第十五章 霧乃はどっちだ
月明かりを背に、男がひとり立っていた。
障子の向こうに滲んでいた影よりも、実際の姿はなお不気味だった。高くも低くもない背丈、夜の色に紛れるような衣、そして妙に静かな立ち方。押し入ってきたというのに、息の乱れひとつない。そのくせ、空気だけがじわりと重くなる。
本能的な危険を察して、乙葉の身体は考えるより先に動いていた。自分より前にいた葵の襟首を掴み、そのまま背後へ引き寄せる。細い息を呑む気配が、すぐ背中の向こうで小さく震えた。
男はその動きを見ても笑わなかった。
ただ、薄く首を傾げる。
「霧乃って、どっち?」
柔らかい声だった。
道でも尋ねるような穏やかさが、かえって気味が悪い。名を呼ぶというより、札のついた品を確かめる響きに近かった。
乙葉の喉の奥がひやりと冷える。
霧乃――理瀬が島原で座敷に上がる時の名を知っている。
ただ耳にした程度ではない。こうして迷いなく口にしたということは、葵屋の中を探っていたのか、最初から理瀬を追っていたのか。どちらにせよ、ろくでもないことだけははっきりしていた。
隣で、理瀬の気配が変わる。
ついさっきまで葵の髪を編んでいた指先が、もう別のものになっていた。柔らかく座敷へ溶けていた芸妓のそれではない。張りつめた糸のような、抜けば切れる刃の気配だった。
理瀬は一歩も引かず、男を見た。
「私よ」
その声に揺れはない。だが乙葉には分かった。理瀬の全身が、すでに戦うための均衡へ移っている。
男の目が、そこで初めて理瀬へ定まる。
その視線に、乙葉はぞっとした。
敵を見る目ではなかった。恨みをぶつける目でも、獲物を前にした獣の目でもない。もっと冷たく、もっと粘ついている。値踏みしているのだ、と乙葉は思った。
男の顎に添えられた指先が、わずかに動く。
そのまま理瀬をじっくり眺め回す仕草は、あまりにも露骨で、あまりにも下卑ていた。美しく結い上げられた髪の一本まで見逃さず、下がっていく視線は、芸妓の衣に包まれた肌まで暴こうとするようだった。
乙葉は眩暈に似た嫌悪を覚えた。
殺意ならまだ分かる。刃を向けてくる相手なら、殴るなり蹴るなり、潰し方はいくらでもある。
けれど、これは違う。
目の前の男は理瀬を傷つけようとしているのではなく、どこかへ連れていく品のように眺めている。そこにあるのは敵意より、選別に近い悪意だった。
背に庇った葵は、乙葉が盾になっているおかげで正面からその毒気を浴びてはいない。それでも異様な空気は伝わるのだろう。乙葉の袖の端を、葵の指先がそっと掴んだ。そのかすかな力が、かえって乙葉の神経を冴えさせる。
「葵、下がって」
囁くように言うと、葵はこくりと小さく頷いた。
それでも完全には下がらず、息を殺している気配だけが背中に張りついている。
理瀬が、ほんの少しだけ顎を引く。
その目を見た瞬間、乙葉は息を止めそうになった。
普段の理瀬の、どこか醒めた静けさではない。もっと深いところへ沈めている顔だった。葵屋の芸妓でも、霧乃でもなく、そのどちらでもあるまま、さらに別の何かへ切り替わる前の目。ひややかで、冴えていて、少しも情を見せない。
黒髪がほどけて銀へ変わっていく錯覚が、乙葉の脳裏をかすめる。
――冥の使い。
揺れた行灯の灯が男の横顔を照らし、その口元に浮かんだ狂喜を露わにした。
「良いなぁ、欲しいなぁ」
壊れた腹話術人形のように、口の中でくぐもった声が転がる。
「昨日のあの子と、どっちが良いかなぁ」
乙葉の背筋に、また冷たいものが走った。
昨日のあの子。理瀬ひとりではない、ということか。別の娘も同じように見ていたのか。
男は理瀬から目を逸らさないまま、うっとりするように目を細めた。
「ますます、おあつらえ向きやなぁ」
乙葉は唇を噛む。
考えろ。見ろ。組み立てろ。
「あんたの目的は何?」
自分でも思ったより低い声が出た。
男はすぐには答えなかった。指先を口元へ運び、ぎり、ぎり、と爪を噛む。欠けた爪先が立てる小さな音だけが、静まり返った廊下へ嫌に鮮明に響いた。
「花嫁――」
「花嫁? 何?」
問い返しても、男はもう続きを言わない。ただ爪を噛みながら、理瀬を見ている。
身寄りのない若い娘が消える。
座敷で拾った不穏な噂が、そこで記憶の底からせり上がった。
花嫁。身寄りのない娘。若い女を探る視線。
ばらばらだった言葉が、頭の中でひとつの形を結びはじめる。
男はなぜ霧乃を探していたのか。
理瀬に執着する理由は何か。
平面だった紙が、乙葉の脳裏でゆっくり立体になっていく。
その輪郭がはっきりするにつれ、嫌悪はますます濃くなった。
理瀬の体重が、わずかに前へ移る。
駄目だ、と乙葉は目で訴えた。だが理瀬の意識はすでに男へ定まっていて、こちらの合図が届いているのか分からない。
焦りがじりじりと胸を灼く。
いざとなれば自分が――
乙葉は簪に指をかけた。武器になるかどうかも怪しい。だが、素手で立つよりましだった。
その時だった。
廊下の向こうから、別の足音がした。
ひとり分。
迷いのない、馴染んだ歩幅。
男の目がわずかに細まる。
乙葉も理瀬も、その気配へ意識を向けた。
続いて、聞き慣れた声が廊下へ落ちてくる。
「葵――」
戸口に立っていたのは、鯉口に手をかけた沖田だった。




