二つの座敷、二つの思惑
二階最奥、葵屋でも一際格の高い「椿の間」。
長州藩の座敷は、すでに賑わっていた。
座敷では、三味線の軽やかな調べが絶え間なく流れ、その音に重なるように男たちの笑い声が弾けた。
盃が触れ合う澄んだ音が鳴り、酒の香りと出来立ての料理の湯気が室内を満たしている。
芸妓たちは鮮やかな着物の裾を揺らしながら座敷を巡り、客の盃へ酒を注ぎ、ときに笑みを交わし、ときに酌を受けて場をさらに華やかせている。
乙葉も、その一人として座敷についていた。
まだ座敷勤めの日は浅い。
上座には経験を積んだ芸妓たちが座り、乙葉は下座で客の酌をして回る。
客へ笑みを向けながら、意識だけが部屋を一巡する。
座敷の奥に、知った顔を見つけた。
賑わいの輪の中にいながら、静かに座っている男——吉田稔麿。
視線が合い、稔麿の口元がわずかに緩む。
(その顔やめて)
乙葉はすぐに視線を逸らし、隣の客の盃へ酒を注ぐ。
愛想よく笑みを浮かべながらも、視界の端では座敷の動きを絶えず追っていた。
不意に肩を叩かれ、乙葉の肩がわずかに跳ねる。
振り向いた先には、いつの間にか、薄く笑みを浮かべた稔麿が立っていた。
「君、ちょっとどいて」
乙葉の隣にいた男へ声を掛け、空いた場所へ当然のように腰を下ろす。
「ついで」
すっと空の盃が差し出される。
「……どうぞ」
乙葉は徳利を傾ける。
「ん。ありがと」
爽やかな笑みを浮かべた稔麿は、注がれた酒を一口含み、ことりと盃を畳へ置く。
乙葉は何気ない顔で、その一つ一つの仕草を目で追った。
目を離したつもりもないのに、気づけば耳元まで距離を詰められていた。
「……何してるの? 乙葉」
囁く声が耳をくすぐる。
くすり、と喉の奥で笑う気配。
乙葉はそっと肩を引き、息の届く距離から離れた。
「気づいてたの」
稔麿は何事もなかったように体を戻す。
「うん。入ってきてすぐ」
「結構違うと思うんだけど」
「そう? どうみても乙葉だよ」
稔麿は面白そうに口元を緩めた。
「それで? 偵察にでもきたの?」
稔麿は笑みを浮かべたまま乙葉を見る。
けれど、その目は乙葉の返事より先に、何かを見ているようだった。
「まさか」
乙葉は少しだけ肩をすくめる。
「あんたに顔見られてるのに、偵察も何もないでしょうが。興味ないわ」
「でもそれ変装なんでしょ? 一応」
「一応は余計よ」
乙葉は稔麿を肘で小突く。
「痛いよ」
「痛いわけないでしょ」
「ふふ。……あ、そうだ」
「なによ」
ふと、稔麿の目が座敷の奥へ向いた。
人好きのする笑みが、その口元に浮かぶ。
その奥の感情は、まるで読めない。
理瀬がよく言う、"胡散臭い笑み"だった。
「手伝ってあげよっか? 偵察」
「は? だから興味ないってば」
乙葉が何か言うより先に、稔麿の手が伸びる。
「ちょっと、何――」
腕を掴まれ、そのまま立ち上がらせられた。
「どこ行くのよ」
稔麿は答えない。
振り返りもしないまま、口元に笑みを残して歩いていく。
(ほんと、理瀬ってこの男のどこがいいのかしら)
連れて行かれた先は、座敷の上座だった。
客の中でも特に重きを置かれる者が座る場所。
まだ座敷に出て日も浅い乙葉が、自ら近づくような場所ではない。
抗う間もなく、乙葉はそこへ座らされる。
「桂さんに酌を」
肩越しに身を寄せ、稔麿が耳元でそっと囁いた。
「おや、稔麿。君が芸妓を連れてくるなんて、珍しいね」
「桂さんなら気に入ると思って」
それだけ言って、稔麿は乙葉の隣に腰を下ろす。
乙葉は向かいの桂に目を向けた。
「綺麗なお嬢さんですね」
桂は穏やかに微笑み、静かな仕草で盃を差し出した。
「お願いしてもよろしいですか」
ただの客の頼み事なのに、不思議と押しつけられている感じがしなかった。
乙葉は一瞬、戸惑う。
いつもなら。
