第1話
私はその日の報告書を終えると、自室で裁縫箱を開いた。
膝の上に広げたのは、姉から譲られたドレスだ。
裾や胸元についた金糸の縁取り、細かなレース、重ねられた小さな飾り布を、指先で糸をほどきながら、ひとつずつ丁寧に外していく。
――あなたは線が綺麗。
ふいに、グラーフ伯爵夫人の言葉が胸によみがえった。
「少し手直しして、次の夜会にも着ていけるようにしないと……」
独り言のように呟き、外した装飾を脇へ寄せる。
侍女に詰めるのを手伝ってもらえれば、私にも似合う形へ直せるかもしれない。
ふと視線を上げると、クローゼットの奥が目に入った。
「……似合うドレスは……」
あの人から頂いたものばかりだ。
実務者会に誘われるたび、用意された装い。
「甘えてばかりじゃだめよね。それに……」
ドレスは、それだけでは足りない。
これから夜会に出る頻度は増える。
商談のために。
そしてこの先、家を出るために。
思わず、くすりと笑いがこぼれた。
「令嬢のすることじゃないわよね……」
そう口にしてから、私は小さく頭を振る。
針を持ち直し、布へそっと落とす。
窓辺に残るわずかな光を頼りに、私はひと針ずつ縫い進めた。
◆
その日、私は干し林檎を卸している酒場へ立ち寄った。
昼前の店内はまだ静かで、卓を拭いていた主人がこちらに気づいて顔を上げる。
「おや、お嬢さん。今日はどうしたんだい」
「前にお話しした、干し林檎とチーズの組み合わせはどうでしたか?」
「ああ、あれか。悪くなかったよ。腹にたまるし、酒にも合う。常連の何人かは気に入っていたな」
「それならよかったです」
私は少しだけ息をつき、それから持ってきた包みを卓へ置いた。
「今日は、もうひとつ試していただきたいものがありまして」
包みを開き、小皿へ薄く切った塩干し林檎を載せる。
「それは?」
「干し林檎に塩をまぶしてみました。酸味の強い林檎で作ったものなので、甘いおやつというより、口直しや酒のつまみ向きかと思いまして」
「ほう」
主人は一枚つまみ、しばらく噛んでから眉を上げた。
「……これは、いつものとはまるで違うな」
「はい。甘い干し林檎には向かない実を使っています」
「なるほど。たしかに、こっちは酒に合いそうだ。甘いだけのものより、手が伸びる客もいるだろうな」
「お試しで構いませんので、少し置いていただけませんか」
「少しならな。誰にでも売れる味じゃないが、好きな客はつきそうだ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
もともと、甘い干し林檎には向かない実で作ったものだ。
それでも置いてもらえるなら、十分ありがたい。
そう思えたところで、私は次の商談先へ向かった。
到着したのは、領地周辺の商会だった。
実務者会で挨拶を交わした商人が営む商会だ。
庶民向けの品も広く扱っていると聞き、あらかじめ書状を送り、時間をいただいていた。
応接用の卓へ案内されると、ほどなくして相手が姿を見せた。
「お久しぶりです。お時間をいただき、ありがとうございます」
「いえいえ。わざわざどうされました?」
私は持ってきた籠を卓の上に置き、包み布を開いた。
中から小さな瓶を取り出す。
「本日は、こちらを見ていただきたくて参りました」
瓶の蓋を開けると、干し林檎を煮詰めたやわらかな香りが立つ。
「庶民向けの干し林檎ジャムです」
相手は瓶へ視線を落とした。
「あの干し林檎を?」
「はい。甘みは林檎由来ですので、やさしい味に仕上がっております」
小皿へ少量よそい、差し出す。
商人は匙でひと口すくい、静かに味を確かめた。
「……なるほど。ただの林檎ジャムとは少し違いますね」
「干してから煮ていますので、普通のジャムより果肉の感じが残りやすいのです。香りも少し濃く出るかと」
「たしかに。これは食べやすい」
ほっとしそうになるのを抑え、私は続けた。
「甘みの強い干し林檎を使っておりますので、砂糖はやや控えめです。そのぶん、価格も抑えやすくなっております」
商人はもうひと口だけ口に運び、今度は確かめるように頷いた。
「甘すぎないのがいいですね。毎日食べるなら、このくらいの方を好む者もいるでしょう」
「はい。食卓に置きやすいものを目指しました」
「悪くない。黒パンに添えてもよさそうだ」
胸の奥で、小さく息をつく。
「……どうでしょうか。少量からでも置いていただけるとありがたいのですが」
「そうですね。まずは条件を詰めましょう」
「本当ですか。ありがとうございます」
その後、納める数や価格、瓶の大きさについて、しばらく条件を詰めた。
商談がひと段落したところで、私は籠の脇に寄せていた小さな包みへそっと手を伸ばした。
「あと……もしよろしければ、こういう添え方もできないかと思いまして」
差し出したのは、小さなリボンの髪飾りだった。
商人はそれを手に取り、指先で軽く返して眺める。
「へえ。おまけですか」
「はい。もともとドレスについていた装飾を外したものです。数は多くありませんが、贈り物向けや、子どものいるお家には喜ばれるのではないかと思いまして」
「面白いですね。こういうものは、案外子どもが覚えます。うちの娘も喜びそうだ」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「娘さんがいらっしゃるのですね」
「ええ。まだ小さいですが、こういう飾りは目ざとく見つけますよ」
「……でしたら、よろしければ」
私は包みの中からひとつ選び、卓の上へそっと置いた。
続けて、小さな瓶もひとつ差し出す。
「試しにお持ちください」
「これは……よろしいのですか」
「はい。本日お時間をいただいたお礼です」
商人は一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「では、ありがたく。娘が喜びそうです」
「そうでしたら、うれしいです」
応接を辞して商会の外へ出る。
昼の光は明るく、行き交う荷馬車の音が石畳を震わせていた。
「子どもか……」
私は籠を抱え直し、ひとり小さく息を吐いた。




