仮初めの朝、京の町へ③
葵が小さな匙で最後の甘味をすくい上げ、名残惜しそうに口へ運んだ、その時だった。
「ずいぶん楽しそうですね」
聞き慣れた声が、ふいに頭上から降ってくる。
葵がぱっと顔を上げた。
「沖田さん!」
その声だけで、場の空気が一気に明るくなる。乙葉もつられて視線を向ければ、店先のやわらかな灯の下に沖田総司が立っていた。着流し姿ではなく、巡察帰りらしい身軽な格好をしている。その脇には、見覚えのある浅葱の隊服がきれいに折り畳まれたまま抱えられていた。
乙葉は思わず眉を上げる。
「……巡察中じゃないの?」
「そうですよ」
沖田はにこりと笑ったまま、何の問題もないことのように答えた。
「なのに来たの?」
「ええ。乙葉さんと葵が仲良くここへ吸い込まれていくのを見てしまったので」
そこで、ほんの少しだけ肩をすくめてみせる。
「後を追わずにはいられませんよね」
悪びれた様子は一切なかった。
呆れた、と言いたいのに、あまりにさらりと言うものだから乙葉は言葉を失う。対する葵はもう隠しようもなく嬉しそうで、頬までふわりと明るんでいた。
「立ってないで座れば?」
乙葉がそう言うと、沖田は「では遠慮なく」と素直に腰を下ろした。選ぶ場所は当然のように葵の隣だ。葵もまた、それを当たり前のことのように受け入れている。
並んだ二人を見て、乙葉は内心で小さく息をついた。こうしていると、本当にお似合いだと思う。沖田が葵を見る目は、からかいや気まぐれではない。やわらかくて、甘くて、少し困ったようで、それでいてどうしようもなく愛おしげだ。
「甘いもの、まだ残ってますか?」
沖田が覗き込むように問うと、葵はこくりと頷いた。
「はい。おいしいですよ」
「それはよかった。葵は、そういう時いつも目がきらきらしてるから」
「え、そんなに分かります?」
「分かるよ」
沖田は笑いながら、葵の手もとへ視線を落とした。甘味を前にした葵の嬉しそうな顔も、その袖口からちらりと見える赤い組紐も、何もかもを大切そうな眼差しで見ている。
葵もまた、そんな沖田の視線を受けるたび、少しだけ照れたように笑う。その空気があまりに自然で、乙葉は思わず口元を緩めた。恋仲というものは、案外こういう瞬間にいちばんよく見えるのかもしれない。触れ合わずとも、声の柔らかさや見つめる眼差しの端々から、相手を愛おしむ気持ちが溢れていた。
そんな二人を眺めながら、乙葉はわざとらしくため息をついた。
「ほんと、あんたたち見てると甘いんだか甘味が甘いんだか分かんなくなるわね」
「おや」
沖田が楽しそうに目を細める。
「乙葉さんにだけは言われたくないですね」
「は?」
「こちらはせいぜい甘味の話をしているだけですから」
そこで一拍置き、口元の笑みを深めた。
「昨夜の土方さんのご機嫌を取るより、ずっと健全ですよ」
乙葉の眉がぴくりと動く。
葵が「えっ」と目を丸くした瞬間にはもう遅かった。
「こうして俺が油を売っているのが、副長にバレても、乙葉さんがちょいと土方さんを誘惑してくれれば難を逃れられるでしょ」
机の下で、乙葉の足が勢いよく伸びた。
鈍い音はしなかったが、感触だけはしっかりあったらしい。
「――っ、いた!!」
沖田が珍しく素で声を上げる。
葵がぎょっとして沖田を見る横で、乙葉は涼しい顔で甘味をひと口すくった。
「ふざけんな」
「ひどいなあ……」
脛を押さえながら恨めしげに言う沖田に、乙葉は鼻を鳴らす。
「人聞きの悪いことを言うからでしょ」
「人聞きが悪いですか? 事実では」
「総司」
笑顔のまま名前だけを呼ぶと、沖田は「はいはい」と肩をすくめた。とはいえ、その目はまったく懲りていない。むしろ面白がっている。
葵は乙葉と沖田を交互に見て、それから小さく頬を染めた。
「……でも、副長と乙葉さん、本当に仲がいいですよね」
「どこがよ」
「そうやって否定するところが、もうそれっぽいんです」
葵の言い方に、乙葉はむっと唇を尖らせた。否定しきれないのも事実だった。昨夜のことが、不意に脳裏を掠める。
灯を落とした部屋。
低い声。
熱い腕。
強く抱き寄せられたあと、逃がさないみたいに何度も落ちてきた口付け。
思い出した瞬間、自分でも分かるくらい頬が熱くなった。
「ほら」
沖田がにやりとする。
「今、何か思い出しましたね?」
「蹴り足りなかったかしら」
「もう一度来ます?」
「来るわよ」
「やめてください、さすがに今度は泣きます」
真顔で言われて、葵がくすりと笑った。その笑い声に釣られるように、乙葉も肩の力を抜く。
沖田はそんな葵を見て、またふっと表情を和らげた。
「でも、よかったです」
「何がですか?」
「葵が楽しそうで」
その言い方は、あまりにもまっすぐだった。
葵の目が、少しだけやわらかく揺れる。
「沖田さんも、来てくれてよかったです」
「そう言われると、巡察を抜けてきた甲斐があるね」
「抜けてきたのを堂々と言わないでください」
乙葉が呆れたように突っ込むと、沖田は「だって本当のことですし」と悪びれもせず笑う。そんな沖田の袖口を、葵がそっと引いた。
「あとでちゃんと巡察に戻ってくださいね」
「葵にそう言われたら戻るしかないなあ」
「最初から戻るつもりでいてください」
「はい」
軽いやり取りなのに、その端々に親しさが滲む。沖田にとって葵がどれだけ大事か、葵にとって沖田の存在がどれだけ特別か、見ていれば嫌でも分かった。
乙葉は湯気の立つ茶碗へ手を添えながら、ふと息をつく。
現代から幕末へ来てしまった二人。
男装して一番隊に身を置く二人。
それでも、こうして甘味処でくだらない話をして笑える時間がある。
悪くない、と思う。
葵が嬉しそうに沖田を見上げ、沖田がそんな葵を目尻のやわらかい笑みで見返す。その様子を見ていると、乙葉の胸の奥にもじんわりとやさしいものが広がった。
きっと自分も、ああいう顔で誰かを見ているのだろう。
――いや、見てしまっているのだろう。
あの男を。新選組副長を。
昨夜、誰より近いところで自分を抱いた男を。
そこまで考えたところで、乙葉ははっとして眉を寄せた。
「……やっぱり総司、あんた余計なこと言いすぎ」
「また蹴ります?」
「考え中」
「葵、助けて」
「私は今回は乙葉さんの味方です」
「ひどい」
即答されて、沖田がわざとらしく肩を落とす。葵は笑っているし、乙葉もつい口元を緩めてしまう。
甘味処の小さな卓を囲んでいるだけなのに、そこには妙に満ち足りた空気があった。
幕末の京の片隅で、男の顔も女の顔もいったん脇へ置いて、ただ好きな相手と、好きな人たちと、他愛なく笑い合う時間。
それはきっと、短いからこそ余計に愛おしい。
湯気の向こうで、葵がまた嬉しそうに沖田を見た。
その横顔を見守りながら、乙葉はそっと茶を口に含む。
熱はやわらかく喉を落ちていった。
まるで昨夜の名残を、まだ胸のどこかに残したままいる自分を、静かに宥めるようだった。




