仮初めの朝、京の町へ
帯を引かれるたび、息が少しだけ浅くなる。
「動かないでくださいね、乙葉さん」
背後から届く志保里の声はやわらかい。その声に導かれるように、細い指が慣れた手つきで衣を整え、帯の位置を直し、乱れた襟元をそっと撫でていく。鏡のない部屋だったが、今の自分がどんな格好をしているのかくらいはよく分かった。見慣れない女物の着物。胸の前で重なる合わせ。きつく締められた帯。ほんの数か月前まで、こんな姿を当たり前のように受け入れる日が来るなど、夢にも思っていなかった。
現代を生きていたはずだった。
都内で刑事として働き、事件を追い、慌ただしく日々を駆け回っていた自分が、どうして幕末の京で女物の着物を着せられているのか。考えるたび、始まりの異様さに足元が揺らぐ。
龍崎乙葉は、現代からこの時代へ落ちてきた。
しかも目を覚ました場所は、ただの見知らぬ部屋ではなかった。池田屋で命を落としたはずの男――自分の先祖である龍崎愁生が安置されていた場所だったのだ。
愁生は死んだ。史実通りに死んだはずだった。
なのに、自分がそこで目を覚ました時には、愁生の遺体は消えていた。
遺体が見つかるまでの間だけ。
事が落ち着くまでの間だけ。
そうして始まったはずの仮初めは、思った以上に長く続いている。
愁生が生きていることにするために、乙葉は男の格好をして新選組へ身を置いた。龍崎愁生として一番隊に所属し、隊士として振る舞う日々。女であることを隠し、名も姿も借りて、剣と血の匂いのする時間の中を渡ってきた。
もっとも、四六時中その姿でいられるわけではない。
隊務のない時、そして屯所を離れている時の乙葉は、こうして女の姿に戻る。今暮らしているのは、愁生の恋人だった志保里の家だ。最初は気まずさしかなかった。自分は乙葉であって、愁生ではない。それでも志保里は、戸惑いも悲しみも胸に抱えたまま、乙葉を受け入れてくれた。
帯がきゅ、と最後に締められる。
「苦しくありませんか?」
「少しだけ」
そう答えると、志保里は小さく笑った。
「最初よりずいぶん慣れました」
「慣れたくて慣れたわけじゃないんだけど」
「それでも、前はもっと大騒ぎでしたよ」
否定できない。初めて女物の着物を着せられた時には、帯が苦しいだの歩きにくいだの散々文句を言った覚えがある。今も文句は出るが、袖の扱い方も裾の捌き方も、いつの間にか身体が覚えてしまっていた。
慣れてしまったのだ。
新選組の隊服にも、刀の重みにも、男として振る舞う日々にも。
そしてこうして、女として息をつく時間にも。
志保里が前へ回り、襟元を整えながら乙葉の顔を覗き込む。
「今日は、よくお似合いです」
「それ、前にも聞いた」
「何度でも言います」
真面目な顔で言うものだから、乙葉は思わず小さく息を漏らした。
似合うと言われても困る。そもそも、自分の好きな装いとはまるで違う。忙しい日々でも、好きなブランドの服を着て、メイクを楽しむことは忘れない。そんな自分が今は、隊士としての顔と、女としての顔の両方を持たなければ立ち行かない。
龍崎愁生として生きるために。
そして、乙葉自身としてこの時代に残るために。
志保里の指が、最後に髪へそっと触れる。
「……乙葉さん」
「なに?」
「無理は、なさらないでくださいね」
その声に、乙葉は一瞬だけ目を伏せた。
無理をしない、というのが一番難しい。愁生の名を借りて新選組にいる以上、何もしないでは済まされない。自分は池田屋で死んだ先祖の代わりではない。それでも、愁生が果たせなかったものを、このまま見過ごすことはできなかった。
現代から幕末へ落ちてきた女。
死んだはずの先祖の名を借りる新選組隊士。
そして今は、愁生の恋人の家で女として息を潜める身。
どれひとつ取っても、まともではない。
それでも乙葉は、ゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫よ」
口にしたところで、自分でもその言葉がどこまで本当なのかは分からない。はっきりしているのは、もう後戻りはできないということだけだった。
志保里は何も言わず、小さく微笑んだ。
そのやさしさが、かえって胸に沁みる。
着付けを終えた女物の着物は、思ったよりも身体に馴染んでいた。
男として剣を差す日々と、女として息をつくこの時間。
そのどちらも、もう今の自分からは切り離せない。
乙葉はそっと息をつき、帯の上に手を置いた。
――龍崎愁生として生きるために。
――龍崎乙葉として、この時代を生き抜くために。
幕末の朝は、今日も静かに始まろうとしていた。
⭐︎瑞希です。
本文中の
「甘味を前にした葵の嬉しそうな顔も、その袖口からちらりと見える赤い組紐も、何もかも大切なものを見る目で見ている。」
▶︎最後「眼差し」とするのはいかがでしょう?見るが続いたのでリズムを変えてもいいのかな?と思いました。
案:甘味を前にした葵の嬉しそうな顔も、その袖口からちらりと見える赤い組紐も、何もかもを大切そうな眼差しで見ている。




