第2話
収支帳を差し出すと、父は最初こそ何気ない顔で頁をめくっていた。
けれど、数字を追ううちに、その手が止まる。
「……これは、本当にお前ひとりで回したのか」
「はい」
「必要経費を引いて、なおこれだけ残ったのか」
父の低い声が、かすかに掠れた。
私は膝の上で指を組む。
「前にお話ししたとおり、今月分は三割を家に入れます」
「……三割」
「まだ事業は始まったばかりですから、余力を残す必要があります」
「……しかし、家の金で始めた仕事であろう。家の名で動いた話でもある。それで三割とは、ずいぶん控えめだな」
「お父様、前回そう決めたではありませんか」
「それは分かっている」
父はそこで言葉を切り、収支帳の上に指を置いた。
「だが……数ヶ月で金貨四枚を積めるなら、話は違ってくる。お前ひとりの小遣いで済ませる額ではない」
沈黙が落ちた。
私は目を伏せ、膝の上で組んだ指先に力を込める。
「お小遣いではありません。私の持参金に充てるつもりです」
父の眉が、ぴくりと動いた。
「……持参金?」
「はい。家にこれ以上ご負担をかけずに済むように、少しずつでも自分で用意したいのです」
「それで、その先はどうするつもりだ」
「できることなら、婚姻も家に迷惑をかけない範囲で、自分で見つけたいと思っております」
「……自分で見つける、だと」
父は収支帳をぱたりと閉じた。
「婚姻は家と家の話だ。お前ひとりの考えで決めてよいものではない」
「承知しております。でも、お姉様もご自分で見つけられたではありませんか」
「リディアは、あれでいて相手方から望まれたのだ。家同士で話が通る相手で、釣り合いも取れていた。勝手に見つけたわけではない」
私は小さく息を吐いた。
やっぱりね。
そう返されることを想像できていた自分が、少しだけ寂しかった。
「……お父様。お姉様の持参金が足りないのでしたら、私の分をそちらへお回しください」
父の表情が、わずかに動く。
「その代わり――私の持参金は、私が自分で用意します」
父は私の顔を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……よかろう」
私は父を見返した。
「お前がそこまで言うなら、自分の持参金を自分で用意すること自体は止めん」
「……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
父はもう何も言わなかった。
ただ、閉じた収支帳の上に置いた指先だけが、わずかに机を叩いた。
私は一礼して、静かに部屋を辞した。
部屋を出ると、廊下の柱にもたれるようにして兄が立っていた。
「お兄様……」
「聞こえたぞ」
兄は鼻で笑った。
「持参金を自分で用意する、だって? ずいぶん大きく出たな」
「何か問題でもありますか?」
「問題だらけだろう」
兄は柱から背を離し、ゆっくりとこちらへ向き直った。
「家の金で始めた話だ。それを自分の持参金にするなんて、都合のいい理屈が通ると思っているのか」
「では、お兄様は私の持参金を用意してくださるのですか?」
兄は一瞬だけ黙り、それから薄く笑った。
「用意するかどうかは別の話だ」
私は兄をじっと見つめ、返事を待った。
「……お前は、金貨を少し積めたからといって、勘違いしている」
「お答えになっていません」
兄は私を睨んだまま、すぐには答えなかった。
やがて、舌打ちまじりに言う。
「……少なくとも、お前が勝手に抱え込む話ではない」
「つまり、用意はしてくださらないのですね」
「そういう言い方をするな」
「違いますか。……お答えください、お兄様」
兄は何か言い返しかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
「……あまり勝手な真似をするなよ」
「失礼いたします、お兄様」
私は一礼し、兄の脇を静かに通り過ぎた。
◆
馬車が緩やかに速度を落としたとき、私は窓の外へそっと目を向けた。
見えてきた屋敷は、グラーフ伯爵家のような古い重厚さとはどこか違っていた。
門柱には金の縁取りが施され、道の両脇には低く刈り込まれた木々と、年数の浅そうな若木が並んでいる。庭園は隙なく美しく整えられていた。
――新しい。そして豪華だ。
馬車が正面玄関前へ回り込む。
屋敷は三階建てで、中央だけが柱廊になっている。白い壁は陽を受けて眩しく、石材や窓枠の意匠にも華やかさがあった。
私は膝の上の実務者会の招待状へ、もう一度目を落とす。
――ハーゼルベルク。
どこかで耳にした名だと思ったが、今は思い出す余裕がなかった。
「お嬢様、到着いたしました」
御者の声に、私は小さく息を吐いた。
先に降りた従者が扉を開ける。
私は裾を乱さないよう気をつけながら、馬車を降りた。
玄関前には、すでに何台もの馬車が止まっていた。扉板に描かれた紋章も、従者たちの衣服もそれぞれ異なり、いくつもの家から客が集まっているのが分かる。
――いつもの集まりより、ずっと規模が大きい。
玄関扉の前には、濃紺の上着を着た執事が控えていた。
「ようこそお越しくださいました。リュークハルト家のエリナ様でいらっしゃいますね」
「はい。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「お待ちしておりました。会場は二階の大広間でございます。本日は軽食もご用意しておりますので、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
案内に従って、屋敷の中へ入る。
床には白い大理石が敷かれ、大階段の手すりには金色の飾りが目立つ。壁には大きな風景画が等間隔に掛けられていた。
執事が広間の扉を静かに開いた。
途端に、光と声と人の熱が流れ込んでくる。
高い天井から大きな硝子灯が吊られ、白いクロスをかけた長卓がいくつも並んでいる。壁際には軽食と茶器が整然と並べられていた。
中央では若い貴族たちがいくつもの輪を作り、笑みを交わしている。
いつもの実務者会より、社交の色が濃い気がした。
私は足を踏み入れる前に、そっと広間を見渡す。
――あの人は、まだ来ていないようだ。
胸の奥で張っていたものが少しだけ緩み、私は気づかれないよう小さく息をついた。
そのとき。
「エリナ嬢?」
不意に、すぐ傍から声がかかった。
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