静まり返った座敷
乙葉は言いつけられた用事を終え、一人廊下を歩いていた。
「あれ? ここさっきも通った?」
葵屋は志士たちが集う場所。
その特殊性ゆえに、目的の場所に行くのに、階段を上がったり下がったり、細い廊下をいくつも通らねばならない。
乙葉は、どこを歩いているか分からなくなっていた。
「……疲れた」
酒の匂いはともかく、煙草の香りが、衣だけでなく髪にまで絡みついている。
芸妓が楽な仕事と考えていたわけではないが、想像以上だ。
「煙草の香り……嫌いじゃないと思ってたんだけどな」
匂いとともに浮かびかける顔。これ以上思い出したら足が止まってしまう。
頭から打ち消そうとするのに、上手くいかない。
むしゃくしゃして歩幅を大きくした。
そのとき、一つの座敷から嫌な気配がした。
――静かすぎる
騒ぎでないなら何を気にすることがあるのか。
なのに、はっきり説明はできないが胸が騒ぐ。
刑事の勘というやつか。
乙葉はこれで、何度も星を挙げてきた。もちろん、同じくらい痛い目も見てきたわけだが、気づいてしまった以上無視することは出来ない。
乙葉は、襟を少々左右へ引いてから、襖へ身を寄せた。
襟を開いたのは、店の者に立ち聞きを咎められたとき、「酔って足が立たなくなった」と言い訳するつもりだった。
襖の細い隙間から覗き見る。
中には若い男と、芸妓が一人。
「その娘は、人気がある?」
「まぁ、お客はん……今はうちがいますのに他の芸妓の話なんて……」
芸妓は営業用の笑みを張り付け、男の肩に触れる。
普通の男なら「いやぁ、無粋だったな」と鼻の下を伸ばし、芸妓の肩を抱き寄せるところだ。
しかし、男は目の前の芸妓が見えていないかのように質問を続ける。
「その娘はいくつ? 一番若い子は?」
自尊心を傷つけられたのか、熟練の芸妓はひくっと顔を引きつらせる。
「ええ?……いくつやったかなぁ……」
「その娘は、身寄りがないの?」
(年はともかく、なんで身寄りを気にするの?)
男の声は柔らかい。それが逆に、質問の異質さを浮き彫りにしている。
乙葉の額にはじっとり汗が滲んでいた。
遊女や芸妓の話題など、この島原では珍しくないが、男の問い方は遊客のそれではない。
女を値踏みし、蜘蛛の巣に絡め取るような粘つく悪意が、島原に巣食い始めている。
そのことを、乙葉ははっきり認識した。
――その頃
離れた座敷で、理瀬は静かに盃へ酒を注いでいた。
「どうぞ」
柔らかな笑みを浮かべながら、客へ酌をする。
ほっと息を吐こうとした。
その時。
理瀬の指先が強張った。
客の誰にも気づかれないように、障子を見澄ます。
何もない。
なのに、強張りが解けなかった。
廊下の冷えた空気の中で、乙葉はようやく襖から身を離した。
聞こえたのは会話の切れ端だけ。
男の目的も何もわからない。
けれど、胸の奥に残る嫌悪感が消えない。
(どうする? 座敷に上がって……近づいてみる?)
芸妓用の高い声を作るため、浅く息を吸う。
その時だった。
「乙葉さんっ?!」
突然、背後からの声が廊下に響いた。




