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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十一章

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第1話

私はその日の報告書を終えると、自室で裁縫箱を開いた。


膝の上に広げたのは、姉から譲られたドレスだ。


裾や胸元についた金糸の縁取り、細かなレース、重ねられた小さな飾り布を、指先で糸をほどきながら、ひとつずつ丁寧に外していく。


――あなたは線が綺麗。


ふいに、グラーフ伯爵夫人の言葉が胸によみがえった。


「少し手直しして、次の夜会にも着ていけるようにしないと……」


独り言のように呟き、外した装飾を脇へ寄せる。


侍女に詰めるのを手伝ってもらえれば、私にも似合う形へ直せるかもしれない。


ふと視線を上げると、クローゼットの奥が目に入った。


「……似合うドレスは……」


あの人から頂いたものばかりだ。


実務者会に誘われるたび、用意された装い。


「甘えてばかりじゃだめよね。それに……」


ドレスは、それだけでは足りない。


これから夜会に出る頻度は増える。

商談のために。

そしてこの先、家を出るために。


思わず、くすりと笑いがこぼれた。


「令嬢のすることじゃないわよね……」


そう口にしてから、私は小さく頭を振る。


針を持ち直し、布へそっと落とす。


窓辺に残るわずかな光を頼りに、私はひと針ずつ縫い進めた。



その日、私は干し林檎を卸している酒場へ立ち寄った。


昼前の店内はまだ静かで、卓を拭いていた主人がこちらに気づいて顔を上げる。


「おや、お嬢さん。今日はどうしたんだい」


「前にお話しした、干し林檎とチーズの組み合わせはどうでしたか?」


「ああ、あれか。悪くなかったよ。腹にたまるし、酒にも合う。常連の何人かは気に入っていたな」


「それならよかったです」


私は少しだけ息をつき、それから持ってきた包みを卓へ置いた。


「今日は、もうひとつ試していただきたいものがありまして」


包みを開き、小皿へ薄く切った塩干し林檎を載せる。


「それは?」


「干し林檎に塩をまぶしてみました。酸味の強い林檎で作ったものなので、甘いおやつというより、口直しや酒のつまみ向きかと思いまして」


「ほう」


主人は一枚つまみ、しばらく噛んでから眉を上げた。


「……これは、いつものとはまるで違うな」


「はい。甘い干し林檎には向かない実を使っています」


「なるほど。たしかに、こっちは酒に合いそうだ。甘いだけのものより、手が伸びる客もいるだろうな」


「お試しで構いませんので、少し置いていただけませんか」


「少しならな。誰にでも売れる味じゃないが、好きな客はつきそうだ」


その言葉に、私は小さく頷いた。


もともと、甘い干し林檎には向かない実で作ったものだ。

それでも置いてもらえるなら、十分ありがたい。


そう思えたところで、私は次の商談先へ向かった。


到着したのは、領地周辺の商会だった。


実務者会で挨拶を交わした商人が営む商会だ。

庶民向けの品も広く扱っていると聞き、あらかじめ書状を送り、時間をいただいていた。


応接用の卓へ案内されると、ほどなくして相手が姿を見せた。


「お久しぶりです。お時間をいただき、ありがとうございます」


「いえいえ。わざわざどうされました?」


私は持ってきた籠を卓の上に置き、包み布を開いた。

中から小さな瓶を取り出す。


「本日は、こちらを見ていただきたくて参りました」


瓶の蓋を開けると、干し林檎を煮詰めたやわらかな香りが立つ。


「庶民向けの干し林檎ジャムです」


相手は瓶へ視線を落とした。


「あの干し林檎を?」


「はい。甘みは林檎由来ですので、やさしい味に仕上がっております」


小皿へ少量よそい、差し出す。


商人は匙でひと口すくい、静かに味を確かめた。


「……なるほど。ただの林檎ジャムとは少し違いますね」


「干してから煮ていますので、普通のジャムより果肉の感じが残りやすいのです。香りも少し濃く出るかと」


「たしかに。これは食べやすい」


ほっとしそうになるのを抑え、私は続けた。


「甘みの強い干し林檎を使っておりますので、砂糖はやや控えめです。そのぶん、価格も抑えやすくなっております」


商人はもうひと口だけ口に運び、今度は確かめるように頷いた。


「甘すぎないのがいいですね。毎日食べるなら、このくらいの方を好む者もいるでしょう」


「はい。食卓に置きやすいものを目指しました」


「悪くない。黒パンに添えてもよさそうだ」


胸の奥で、小さく息をつく。


「……どうでしょうか。少量からでも置いていただけるとありがたいのですが」


「そうですね。まずは条件を詰めましょう」


「本当ですか。ありがとうございます」


その後、納める数や価格、瓶の大きさについて、しばらく条件を詰めた。


商談がひと段落したところで、私は籠の脇に寄せていた小さな包みへそっと手を伸ばした。


「あと……もしよろしければ、こういう添え方もできないかと思いまして」


差し出したのは、小さなリボンの髪飾りだった。


商人はそれを手に取り、指先で軽く返して眺める。


「へえ。おまけですか」


「はい。もともとドレスについていた装飾を外したものです。数は多くありませんが、贈り物向けや、子どものいるお家には喜ばれるのではないかと思いまして」


「面白いですね。こういうものは、案外子どもが覚えます。うちの娘も喜びそうだ」


その言葉に、私は思わず顔を上げた。


「娘さんがいらっしゃるのですね」


「ええ。まだ小さいですが、こういう飾りは目ざとく見つけますよ」


「……でしたら、よろしければ」


私は包みの中からひとつ選び、卓の上へそっと置いた。

続けて、小さな瓶もひとつ差し出す。


「試しにお持ちください」


「これは……よろしいのですか」


「はい。本日お時間をいただいたお礼です」


商人は一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと笑った。


「では、ありがたく。娘が喜びそうです」


「そうでしたら、うれしいです」


応接を辞して商会の外へ出る。


昼の光は明るく、行き交う荷馬車の音が石畳を震わせていた。


「子どもか……」


私は籠を抱え直し、ひとり小さく息を吐いた。

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