第8話
「……ほ、ほほ……」
引きつった笑みが、勝手に顔へ張りつく。
部屋で一人、書類に向かっている時間が長いせいで、独り言が癖になっていたらしい。
今だけは、それが恨めしい。
「はは、堅実なお考えですな」
「若い方らしい着眼点だ」
「理想としては、ですな」
男たちが揃って軽く笑った。
その空気の中で――
「……つまり?」
伯爵が杯を置き、こちらを見る。
「え……あ……」
言葉が、すぐに出てこない。
「……その、使えなくなってから直すと、その年の備蓄ごと失ってしまうので……毎年、少しずつ積み立てておけば……と……」
「なるほど」
伯爵はそれだけ言うと、再び男たちへ視線を戻した。
胸の奥が、じわりと重くなる。
私はグラスを持ち直し、気配を消すように、そっと壁際へ下がった。
グラスの中で揺れる液体を見つめていると――
「――先ほどの話だが」
声がして、思わず顔を上げる。
倉庫の話をしていた男の一人が、いつの間にかすぐ近くに立っていた。
背が高いため、顔より先に服が目に入る。
濃紺の上着には、襟と袖口に鈍い銀糸で細い刺繍が施されていた。飾り気は少ないが、生地も仕立ても上等なものだとひと目で分かる。
「毎年積み立てて、突然の出費に備えると」
「……はい」
男は少し考えるように、手にした杯へ視線を落とした。
「それだけか」
――それだけ?
私が何日も頭を悩ませて考えた案なのに……。
「それだけではありません」
気づけば、口が先に動いていた。
「積み立てと並行して、商人倉庫との長期契約で備蓄の一部を外へ移す方法や、傷みの激しい区画から段階的に建て替える方法もあります。一度にすべてを建て直す必要は――」
「分かった」
男が短く遮った。
「そこまで考えているなら、悪くない」
それだけ言うと、男は踵を返した。
「……なに、それ」
思わず、小さく呟く。
自分から聞いてきたくせに、最後まで聞こうともしないなんて。
私はぎゅっとグラスを握り、壁際で小さく息を吐いた。
そのとき。
「――熱心に話されていましたね」
不意に、落ち着いた声がした。
はっとして顔を上げると、伯爵が数歩離れた場所に立っていた。
「聞いていましたよ。今の話」
「あ……」
「毎年の積み立てに、商人倉庫との契約、段階的な建て替え。先ほど口にされた案より、ずっと具体的でした」
思わず、胸の奥が温かくなる。
「ですが……夜会で話すには、少し長すぎましたね」
「あ……」
伯爵は、先ほどまで男たちが立っていた場所へ目を向けた。
「彼らは今夜、倉庫の方針を決めるつもりで話していたわけではありません。酒の席の話題として、軽く意見を交わしていただけです」
「……はい」
「そこへ具体的な案を出されれば、すぐに答えられず、困る者もいるでしょう」
私は俯いたまま、小さく頷いた。
「あなたの話が悪かったわけではありません。腰を据えて考える場ではなかった。それだけです」
「……すみません……」
「しょんぼりする必要はありませんよ」
顔を上げると、伯爵と視線が合った。
「話す場所を間違えただけです。考えまで間違っているわけではない」
「……ありがとうございます」
「また、話す機会はあります」
伯爵は穏やかに微笑んだ。
「そのときは、きちんと腰を据えて聞きましょう」
その言葉を残し、伯爵は若い貴族たちの輪へ戻っていった。
私は一人、広間に残された。
◆
屋敷へ戻ると、玄関の明かりがまだ点いていた。
「……やっと帰ってこられた……」
重い足を引きずるように廊下を進む。
このまま部屋へ直行するつもりだったのに――
「お、帰ったのか」
声に呼び止められた。
居間では、兄が一人、ソファに腰掛けていた。書簡を片手に、くつろいだ様子だった。
「おかえり」
「……ただいま」
兄の視線が、私の服に止まった。
「ん? どうしたんだ、その服。姉さんのじゃないよな」
「……夜会で、ドレスを汚してしまって。伯爵夫人にお借りしたの」
「ああ、なるほどな」
兄は納得したように軽く頷く。
「よかったじゃないか。それなら、浮かなかっただろ」
笑いながら、続ける。
「お前に合ってなかったもんな。姉さんのドレス」
「……え?」
思わず聞き返していた。
「だって、可哀想だろ?」
兄は肩をすくめる。
「夜会へ行く前に言ったら、余計に気にすると思ってさ」
「……だったら」
言いかけた言葉は、途中で止まった。
兄はすでに興味を失ったように、書簡へ視線を戻している。
「まあ、結果オーライだろ」
それ以上、兄は何も言わなかった。
私も口を閉ざし、そのまま居間を出る。
静かな廊下を歩きながら、姉の部屋へ目を向けた。
扉は閉じたままで、部屋の前にも人の気配はない。
まだ夜会から戻っていないようだ。
「……今のうちに着替えよう」
姉が戻れば、残っている使用人も出迎えや後片づけに取られてしまう。今なら、背中の紐をほどくくらいは誰かに頼めるはずだ。
自室へ向かいながら、灰青色の裾をそっと持ち上げる。
「明日、手入れを頼んで、早くお返ししないと……」
借りたドレスだけを返して終わりというわけにもいかない。お礼の書状と、何か品物を添えた方がいいはずだ。
「普通は、こういうとき何を贈るんだろう……」
ヴァルクレイン伯爵家に贈って見劣りしない品など、すぐには用意できそうにない。
しばらく考えながら歩き、私は小さく頷いた。
「領地の品から、失礼にならないものを選ぼう……」
最後まで独り言を呟きながら自室へ入り、扉を閉めた。
第一章、ここで終わりです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
※本作の番外編として、短編を公開しています。
本編とは登場人物と視点が異なりますが、同じ世界観を背景にした話です。
「選ばれなかった母娘」
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