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第十六章 それ、僕のもの

「葵――」


 沖田は鯉口に手をかけたまま、まず葵の無事を確かめるように視線を走らせた。


 その気配に、場の空気がわずかに揺れる。

 

 一瞬、男の目が戸口へ滑った。

 その瞬間、理瀬の重心がわずかに沈む。


 だが、その動きを読んでいたかのように、男の手が先に伸びた。

 

「――っ!?」


 理瀬の肩がわずかに動く。


 身を引こうとした、その一瞬より早く。

 細い指が顎を挟み込み、逃げ道を奪う。


 理瀬の目が、わずかに細まる。

 

 怯えたのではない。

 ただ、己に触れることを許していない者を見る目だった。


 男はその視線を受けても、怯むどころか首を傾げる。


「へぇ……」


 鼻先ほどの距離まで顔を寄せ、右から左へゆっくり眺める。


 美しく結い上げた髪も、白い首筋も、衣に隠れた身体の線も、一つひとつ確かめるように目が這っていく。


 美しいから見ているのではない。

 その目は、人を見ている目ではなかった。

 

 壊れ物に傷がないか、花嫁に足るかどうか、ひとつずつ条件を照らし合わせているだけの目だった。


 その時。


「――それ」


 男の肩越しに、静かな声が落ちる。


「僕のだから。離してくれない?」

  

 男が振り向くより早く、銀が閃いた。


 男の身体が、ふわりと後ろへ流れた。

 紙一枚。刃は虚しく夜気を裂くだけに終わる。


 稔麿の眉がわずかに動く。


「……ちっ」


 そのまま男から目を離さず、理瀬の前に立つ。


「平気です」


 理瀬の声に、揺れはなかった。


 稔麿は振り返らない。

 理瀬もまた、男から目を逸らさなかった。


 短い沈黙が落ちる。


 その沈黙を断つように、廊下から足音が近づいた。

 戸口に姿を現したのは、桂だった。


 桂の視線が、ほんの一瞬だけ理瀬の顎へ落ちる。

 白い肌に残った赤み。


「稔麿」


 それだけだった。

 稔麿は答えない。

 だが、桂も続きを求めなかった。


 視線はすでに、目の前の男へ向いている。


 男の視線が、乙葉へ滑る。


 その動きを、桂は見逃さなかった。

 静かに一歩ずれる。

 乙葉を背に置き、自らが男の視線の先へ入る。


 あまりにも自然な動きで、最初からそこに立つことが決まっていたようだった。


 その動きに迷いはなかった。

 乙葉は一瞬だけ、そんな状況でも乱れない桂の所作に目を留めた。


 その直後、背後で気配が動く。


 乙葉が視線を向けると、沖田はすでに葵の傍らにいた。

 その姿を見て、ようやくわずかに息を吐く。


「沖田」


「分かってる」


 先に返った声には、いつもの軽さがなかった。


 その瞬間、男の視線が沖田へ移り、そのまま背後にいる葵へゆっくりと滑った。

 その目は、正体を暴こうとする目だった。

 着物の合わせ、立ち姿、視線の置き方。女のふりをしているものの綻びを、ひとつずつ拾おうとしている。


 葵の肩がわずかに震える。

 沖田の指が、刀の柄へわずかにかかった。


「葵」


 その声だけは、いつもと変わらなかった。

 それだけで、張りつめていた葵の息がわずかにほどける。


 だが、沖田の目にはもう、いつもの柔らかな笑みはない。

 沖田はただ一歩、葵の前へ出る。


 それを見届け、乙葉もまた動いた。

 理瀬の横へと入る。


 背を預けるような距離ではない。互いの死角を補える位置。

 目の前の男から、理瀬を遠ざけるための構えだった。


 守る必要がないほど強い相手だということは分かっている。

 それでも、ひとりで立たせるつもりはなかった。

 

 目の前の男から視線を外さない。


 何を狙っているのか。

 何を見ているのか。


 その答えを探るように、乙葉は男を見た。



 その場にいた者たちは、誰ひとり示し合わせてはいなかった。

 それでも気づけば、形はできていた。

 

 稔麿が理瀬の前に立つ。

 桂が乙葉との間に入り、男の視線を遮る。

 沖田は葵を背に置き、刀へ手を添えている。


 三つの刃が、それぞれ別の場所を守るように立っていた。


 男の目が、ゆっくりと動いた。


 理瀬。

 乙葉。

 そして、沖田の背後にいる葵。


 三人を順に見比べる。


 その指先が、ゆっくりと口元へ上がった。

 ぎり、と爪を噛む。

 その音が、妙に耳についた。


 男はそれすら気に留めない様子で、三人を見ていた。


 その視線の意味に、乙葉は気づいた。


 顔立ちを見ている。

 年頃を見ている。

 立ち姿や反応を拾っている。


 ――違う。


 これは興味ではない。

 選んでいる。


 使えるかどうかを、品物のように。

 胸の奥で、嫌悪が膨らんだ。


 この男は、誰であろうと同じ目で見るのだ。

 

 けれど。

 男の視線は、最後には必ず理瀬へ戻る。

 そこにある執着だけは、他とは明らかに違っていた。


 男はしばらく理瀬を見つめていた。


 やがて、満足したように目を細める。


「今宵は、ようけおるなぁ」


 その声は、ひどく楽しげだった。


「今日は、これでええかなぁ」


 その声音には、諦めも悔しさもなかった。

 欲しいものを見つけた者の、妙な余裕だけがあった。


 次の瞬間、男の気配が、夜へ溶けるように薄れた。

 追うべきか迷うほど自然な動きだった。


 けれど、その場に残された者たちは動けなかった。


 そこに残ったのは、斬り合いの緊張ではない。

 人を値踏みし、選別する者を前にした、拭いようのない嫌悪だけだった。


 男が消えた後も、誰もすぐには口を開かなかった。

 部屋には、あの男が残した視線だけがまだ貼りついているようだった。



 その沈黙を破ったのは、廊下から響いた足音だった。


「……何の騒ぎだ」


 その声に、乙葉が振り返る。


 戸口に立っていたのは、土方だった。



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