第6話
周囲が、わずかにざわめいた。
何人もの視線が、こちらへ向けられている気がする。
――まずい。
染みのついたドレスで、会場の真ん中に突っ立っている。この目立ち方では、主催者である伯爵夫人にも迷惑がかかってしまう。
私はそっとグラスを近くのテーブルへ置いた。
深呼吸を一つしてから、近くにいた使用人へ小さく声をかける。
「すみません……少し、控え室をお借りできますか」
使用人は私のドレスへ視線を落とすと、すぐに小さく頷いた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
さすが、伯爵家の使用人。何も説明していないのに、察するのが早い。
私は周囲の視線から逃げるように、その後をついていった。
◆
「どうしよう……」
案内された小さな控え室で、私は濡らした布を染みに押し当てていた。
こぼれた飲み物は、胸元の細かな刺繍にまで染み込んでいる。何度か布で押さえてみたけれど、薄くなる気配はなかった。
強く擦れば、生地や刺繍を傷めてしまう。
「うう……お古とはいえ、上等なドレスなのに……」
このままでは広間へ戻れない。
そこで、ふと思いつく。
「これを理由に、帰れたり――」
「その染みは、ここでは取れないでしょうね」
突然声がして、私は勢いよく顔を上げた。
いつの間に入ってきたのか、伯爵夫人が扉の前に立っていた。
夫人は私の胸元をひと目見ると、眉を寄せる。
「果実酒ね。刺繍の間にまで入っているわ」
「は、はい……」
私は慌てて立ち上がった。
「申し訳ございません。これ以上ご迷惑をおかけする前に、今日は失礼させて――」
「帰る必要はないわ」
「え……?」
「控え室に、夜会の最中の事故に備えたドレスがあるの。あなたなら、紐を調整すれば着られるでしょう」
「ですが、そこまでしていただくわけには……」
伯爵夫人は私の顔をまっすぐ見た。
「主催者としての判断よ」
「……」
「招いた客が、汚れたドレスのまま帰ることになれば、こちらの不手際だと思われるわ」
「も、申し訳ございません……」
「謝る必要はないでしょう。ぶつかったのは、あなたではないのだから」
そう言ってから、夫人は改めて私のドレスを眺めた。
「それに、そのドレス……布は悪くないけれど、色も形もあなたに合っていないわ」
夫人は扇子の先で、胸元の銀糸の刺繍を示した。
「華やかな色も、細かな飾りも、あなた自身を埋もれさせている。装いばかりが先に目に入って、顔がまったく印象に残らないの」
改めて人に言われると、やっぱりそうなのだと納得してしまう。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「場に馴染まない装いをしていれば、それだけで疲れるでしょう」
「……はい」
「着替えたら、私のところへ来なさい」
夫人は控えていた侍女へ目配せをした。
「この方を、奥の控え室へ。灰青色のドレスがあったでしょう」
「かしこまりました」
私は慌てて頭を下げる。
「……ご配慮、ありがとうございます」
「礼はあとでいいわ。まずは落ち着きなさい」
◆
案内された奥の控え室は、先ほどの部屋よりもずっと広かった。
長椅子や化粧台が置かれ、壁際には衣装を掛けるための衝立が並んでいる。窓際には花まで飾られていたけれど、豪華すぎて、かえって落ち着かない。
「こちらになります」
侍女が衣装箱を開け、中から一着のドレスを取り出した。
淡い灰青色のドレスだった。
光を強く跳ね返すような派手な生地ではない。柔らかな艶があり、持ち上げた裾が滑らかに落ちていく。
胸元にも裾にも、目立つ装飾はほとんどなかった。細い銀糸で縁取りが施されているだけだ。
「伯爵夫人がお選びになりました」
「素敵ですね……」
声が、勝手に漏れた。
「お召し替えをお手伝いいたします」
侍女はそう言って、ためらいなく私の背後へ回る。
留め具を外し、汚れたドレスを受け取る動きは、驚くほど手際がよかった。
新しいドレスに袖を通すと、背中の紐が丁寧に締められていく。
「苦しくありませんか」
「……大丈夫です」
