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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十一章

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第2話

収支帳を差し出すと、父は最初こそ何気ない顔で頁をめくっていた。


けれど、数字を追ううちに、その手が止まる。


「……これは、本当にお前ひとりで回したのか」


「はい」


「必要経費を引いて、なおこれだけ残ったのか」


父の低い声が、かすかに掠れた。


私は膝の上で指を組む。


「前にお話ししたとおり、今月分は三割を家に入れます」


「……三割」


「まだ事業は始まったばかりですから、余力を残す必要があります」


「……しかし、家の金で始めた仕事であろう。家の名で動いた話でもある。それで三割とは、ずいぶん控えめだな」


「お父様、前回そう決めたではありませんか」


「それは分かっている」


父はそこで言葉を切り、収支帳の上に指を置いた。


「だが……数ヶ月で金貨四枚を積めるなら、話は違ってくる。お前ひとりの小遣いで済ませる額ではない」


沈黙が落ちた。


私は目を伏せ、膝の上で組んだ指先に力を込める。


「お小遣いではありません。私の持参金に充てるつもりです」


父の眉が、ぴくりと動いた。


「……持参金?」


「はい。家にこれ以上ご負担をかけずに済むように、少しずつでも自分で用意したいのです」


「それで、その先はどうするつもりだ」


「できることなら、婚姻も家に迷惑をかけない範囲で、自分で見つけたいと思っております」


「……自分で見つける、だと」


父は収支帳をぱたりと閉じた。


「婚姻は家と家の話だ。お前ひとりの考えで決めてよいものではない」


「承知しております。でも、お姉様もご自分で見つけられたではありませんか」


「リディアは、あれでいて相手方から望まれたのだ。家同士で話が通る相手で、釣り合いも取れていた。勝手に見つけたわけではない」


私は小さく息を吐いた。


やっぱりね。


そう返されることを想像できていた自分が、少しだけ寂しかった。


「……お父様。お姉様の持参金が足りないのでしたら、私の分をそちらへお回しください」


父の表情が、わずかに動く。


「その代わり――私の持参金は、私が自分で用意します」


父は私の顔を見たまま、しばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐く。


「……よかろう」


私は父を見返した。


「お前がそこまで言うなら、自分の持参金を自分で用意すること自体は止めん」


「……ありがとうございます」


私は深く頭を下げた。


父はもう何も言わなかった。

ただ、閉じた収支帳の上に置いた指先だけが、わずかに机を叩いた。


私は一礼して、静かに部屋を辞した。


部屋を出ると、廊下の柱にもたれるようにして兄が立っていた。


「お兄様……」


「聞こえたぞ」


兄は鼻で笑った。


「持参金を自分で用意する、だって? ずいぶん大きく出たな」


「何か問題でもありますか?」


「問題だらけだろう」


兄は柱から背を離し、ゆっくりとこちらへ向き直った。


「家の金で始めた話だ。それを自分の持参金にするなんて、都合のいい理屈が通ると思っているのか」


「では、お兄様は私の持参金を用意してくださるのですか?」


兄は一瞬だけ黙り、それから薄く笑った。


「用意するかどうかは別の話だ」


私は兄をじっと見つめ、返事を待った。


「……お前は、金貨を少し積めたからといって、勘違いしている」


「お答えになっていません」


兄は私を睨んだまま、すぐには答えなかった。


やがて、舌打ちまじりに言う。


「……少なくとも、お前が勝手に抱え込む話ではない」


「つまり、用意はしてくださらないのですね」


「そういう言い方をするな」


「違いますか。……お答えください、お兄様」


兄は何か言い返しかけて、結局、言葉を飲み込んだ。


「……あまり勝手な真似をするなよ」


「失礼いたします、お兄様」


私は一礼し、兄の脇を静かに通り過ぎた。



馬車が緩やかに速度を落としたとき、私は窓の外へそっと目を向けた。


見えてきた屋敷は、グラーフ伯爵家のような古い重厚さとはどこか違っていた。


門柱には金の縁取りが施され、道の両脇には低く刈り込まれた木々と、年数の浅そうな若木が並んでいる。庭園は隙なく美しく整えられていた。


――新しい。そして豪華だ。


馬車が正面玄関前へ回り込む。


屋敷は三階建てで、中央だけが柱廊になっている。白い壁は陽を受けて眩しく、石材や窓枠の意匠にも華やかさがあった。


私は膝の上の実務者会の招待状へ、もう一度目を落とす。


――ハーゼルベルク。


どこかで耳にした名だと思ったが、今は思い出す余裕がなかった。


「お嬢様、到着いたしました」


御者の声に、私は小さく息を吐いた。


先に降りた従者が扉を開ける。

私は裾を乱さないよう気をつけながら、馬車を降りた。


玄関前には、すでに何台もの馬車が止まっていた。扉板に描かれた紋章も、従者たちの衣服もそれぞれ異なり、いくつもの家から客が集まっているのが分かる。


――いつもの集まりより、ずっと規模が大きい。


玄関扉の前には、濃紺の上着を着た執事が控えていた。


「ようこそお越しくださいました。リュークハルト家のエリナ様でいらっしゃいますね」


「はい。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「お待ちしておりました。会場は二階の大広間でございます。本日は軽食もご用意しておりますので、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」


案内に従って、屋敷の中へ入る。


床には白い大理石が敷かれ、大階段の手すりには金色の飾りが目立つ。壁には大きな風景画が等間隔に掛けられていた。


執事が広間の扉を静かに開いた。


途端に、光と声と人の熱が流れ込んでくる。


高い天井から大きな硝子灯が吊られ、白いクロスをかけた長卓がいくつも並んでいる。壁際には軽食と茶器が整然と並べられていた。


中央では若い貴族たちがいくつもの輪を作り、笑みを交わしている。


いつもの実務者会より、社交の色が濃い気がした。


私は足を踏み入れる前に、そっと広間を見渡す。


――あの人は、まだ来ていないようだ。


胸の奥で張っていたものが少しだけ緩み、私は気づかれないよう小さく息をついた。


そのとき。


「エリナ嬢?」


不意に、すぐ傍から声がかかった。

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― 新着の感想 ―
戦うと決めた女は強い! 権威と既成概念だけで、曖昧に金を流そうとする兄に一歩も譲らないエリナは立派です。 多分、曖昧な金の流し方を繰り返した結果、現在の家の借金があるんでしょうね。 仕切り担当がいない…
父親と兄、予想通りの欲張りですね。エリナが自分で持参金を用意しても土壇場で邪魔しそうで心配です。「お前が嫁に行けるはずはない。もらい手がない娘なら、いっそのこと一生事業に生きて家のために尽くせ」くらい…
『責任はお前持ち、儲けは家のもの』ってか? 予想以上に上手くいってるのが判って欲が出たのか、それとも嫉妬か。 どちらにしても父と兄の態度は、主人公を落胆させるのに十分だったのでしょうね。 めげずに頑張…
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