仮初めの朝、京の町へ②
志保里の家を出る頃には、空はすっかり昼の明るさを帯びていた。
京の町は今日も賑やかだ。行き交う人の声、店先から漂う焼き物の匂い、遠くで聞こえる呼び売りの声。現代の街とは何もかも違うはずなのに、不思議と、この喧騒にも少しずつ身体が馴染んできている。
待ち合わせの場所は、いつもの橋のたもとだった。
欄干のそばに立つ小柄な娘を見つけた途端、乙葉は思わず口元を緩めた。
やわらかな色の着物に身を包み、髪をきれいに結い上げた神木葵が、行き交う人波の中でこちらを見つけてぱっと顔を明るくする。その愛らしさは、男装して隊服を着ている時より、いっそう年相応だった。
「乙葉さん!」
弾んだ声とともに、葵が小走りに駆け寄ってくる。
「待った?」
「少しだけです。でも、今来たところです」
「そういうの、だいたい待ってる人が言うやつよね」
「乙葉さん、たまに現代人っぽいこと言いますよね」
「たまに、じゃないわよ。私はれっきとした現代人です」
言いながら、乙葉は葵の額の辺りへかかった髪を指先で払った。葵はくすぐったそうに肩をすくめる。こうして女の姿で並んでいると、いっそう妹と出掛けているような気分になった。
葵もまた、乙葉と同じように現代からこの時代へ流れ着いた人間だった。まだ十八歳の高校生。本来なら学校に通い、友人と他愛ない話をして、甘いものを食べて笑っていていい年頃だ。それが今は、新選組で男装し、一番隊の隊士として日々を送っている。
とはいえ、隊務のない時まで男の格好をしているわけではない。
こうして町へ出る時の葵は、たいてい女姿だった。その方が自然だし、何より年相応に見える。乙葉にとっても、その方が少し安心できる。あの隊服を着て肩肘を張っている姿より、今みたいに素直に笑ってくれている方がずっといい。
ふと、葵の手首で赤いものが揺れた。
やわらかな着物の袖口から覗くのは、見慣れた赤い組紐だった。
目立つものではない。それでも乙葉は、その色を見るたび胸のどこかがざわつく。葵にとって、その組紐はただの飾りではなかった。現代と幕末を繋ぐもの。どういう理でそうなっているのかを乙葉はうまく説明できない。ただ、あの赤が葵をこちらへ繋ぎとめ、同時に向こう側とも結び続けているのだと思っている。
葵が、乙葉の視線に気づいてそっと手首を押さえた。
「これ、気になりますか?」
「ううん。今日もちゃんとあるなって思って」
そう言うと、葵は少しだけ微笑んだ。
「なんだか、見ると落ち着くんです」
「大事なものなんでしょ」
「はい」
葵は赤い組紐に触れたまま、小さく目を伏せる。
「向こうと、こっちを繋いでるみたいで」
その言い方に、乙葉は少しだけ目を細めた。自分には愁生の名があり、志保里の家があり、新選組での役目がある。葵にとっては、この赤い組紐こそが現代を思い出させる確かな印なのかもしれなかった。
「大事にしなさいよ」
「もちろんです」
そう言ってまた大切そうに袖口へ隠す仕草が、あまりにも素直で愛らしい。
「それより、今日は甘味処に行くんでしょ」
乙葉がそう言うと、葵の顔がぱっと明るくなった。
「はいっ」
「分かりやすいわね」
「だって楽しみなんですもん」
その声音に、乙葉は思わず笑ってしまう。こういうところが、どうしたって可愛い。妹がいたことはない。もし自分に妹というものがいたなら、たぶんこんな感じなのだろう。危なっかしくて、素直で、拗ねやすくて、でもこちらが本気で叱ればちゃんとしゅんとする。
何より、葵は乙葉を慕っていた。
年の近い友人というより、もう少し近く、甘えるような眼差しで見上げてくることがある。姉を求める妹のような親しさがそこにはあった。乙葉の方もまた、その眼差しに弱い。
「ほら、行くわよ」
先に立って歩き出すと、葵がすぐ隣へ並んだ。
「今日は何を食べましょうか」
「そうねえ。寒天でも汁粉でも、甘ければあんたは何でも喜びそう」
「そんなことないです」
「あるわよ」
「乙葉さんだって好きなくせに」
「私は付き合ってあげてるだけです」
「またそうやって格好つけるんですから」
唇を尖らせる様子まで可愛らしくて、乙葉は肩をすくめた。
甘味処は、通りを少し入ったところにある小ぢんまりとした店だった。暖簾の向こうから甘い匂いが漂ってくる。中へ入ると、葵の目がみるみる輝いた。
「わあ……」
「子どもみたいな顔しないの」
「だって嬉しいんです」
「知ってる」
二人で腰を下ろし、運ばれてきた甘味を前にすると、葵はもう隠しようもなく上機嫌だった。匙を持つ手元までそわそわしている。
「おいしい……」
最初のひと口で素直に頬を緩める様子に、乙葉は吹き出しそうになる。
「よかったわね」
「乙葉さん、なんだか保護者みたいです」
「みたい、じゃなくて実質そうでしょ。あんた、放っておくと危なっかしいんだから」
「そんなことないです」
「あるわよ。隊務の時はちゃんとしてても、こういう時に限ってきょろきょろして迷子になるし」
「迷子にはなってません!」
「この前、道を一本間違えたのは誰だったかしら」
「……乙葉さんとおしゃべりしてたからです」
拗ねたように言い返されて、乙葉はふっと笑った。
「じゃあ、私のせいにしときなさい」
「そうします」
即答されて、今度は本当に笑ってしまう。
こうして他愛ない話をしていると、幕末だの新選組だの男装だの、そういうややこしいものが少しだけ遠のく気がした。もちろん、なくなるわけではない。葵はこのあとまた男の格好に戻り、一番隊の隊士として振る舞うのだろう。乙葉だって同じだ。
甘味を口に運びながら、葵がふいに言った。
「でも、こういう時間、好きです」
「うん?」
「隊務がない時に、乙葉さんと町に出るの。なんだか、普通に戻れたみたいで」
その声音は、明るいだけではなかった。
乙葉は少しだけ目を伏せる。
「普通、ね」
「はい。……もちろん、もう同じ普通じゃないって分かってますけど」
葵の指先が、そっと赤い組紐へ触れる。
「でも、乙葉さんと一緒にいると、ちょっと安心するんです」
真正面からそんなふうに言われると、どうにも弱い。
乙葉は誤魔化すように匙を置き、わざとらしく肩をすくめた。
「仕方ないわね。あんたのお姉さん代わりくらいならしてあげる」
途端に、葵の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「いまさら何言ってるの。とっくにそうでしょ」
その瞬間の葵の笑顔は、甘味よりよほど甘かった。
「じゃあ、これからも一緒に来てくださいね」
「隊務がない時だけね」
「約束です」
「はいはい」
そう返しながら、乙葉は自分の胸の内がやわらかく緩むのを感じていた。
この時代で生きることは、簡単ではない。
男装して新選組に身を置くことも、現代を忘れずにいることも、全部まとめて骨が折れる。
それでもこうして、甘いものを前に頬を緩める年下の娘が隣にいて、自分を姉のように慕ってくれるのなら、悪くないと思ってしまう。
幕末の京の町は、今日も騒がしくて、穏やかで、少しだけ切ない。
その片隅で乙葉は、赤い組紐を手首に結んだ小さな妹分と、しばし束の間の平穏を味わっていた。




