乙葉さんっ?!
「乙葉さんっ!?」
突然背後から声を掛けられ、乙葉は振り向くより先に床に手をついた。
しながかかった声で、少し酔ってしまいましたの……と言おうとして、ん? と眉をひそめる。
聞き覚えのある声だ。
そっと後ろを振り向く。
「葵……」
「やっぱりそうだ! 乙葉さん!」
(不味い――!)
自分は良い。だけど、ここで騒ぎを起こして、葵を危険に巻き込むわけにはいかない。
乙葉は、芸妓衣装の分厚い袖で葵の口をがばっと塞ぎ、そのまま少し離れた、空いている座敷に引きずり込んだ。
襖を脚で閉め、んーっ! と空気を求める葵を解放した。
さっきの不審な男に気づかれなかっただろうか。
襖の外の気配を追うが、特に音沙汰はない。
一息吐き出した。
「葵、こんなところで何してんのよ」
「それはこっちの台詞ですっ」
「声が大きいのよバカっ!」
葵はびくっと肩を揺らし、
「乙葉さんの声のほうが大きいですよ……」
と小声で言った。
乙葉はぐっ、と喉を詰まらせる。こうやって悲しそうな顔をされると、本当の姉妹でもないのに庇護欲を刺激される。
「ごめん、強く言い過ぎたわ」
葵はじぃっと乙葉を見た。
「乙葉さん……綺麗」
「知ってる」
即答した。こういうのは「そんなことないわよぉ」と無駄なやりとりをする意味を感じない。
だが、葵はさらに視線を往復させる。
「着物素敵……! これ、帯どうなってるんですか?」
「さぁ」
「髪も結ってるんですね」
「え、そりゃまぁ……」
「お化粧も。わぁ、白粉だ」
「ちょっと、なんなのよ!」
座敷に上がったときより熱心な視線を向けられ、声を張った。
葵は、しーっと口の前に人差し指を立てた。
乙葉は照れ隠しにふん、と鼻を鳴らす。
「で、あんた何してんのよ?」
「私は、新選組の宴会です」
言われてみれば、今日の葵は袴を履き、眉を太めに描いた男装だった。
「抜けてていいの?」
「酔っちゃって……」
「水しか飲んでないでしょ?」
「はい、お酒の匂いと煙草で、酔ったみたいに気持ち悪くなっちゃって」
はっ、と葵は目を開く。
「もしかして、飲んだら捕まります?」
「幕末じゃ誰も咎めないわよ」
「よかった。理瀬さんがお水に変えてくれたんですよ」
理瀬らしいな、と乙葉は口端を緩めた。
「ところで、どうして私がお酒飲んでないってわかったんですか?」
「顔は白いままだし、口調もはっきりしてるから」
だいたい、男だらけの宴会で葵が飲酒することを、過保護な沖田総司が許可するはずがない。
葵は感心したように「さすが刑事さん」とつぶやく。
「未成年の補導もするからね……って何の話よ。具合悪いんでしょ? ほら」
ぽんぽんと自分の腿を叩き、葵に促す。葵はなんのためらいもなく、乙葉の膝に頭を乗せた。
自分にだけ素直に甘えてくる葵がくすぐったくもあり、不憫でもある。
突然幕末に落とされ、男だらけの中で、男のふりをして生きる。肩肘張らずにいるほうが難しい。それは、乙葉もよく分かっていた。
「甘え上手ねえ」
今だけの優しさしかあげられなくても、少しは葵が楽になればいい。
頭を撫でてやると、葵は気持ちよさそうに目を閉じた。
「乙葉さんが甘え下手すぎるのでは」
「っ、あんたねぇ……」
「ふふ、本当は、乙葉さんが誰より可愛いの知ってます」
「……年下に言われたくないわね」
「そういうところです」
幼さゆえの率直さを"子どもだ"と笑っていると、突然こうやって大人びるから困る。
「……ねえ、まさか寝ようとしてない?」
「んー……乙葉さんの太もも、気持ちいい……」
うつらうつらし始める葵の頬の方が柔らかい、と思う。
(なんなのよ、もう……)
この柔らかさに色々絆されそうになり、かぶりを振る。
脳をすっきりさせると、さっき座敷にいた、娘の身寄りや年齢を探っていた男の、異様さが蘇る。
「あの男、ただの遊び人じゃない……」
小さく漏らすと、葵が目を開けた。
「乙葉さん、狙われてるんですか?」
「は?」
「今遊び人って……」
「違うわよ」
それ以上話すのは止めた。
葵に不用意に話すべきじゃない。
葵は起き上がり、腕につかまるように袖を引く。
「芸妓として働くの、危なくないんですか? 誰かに何かされてませんか?」
「私、刑事よ?」
「そういうことじゃ……」
「そんな不埒な男がいれば、返り討ちにしてやるわよ」
袖をまくって腕っぷしを叩いてみせた。
「だから、そういうことじゃないですっ!」
珍しく、葵は怒っているようだ。
「乙葉さんは、女の人なんですよ!?」
「……当たり前でしょ」
「じゃあ、なんで危険なことばっかりするんですか!?」
「葵がそれ言うの?」
葵はむうっと、口をとがらせる。
「私は、男にガラス瓶で殴られた後も『まだ行けるわ』なんて言いません。ちゃんと逃げます」
旗色が悪くなり、乙葉は明後日の方を向く。
「いつの話よ」
「忘れたふりしないでください、割と最近です」
と、葵は勢いよく顔を上げる。
「とにかく今は、乙葉さんが危険だって話をしてるんですっっ!!」
「ちょっ……静かにっ」
どうどう、と暴れ馬をなだめるように葵に手をかざした。
とはいえ、こうやって心配されるのは悪くない。と思う自分もいる。
そこへ、音もなく襖が開いた。




