第7話
早く帰るつもりだったのに。
夫人に連れられて広間へ戻り、今なら令嬢たちの輪にも入れるかもしれないと、少しだけ期待してしまった。
その結果が、これだ。
「急に賑やかなところへ連れてきてしまいましたね。無理に話さなくても大丈夫ですよ」
伯爵が、穏やかに声をかけてくる。
「は……はい……」
まだ熱の引かない頬を隠すように、私は小さく頭を下げた。
「早々にお騒がせしてしまい、申し訳ございません。それに、ドレスまで……」
「お気になさらず。夜会では、よくあることですよ」
「……ありがとうございます」
ほどなく、若い貴族たちの会話が再び動き出した。
私は輪の端に立ったまま、その声をぼんやりと聞いていた。
ちらりと、伯爵の横顔を見る。
伯爵から届く書簡には、必要な数量や期限、費用の分担まで、いつも具体的に記されていた。
凶作の年には、祝い事に使う酒や菓子の注文を減らしてでも、領民へ回す穀物を確保したいと書かれていたこともある。
書類から受けていた印象と、目の前の伯爵の姿が重なる。
穏やかで、誰かを見下すようなところがない。
――うん。この方なら。
私はおずおずと、声を落とした。
「あの……実は私、今日が初めての夜会で……どう過ごせばいいのか、分からなくて……」
「ん?」
言った途端、少しだけ後悔する。
初心者の面倒まで見てほしいと言っているように聞こえなかっただろうか。
けれど、伯爵は困った顔をしなかった。
「それなら、なおさら簡単ですよ」
伯爵は若い貴族たちが話す様子へ目を向けたまま、続ける。
「今は、ここに立っていればいいのです。話の内容が分からなくても、相槌を打てなくても問題ありません」
そう言って、周囲を示すように視線を巡らせた。
「夜会というのは、話すためだけの場ではありません。誰と一緒にいるのかを、周囲へ見せる場でもありますから」
「み、見せる……?」
思わず、自分のドレスへ視線を落とす。
さっきまでの私、見せられる状態ではなかったよね……。
そんな不安を見透かしたように、伯爵は言葉を重ねた。
「妻があなたを連れて歩き、ここまで案内した。それだけで、今夜あなたが当家の客として扱われていることは、皆に伝わっています」
にこりと微笑む。
「あとは、無理をしないことです。その方が、かえって目立ちませんよ」
「……なるほど」
胸の奥へ、ゆっくりと納得が落ちていく。
少しだけ落ち着きを取り戻し、周囲へ視線を向けた。
少し離れたところでは、令嬢たちの輪が弾んでいた。
「まあ、《春告げの庭》をご覧になったの?」
「ええ。新作と聞けば、初日に見ておかないと落ち着きませんもの」
「わたくしは来週、王立楽団の演奏会へ参りますの」
「素敵。指揮者が代わってから、随分評判がよろしいそうですわね」
いいな……。
楽しそうに話している。
私には、どこで相槌を打てばいいのかすら分からない。
別の令嬢が、隣に立つ女性のドレスへ目を向けた。
「そのドレス、初めて拝見しますわ」
「ありがとうございます。母が選んでくれましたの」
「……まあ、まだお母様がお選びになるのね」
「とても仲がよろしいこと」
……どうしてだろう。
何か、間があったような。
「最近は、どちらの夜会へ?」
「実は、まだあまり……」
「あら、そうですの。これから楽しみですね」
相手は笑顔を崩さなかったが、次の瞬間には身体をわずかに横へ向け、別の令嬢へ話しかけている。
会話は続いているのに、その輪へ入る隙が少しずつ閉じていく。
「あれ……」
何がいけなかったのだろう。
夜会へあまり出ていないと答えただけなのに。
……入りづらいな。
あの輪へ足を踏み入れたら、どんなドレスを持っているのかまで、全部見られてしまいそうだ。
私はそっと視線を逸らした。
反対側では、男女の混じった輪ができていた。
「今日は、人が多いですわね」
「春先ですから。新しい顔と知り合うには、ちょうどよい時期なのでしょう」
「確かに。冬は移動も大変ですものね」
――あ。普通に会話している。
こちらなら、少しは話せるかもしれない。
私はそっと身体の向きを変え、聞き入った。
「最近は、お忙しい方が多いですわね」
「ええ。家の都合に加えて、仕事も重なっておりますので」
令嬢が首を傾げる。
「普段は王都にお住まいなのですか?」
「ここ数年は。勤めの都合で」
その瞬間、令嬢たちの目の色が、わずかに変わった気がした。
「そうでしたの」
「では、ご家族と夜会へ出られるのも久しぶりですか?」
「ええ、まあ……」
住まいのことを聞いていたと思ったら、今度は家族の話になっている。
世間話じゃなかったのかな……。
私は、無意識にグラスを持ち替えた。
それぞれの輪を眺めているうちに、自分だけが少し外側に立っているような気がしてくる。
視線を戻すと、先ほどの若い貴族たちが低い声で話し続けていた。
「今年も、北区の穀物倉について報告が上がってきました。床板の一部が、また腐っているそうです」
「去年も修繕したはずでしょう?」
「傷んだ部分だけを取り替えたようです。基礎から直したわけではありませんから」
「では、今年も応急処置でよいのでは? 来年は収穫量も増える見込みですし」
誰かがそう言うと、数人が軽く笑って頷いた。
「収穫量が増えるなら、なおさら倉庫が必要になるでしょう」
「その間だけ、商会の倉庫を借りればよいのです。保管料はかかりますが、今すぐ大金を出さずに済みます」
「運搬中の盗難や目減りは?」
「多少なら仕方ありますまい。倉庫の中で腐らせるよりは、よほどましです」
その言葉に、誰かが肩をすくめて杯を傾けた。
……確かに、そうだけど。
私は無意識に、指先を組んだ。
倉庫が使えなくなってから直すのでは遅い。
収穫の時期と重なれば、保管場所を探している間に、その年の備蓄まで失ってしまうかもしれない。
「とはいえ、建て替えともなれば、今すぐそんな金は出せませんしな」
「余裕があるなら、最初から直しているでしょう?」
私は小さく頷いた。
「……そうそう。だから、毎年少しずつ積み立てておけば――」
言ってから、はっとする。
しまった。
声が、思ったよりも大きく出ていた。
若い貴族が一人、ゆっくりとこちらを振り向く。
続いて、もう一人。
「……?」
次々と視線が集まり、頬が熱くなる。
「……っ、す、すみません……」
声が、喉で止まった。