「危ないことをするな」
「勝手な真似をするな」
そう言われることの方が多い。
けれど、この人は違った。
疑うでもなく、止めるでもなく。
ただ、任せるように盃を差し出している。
乙葉は徳利を持ち上げ、差し出された盃へ静かに酒を注ぐ。
桂は盃を受け取りながら、ふと乙葉へ目を向けた。
その視線は、乙葉の表情だけではなく、周囲へ向けられるわずかな目配りまで静かに映しているようだった。
「あなたは、ずいぶん周りをよく見ていらっしゃるんですね」
穏やかな声だった。
乙葉は徳利を持つ手を止めず、小さく笑う。
「芸妓なら普通でしょう?」
「そうでしょうか」
桂も微笑む。
まるで答えを急かす気などないように、ゆっくりと盃を口元へ運んだ。
その所作まで静かだった。
盃を受け取る指先。
言葉を選ぶ間。
人との距離を測る仕草。
どれもが自然で、無駄がない。
気づけば、乙葉はその姿を目で追っていた。
——綺麗な人。
そう思わせたのは、顔立ちではなく、その静かな所作だった。
乙葉はそんなことを思いながら、桂を見ていた。
桂は微笑んだまま、盃を口元へ運ぶ。
その手元も、表情も、先ほどと何ひとつ変わらない。
ただ、その目だけが、わずかに違っていた。
「ところで」
桂は乙葉から視線を外し、稔麿を見る。
「理瀬さんがいないね。稔麿がいると、だいたい彼女が座敷についてくれるんだが」
「そうだね」
稔麿はひとつ頷く。
「急に入った座敷でもあるのかもね」
稔麿はそう言って、わずかに目を細める。
その視線は一瞬だけ乙葉へ向いた。
(……この人。本当に、どこまで見てるんだか)
「まぁ、理瀬にはあとで会いにいくし」
「あまり彼女の仕事を邪魔するんじゃないよ」
「桂さんには関係ないよ。……それより、目の前に綺麗な芸妓さんがいるんだから、俺じゃなくて彼女と話しなよ」
立ち上がりざま、稔麿は乙葉の耳元へ顔を寄せる。
「頑張ってね」
囁く声は穏やかだった。
ただ、その口元には、いつもの笑みが残っていた。
「どこ行くんだい」
「ちょっとね」
稔麿は一瞬だけ振り返った。
口元には笑みが浮かんでいる。
それ以上は何も言わず、今度こそ、その場を後にした。
◇
一方その頃。
離れた座敷では、理瀬が『霧乃』として新選組の座敷についていた。
艶やかな笑みを浮かべ、隊士たちへ酒を注いで回る。
その笑みの奥で、理瀬の視線だけが静かに座敷を巡っていた。
笑い声。
盃の重なる音。
衣擦れの音。
誰がよく喋り、誰の盃が進み、誰の表情がわずかに揺れたのか。
華やかな座敷の中で、理瀬は淡々と拾い上げていた。
理瀬は、自分へ向けられる視線を拾った。
酌を終え、次の隊士へ向き直る。
その一瞬の間に、何気なく座敷へ目を巡らせる。
視線の先にいたのは、男装した葵だった。
理瀬の顔が向いた途端、葵はぱっと表情を明るくし、小さく手を振った。
瞬きひとつ分だけ、理瀬の視線が止まる。
そのまま自然に視線を流す。
その先には、葵の隣に座る沖田総司。
沖田は穏やかな笑みを浮かべたまま、葵の視線を追うように、ほんの一瞬だけ理瀬へ目を向けた。
その小さな変化を、理瀬は見逃さなかった。
(……よく見てる人)
座敷の中心には、近藤や土方をはじめとした新選組の幹部たちが並んでいた。
その隣には、葵と沖田の姿もある。
廊下から誰かの足音が聞こえる。
理瀬は反射的に、反対側にある長州藩の座敷へ意識を向けた。
ここから先は別の通路だ。
客同士が顔を合わせぬよう、葵屋は最初から動線を分けている。
長州側へ向かうには、一度階を降りる必要がある。
意図して向かわない限り、こちら側へ来ることはない。
何か起きることはない。
——そう、分かっている。
けれど。
視線だけを長州藩の座敷がある方へと向ける。
客の相手をしながらも、理瀬の意識は何度も廊下へ流れた。
