


 そのまま理瀬の横を通り過ぎる。

 すぐに仲居へ指示を飛ばしながら、足早に座敷の支度へ戻っていった。


 その背を見送り、理瀬は静かに息を吐く。


 椿は、何も聞かなかった。

 ただ、理瀬が何を気にしているのかだけは分かっていた。


 理瀬は踵を返す。


 足を向けたのは、芸妓たちの支度部屋だった。




 支度部屋では、着付けを終えた乙葉が鏡の前で最後の身支度を整えていた。


「あ、理瀬」


 理瀬に気づき、乙葉は気軽に声をかけてくる。

 

 支度部屋に足を踏み入れ、理瀬は乙葉のそばに寄る。


「乙葉」


「なによ」


「今日座敷に上がるのはやめて」


「どうして」


「あなたが着くのは、長州藩。出ない方がいい」


 乙葉はしばらく理瀬を見つめる。


「芸妓姿だから大丈夫よ」


 あっけらかんと乙葉は言う。

 その軽さに、わずかに理瀬の眉が寄る。


「平気よ。どうせ、あんたの恋人にはもう顔知られてるし」


 脳裏に、柔らかな笑みが浮かぶ。

 ——理瀬には、あれがどうにも胡散臭く見えて仕方がない。


(……だから余計に心配なんだけど……)


「どうしても、上がるの」


「ええ。こんなことなかなかないでしょ? 面白そうじゃない」


 乙葉はどこまでも気楽そうだった。


 理瀬は小さくため息をつく。


(……言っても無駄か)


「……わかった」


 理瀬はそれだけ言うと、踵を返した。


「あんたも一緒に入るんでしょ?」


 理瀬は歩みを止めず、視線だけを向ける。


「……私は長州藩の座敷には行きません」


「えっ? ちょっと理瀬?」


 乙葉の呼び声に答えず、理瀬はその場を後にした。



 廊下の向こうでは、仲居たちが盆を抱えて行き交い、料理場からは忙しない声が飛んでくる。


 その喧騒を横目に、理瀬だけは静かな足取りで廊下を進んだ。


 向かう先は、離れにある自分の部屋だ。


 長州藩の予約は、もともと入っていた。

 だが、新選組の座敷は急にねじ込まれたものだ。


(……目的は、乙葉)


 理瀬は唇を引き結ぶ。


 長州藩の座敷には、“彼”がいる。


 乙葉が姿を見せても、あの男なら騒ぎ立てはしないだろう。


 ……たぶん。


(……なら、私が見張る)


 

 

 離れの部屋へ戻った理瀬は、艶やかな着物に袖を通す。

 手慣れた仕草で髪を結い上げると、紅い一重梅を象った簪をそっと差した。


 揺れ飾りが、ちり、と耳元で小さく音を立てる。


 白粉をのせ、最後に紅を引く。


 鏡に映るのは、もう住み込み仲居の理瀬ではなかった。



 やがて陽が落ちる。


 島原の町に灯がともり、白粉の香りをまとった芸妓たちが揚屋へと集う。

 格子の向こうには笑い声が漏れ、どこからともなく三味線の音が流れてきた。


 葵屋もまた、座敷の刻を迎える。



 長州藩の座敷の前に、芸妓たちと並んで乙葉は立つ。


 仲居が静かに襖へ手を掛けた。

 するり、と襖が開く。


 酒の香りと賑わいが廊下へ流れ出す。

 

 座敷中の視線が、一斉に乙葉たちへ向けられた。


 乙葉は口元に笑みを浮かべた。




 新選組の座敷の前で、理瀬は目を閉じる。


 廊下を行き交う足音も。

 座敷から漏れる笑い声も。

 すべてが静かに遠のいていく。



 乙葉のいる座敷は遠い。

 直接様子を見ることはできない。


 けれど、放っておくこともできない。


 小さく息を整え、ゆっくりと目を開く。


 瞬きをひとつ。


 その瞬間、もう理瀬の姿はない。


 艶やかな笑みをたたえた芸妓――霧乃がそこにいた。





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