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静かな部屋の逃げ場所

 島原。

 夜になれば提灯の灯りが並び、華やかな笑い声が響く場所。


 だが乙葉には、その賑わいの奥にあるものまで見えてしまう。

 人が集まる場所には、必ず思惑が集まる。


 幕府の要人や長州藩士たちも利用する高級揚屋――葵屋。

 その名を知らない者は、この京には少ない。


 白粉や酒の香り。

 客を迎える仲居たちの足音。

 笑い声。


 その音が遠のく。

 葵屋の離れの一室。


 そこに住む少女、霧谷理瀬(きりがやりせ)は、静かにこめかみを押さえていた。


 夜風が障子を撫でる。

 小さな物音さえ、この部屋では妙にはっきりと耳についた。


「……それで」


 理瀬は乙葉へ視線を向け、ようやく口を開いた。


「どうして、貴方がここにいるの」


「家出してきた」


 乙葉はそれだけを言う。

 理瀬はこめかみを押さえたまま、乙葉を見つめる。


「……どうして、と聞いているの」


「しばらく匿って」


「理由は」


「色々あったのよ」


 理瀬は小さく息を吐く。


「ここがどこだかわかっているの?」


「もちろん。島原でしょ」


「そう。島原。芸を売る場所」


「でも、理瀬は違うじゃない」


「そうね。でも、ここはそういう場所。それに……」


 ちらりと理瀬は乙葉の傍らに置かれた荷物を見る。

 結び目からわずかに見える浅葱色。


ここ(葵屋)は長州藩がよく使う店だと、分かってる?」


「分かってるわよ」


「なら……」


「嫌」


 理瀬の言葉を乙葉は食い気味に遮る。

 わずかに理瀬の眉が寄る。


「乙葉」


「帰らない」


 はあ、と理瀬は長く息を吐いた。

  

「……なにがあったの」


 わずかに沈黙が落ちる。


 理瀬は促さない。

 ただ、じっと乙葉を見ている。

 その目が心の奥底まで見透かすようで、乙葉はそっと視線を逸らした。


 理瀬は何も急かさない。

 それがありがたくて、少しだけ苦しかった。

  

 沈黙を破ろうとして、乙葉は口を開きかけて閉じた。

 少しだけ迷ってから、小さく肩をすくめた。


「ちょっと喧嘩したのよ」


「……そんなことで来られても、迷惑」


 それでも、「帰って」とは言わなかった。

 理瀬はただ、乙葉を見つめていた。


「そんなこと言って、理瀬は追い出さないじゃない」


 くっと理瀬の眉が寄る。


「追い出したら帰るの?」


「帰らない」


 理瀬は答えず、じっと乙葉を見る。

 その無表情が、ほんの少しだけ崩れた。


 ――なんだ。ちゃんと困るんじゃない。


 そんなことを乙葉はのんきに思った。


 理瀬は乙葉を見つめる。

 表情も。

 声も。

 悪びれなく居座ろうとする態度も。

 どれも普段と変わらない。


 それでも、帰ることだけは頑なに拒んでいる。


 そこだけが、不自然だった。


(……ただの喧嘩じゃない、ってことか)


「……ひとつだけ聞かせて」


「なによ」


 理瀬はすぐには言葉を続けなかった。

 ただ、乙葉を見ている。


「どうして私のところに来たの」


 ただ確かめるような静かな声だった。


「あんたなら、何だかんだで見捨てないと思って」


 なんでもないことのように乙葉は返した。

 即答だった。


 理瀬は数度目を瞬かせた。


 そんなふうに言われるとは、思っていなかった。


「……そう」


 その一言だけ。 

 それが乙葉に対する答えだった。


 その言葉を合図に、乙葉は正座を崩した。


「はーー足が痺れるかと思ったわ」


「くつろぎすぎ」


「いいじゃない」


 乙葉の気持ちはまだ燻っている。

 土方の冷たい声は耳から離れない。


 けれど、それを口にする気にはなれなかった。

 今はただ、何も聞かずにいてくれる場所が欲しかった。


「ここ、静かで、あんたみたいで落ち着く」


 この一室は余計なものもない。

 あるのは、箪笥と壁に掛けられた石榴のような二振りの刀だけ。


 理瀬のまとう静かな空気。

 何も聞かれないこと。


 それが今の乙葉にはありがたかった。


 理瀬が音もなく立ち上がる。

 乙葉はその動きを目で追った。


「乙葉はここにいて。私は仕事があるから」


 そう言って、理瀬は腰まである髪を結い上げる。

 

 乙葉は一瞬考えた。


 理瀬が仕事に戻るなら、自分だけここで待っていることになる。

 それはどうにも性に合わなかった。


「ちょっと待ちなさいよ」


「なに」

 

「ただここに居るのも落ち着かないわ。私も手伝う」


「……」


 ぴたりと理瀬の動きが止まった。


 理瀬はしばらく乙葉を見つめる。



「……は?」


 理瀬の呆れた声が落ちた。



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