(いけない)
廊下を仲居が横切る。
理瀬の視線が、ごく短くそこへ向く。
わずかに目を伏せ、息を吐く。
理瀬はさりげなく土方へ視線を向ける。
膝に置かれた手が、時折わずかに動く。
酒を口に運びながらも、その視線は芸妓ではなく廊下へ向いていた。
仲居が通れば、ほんの一瞬だけ目を向ける。
(……集中してない)
ただ酒を飲んでいるように見せながら、意識は別の場所へ向いている。
理瀬は一度息を吐き、幹部の集まる席へと移動する。
葵の傍に寄り、手付かずの盃を自然な手つきで下げる。
代わりに差し出したのは、水を入れた盃だった。
「お客はん、こちらの方が飲みやすいかと」
ぱちりと葵が瞬きをする。
そして、すぐにその意味に気づいたように目を丸くした。
「……理瀬さん」
思わず零れそうになった名前を、葵は慌てて飲み込む。
葵は少しだけしまった、という顔を浮かべたあと、「ありがとうございます」と顔を綻ばせた。
そのまま理瀬は隣の沖田を見る。
沖田は理瀬と盃を見比べたあと、ふっと笑って、葵の耳に顔を寄せる。
「よかったね」
そう囁かれて、葵は一瞬目を瞬かせる。
けれど、その声に含まれた気遣いに気づくと、ふっと表情を和らげた。
「……はい」
小さな声で答える。
それを見て、理瀬の胸の奥がわずかに綻ぶ。
立ち上がる際、誰にも気づかれないほど短く、指先で肩に触れた。
理瀬を見上げた葵へ、芸妓らしい穏やかな笑みを向ける。
その視線だけが、ほんの少し優しかった。
その笑みを見た途端、葵は安心したように息をついた。
「お酒、お注ぎいたしましょか」
土方の隣へ膝をつき、徳利を掲げる。
差し出された盃はまだ酒が残っていた。
揺れた拍子に酒が縁へ当たり、小さく畳へこぼれる。
「悪い。頼む」
「ふふ。お召し物、濡れてしまわれませんでしたか」
「ああ」
理瀬は笑みを崩さぬまま、徳利を傾けた。
静かな音を立てて酒が満ちていく。
ふと視線が合う。
艶やかな笑みを返す。
その一瞬で、土方の目の奥に落ちた影を捉えた。
芸妓が通るたび、料理を運ぶ仲居が横切るたび、ほんのわずかに視線が動く。
誰かを探すように。
土方だけではない。
幹部たちもまた、表向きは酒席を囲みながら、どこか気を張っていた。
その空気だけで十分だった。
(……やっぱり、乙葉か)
◇
長州藩の座敷は変わらず賑やかだった。
けれど、稔麿の姿だけがない。
乙葉は小さく息をつく。
(……ほんとにいなくなったのね)
どこへ行ったのかは、考えるだけ無駄だろう。
徳利を持ち直し、桂の盃へ酒を注ぐ。
とくとく、と静かな音が流れた。
桂は誰かに囲まれていても、決して声を荒げない。
誰かが話せば耳を傾け、必要な時だけ言葉を返す。
その場にいる誰もが、自然と桂の空気に馴染んでいるようだった。
「ありがとうございます」
桂は穏やかに受け取った。
それだけだった。
けれど、不思議と居心地の悪さはない。
無理に言葉を重ねることもない。
相手が話すまで、静かに待つ。
ただ、相手が自然にいられるような間を作る。
「座敷には慣れましたか?」
不意に声をかけられ、乙葉は少しだけ首を傾げた。
「……まあ、それなりに」
「そうですか」
桂はそれ以上、深く聞かなかった。
盃を口元へ運び、静かに酒を含む。
その所作を、乙葉はまた目で追ってしまう。
(……やっぱり、綺麗な人)
動きも、言葉も。
相手との距離の取り方さえ、乱れがない。
土方とは違う。
稔麿とも違う。
桂の纏う空気はどこまでも静かだった。
その時。
「乙葉さん」
廊下から仲居が顔を覗かせる。
「少しお願いできます?」
「はい」
乙葉は一礼し、座敷を後にした。
背を向ける間際、桂は静かにこちらを見ていた。
その穏やかな視線が、背中に残っている気がした。




