茶柱の揺れる夜
土方歳三が一つ、息を吐いた。
それだけで、部屋にいた者が息を止める。
「土方さん、その"溜め"、やめてもらえません?」
沖田総司だけはいつも通りだ。
ここは屯所の奥座敷。限られた者だけが中にいる。
夕刻に突然、
「お話したいことがございます」
と、志保里が訪ねてきたのであった。
その志保里はさっきから、黙りこくっている。
「こちらは志保里さんに」
女姿の葵が、茶を志保里の前に置く。
「まぁ、茶柱が」
志保里はふと顔を和ませた。が、ぴんと立っているのにゆらゆら揺れる不安定な茶柱を見つめ、重く口を開いた。
「今日参ったのはその……乙葉さんが、家出されたのです」
「はぁ?」「え!?」
土方と葵が同時に声を上げた。
葵は「あ」と口を押さえ、続きを促した。
「止める暇もなかったのです。どこに行くかもお聞きできないまま……わたくし、乙葉さんをお預かりしている立場ですのに」
申し訳ございません、と志保里は深く頭を下げた。
「志保里さんのせいじゃないでしょう」
沖田の言葉を受けて、土方はじろりと睨みつける。沖田は涼しい顔で茶をすすった。
「別に、土方さんのせいとも言ってませんよ」
「……事実、俺は関係ねぇだろう」
縮こまっていた葵が、背を伸ばした。
「関係なくは」
ないんじゃないですか……と控えめに抗議し、葵はしゅんと肩を落とした。
「乙葉さん、元々、離れて暮らしてるのに……離れた場所から家出するって、よっぽど離れたかったんですね」
"誰と"離れたかったのか明言はないが、土方は湯呑みを握る手を強くした。
「乙葉さんらしいですねぇ」
呑気な沖田の声が響き、場がすこし緩む。
「乙葉さんの行き先が分かれば、知らせてくださいませ」
志保里は、「ではわたくしはこれで」と、茶菓子もそこそこに席を立った。
三人になった部屋で、葵はちらっと土方を見た。湯気が消えた湯飲みの茶は、一口も減っていない。
「副長、乙葉さんのこと追いかけなくていいんですか?」
「知ったことか」
土方は、ただでさえ深い眉間のシワをいっそう深くする。
「土方さんの気持ちも分かりますけどね」
とっくに茶を飲み終えた沖田は、土方の茶菓子をひょいとつまみ、釈然としない葵に微笑む。
「大事な人が危険な目に遭ったら、冷静じゃいられないでしょう?」
「それはそうですけど……怒鳴る必要あります?」
葵は無自覚に、直球で火の玉を投げつける。
沖田は、聞こえないふりを決め込んだ土方を流し見て、笑いを噛み殺す。
「まぁね、だけど抑えられない位、気持ちが強いってことなんじゃないの?」
「沖田さんは?」
沖田は、葵がどんなに危険な目に遭おうと怒鳴ったことは一度もない。
彼はくすっと喉を鳴らし、
「叱られたいの?」
赤くなった葵の頬をなぞり、ゆっくり目を細めた。
「や……そういうわけじゃ」
「じゃあ、どういうわけ?」
彼の視線が一つずつ反応を追うから、葵はどきまぎと顔を俯かせた。
「叱ることはあっても、怖がらせることはしないよ」
「はい……」
「けど、危険なことはしないでね?」
葵がこくりと頷いたとき、かたんっと湯呑が机に打ちつけられた。
振り返ると、土方が茶を一気飲みしていた。
「そいつは悪かったな」
(自覚はあるんだ)
乙葉は土方と言い合いしていたとき、怖がってはいなかっただろうが、声は震えていた。
「ふふ、謝るなら乙葉さんにどうぞ」
「総司……てめぇは、面白がってんだろ」
「まさか、心配してるんですよ」
ね? と同意を求められ、葵はゴソゴソと、机へ京絵図を広げた。
「どこ行ったのかな、乙葉さん」
沖田も覗き込む。
「うーん、土方さん心当たりないんですか?」
「ねぇよ」
「思い出の場所とか」
一拍空いた。
「ねぇな」
忙しさにかまけてか、公にすることを避けてなのか、土方と乙葉の二人は、あまり連れ立って出かけることもなかった。
「じゃ、乙葉さん戻ってきたら色々連れて行ってあげないといけませんね」
土方は沖田の言葉に鼻を鳴らし「あいつが行きたいとこがあればな」と、腰を浮かせた。
(あんなに言い争ったのに、乙葉さんが戻ってくるって自信はどこから来るのかな……)
葵の知らない二人の時間があるのだろう。土方の話をする時の乙葉は、いつもと少し違うから。
だけど乙葉が安全な所にいてくれるなら、気の済むまで土方を困らせればいい。
なんて言う気持ちもある。そんなことを言ったら大目玉だろうが。
(安全なところにいてくれるなら……?)
「あの、沖田さん……」
葵の声が震えている。
なに、と沖田は肩を寄せる。
「乙葉さん、身売り……したりしませんよね?」
出て行こうとした土方が、派手な音を立てて戻ってきた。
「おいっ、今なんて言った!」
剣幕に怯えつつ、葵はふるふる首を横に振る。
「いえ、まさかとは思うんですけど……私もそうですが、現代からタイムスリップしてきたので、ここで生きていく術ってないんですよ」
沖田も顎に手を添える。顔からは甘さが消えている。
「それで身売り?」
「身売りっていうのは言い過ぎました、でも例えば――って、土方さん!?」
土方は言葉を最後まで聞かずに、乱暴に襖を閉めてしまった。
葵はもうっ、と内心で文句をいう。
「芸を売るところなら、身寄りがなくても雇ってもらえるのかなって」
「確かに」
「どうしよう、乙葉さんが……」
沖田は落ち着かせようと手を取る。
「大丈夫、雇われたとして、すぐにそういうことになるわけじゃない」
と言いつつも、沖田の指先には力がこもっている。そのことが葵の心を急かす。
「土方さん、意地張ってる場合じゃないのに……私、乙葉さん探してきます!」
「待った」
「きゃあっ」
くんっと袖を引かれ、つんのめった。
「ごめんごめん」
葵が転ぶ前に咄嗟に身体を投げ出していた沖田は、下敷きになったまま、逃げられないように葵の背を抱く。
「勝手なことは禁止」
「でも」
「でも、も禁止。乙葉さんのことは皆で探す。良いね」
また「でも」、と言いかけた。しかし沖田も考えがあるようだったから、葵は一旦言葉を飲み込む。
乙葉が出て行った時の背中が思い出される。
いつも「自分が前に立つから、あんたは後ろで笑ってなさい」と言ってくれた。
(じゃあ乙葉さんは?)
「乙葉さんは、強いけど……」
男の着物を着てたって、三人の男を一人で捕まえたって、
衣を脱げば、抱きしめるだけじゃ足りないくらい頼りないのに。彼女を包んでくれるのは、土方だと思っていたのに。
沖田は畳へ手をつき、考え込んだ葵ごと身体を起こした。
「土方さんだって、乙葉さんをこのままにはしないよ。あの人はそういう人だ」
「本当に?」
「本当に」
沖田が言い切るから、土方が乙葉に送っていた眼差しを信じてもいい。そんな風に思わせてくれた。
はらりと、京絵図が二人の目の前に落ちた。
(乙葉さんが行きそうなところ……)
「沖田さん、もしかしたら乙葉さん……!」
――その頃、島原には新たな風が吹いていた