最後に腰の位置を調整され、鏡の前へ案内された。
映った自分を見て、思わず息を呑む。
「わぁ……」
胸元はすっきりしていて、飾りが身体から浮いて見えない。柔らかな灰青色が肌に馴染み、肩や腰の線も自然に見えた。
さっきまでの、借り物の服に埋もれていた私とは違う。ドレスを変えただけで、こんなにも印象が変わるなんて。
すると、侍女が私の顔を見て、小さく首を傾げた。
「失礼いたします」
「?」
返事をする間もなく、頬へ柔らかな刷毛が触れた。
次に、唇へ薄く紅が重ねられる。
「ええっ……」
「お色を少し整えるだけです」
鏡に映る唇は、先ほどよりも落ち着いた色になっていた。ドレスとも自然に馴染んでいる。
侍女は私の髪から大きな飾りを外すと、櫛で形を整え、小さな銀色の留め具へ付け替えた。
「こちらの方がよろしいかと」
「そこまでしていただいて……」
「伯爵夫人のご指示ですので」
侍女は、それが当然であるかのように手を動かし続けた。
鏡の前で、まだ少し戸惑っていると――
「仕上がったようね」
背後から声がした。
振り返ると、伯爵夫人が扉のそばに立っていた。
夫人は私の頭の先から足元までをゆっくりと眺める。
「……ええ。やはり、この色ね」
満足そうに扇子を閉じた。
「あなたには、派手な色も、光る布も、余計な装飾も必要ないわ」
視線が、ドレスの線をなぞるように下りていく。
「立ち姿がすっきりしているのだから、飾り立てるより、こちらの方がずっときれいに見える」
私はどう答えればいいか分からず、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
伯爵夫人は、少しだけ口元を緩めた。
「礼はいいわ。これは主催者の責任よ」
そう言って、くるりと踵を返す。
「さあ、行きましょう」
「……え?」
「控え室に隠れている必要はないでしょう。今のあなたなら、十分に広間へ戻れるわ」
私は一瞬、目を瞬かせた。
夫人は扉の前で振り返る。
「私の隣を歩きなさい」
「……はい」
一拍遅れて頷き、その後を追いかけようとしたときだった。
伯爵夫人が、ふと足を止める。
「確認するわ。夜会は、今日が初めて?」
一瞬言葉に詰まり、正直に答えた。
「……はい」
「人前に出ることにも、慣れていないわね」
「そうです……」
夫人はそれ以上何も言わず、再び歩き出した。
沈黙に耐えきれず、私は口を開く。
「……年上の方や、領民と話すことには慣れているんですけど……」
言ってから気づいた。
――あ。言わなければよかった。
伯爵夫人は眉一つ動かさなかった。
「そう」
それだけだった。
気まずくなり、私は少し肩をすくめたまま、黙って後をついていった。
◆
広間へ戻った瞬間、周囲の空気がふっと変わった。
視線が集まっているが、先ほどとは明らかに違った。
「……?」
夫人の隣を歩くたび、小さな声が断片的に耳へ入ってくる。
「……あの方、先ほどの……」
「雰囲気が随分違わない?」
「控えめだけれど、上品ね」
「夫人がお選びになったのかしら」
――え。
思わず足が止まりそうになる。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
もちろん、伯爵夫人のおかげだ。それでも、先ほどまで感じていた居心地の悪さが、少しだけ薄れている。
ふと視線を向けると、華やかな令嬢たちの輪が見えた。
淡い桃色や鮮やかな緑のドレス。軽やかな笑顔を浮かべ、慣れた仕草でグラスを掲げている。
私も今なら、あの中に――
「こちらよ」
伯爵夫人の声に、慌てて前を向く。
夫人が向かったのは、広間の一角だった。
数人の若い貴族たちが集まり、その中心では、ヴァルクレイン伯爵が穏やかに話している。
伯爵夫人はその手前で立ち止まり、扇子を軽く閉じた。
「あなたは、ここ」
「……え?」
夫人はにこりと微笑む。
「こちらの方が、あなたには合うでしょう?」
伯爵がこちらへ顔を向け、目を細めた。
周囲にいた若い貴族たちも、次々と私を見る。
その輪の中に、令嬢は一人もいなかった。




