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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
一章

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第6話

周囲が、わずかにざわめいた。


何人もの視線が、こちらへ向けられている気がする。


――まずい。


染みのついたドレスで、会場の真ん中に突っ立っている。この目立ち方では、主催者である伯爵夫人にも迷惑がかかってしまう。


私はそっとグラスを近くのテーブルへ置いた。


深呼吸を一つしてから、近くにいた使用人へ小さく声をかける。


「すみません……少し、控え室をお借りできますか」


使用人は私のドレスへ視線を落とすと、すぐに小さく頷いた。


「かしこまりました。こちらへどうぞ」


さすが、伯爵家の使用人。何も説明していないのに、察するのが早い。


私は周囲の視線から逃げるように、その後をついていった。



「どうしよう……」


案内された小さな控え室で、私は濡らした布を染みに押し当てていた。


こぼれた飲み物は、胸元の細かな刺繍にまで染み込んでいる。何度か布で押さえてみたけれど、薄くなる気配はなかった。


強く擦れば、生地や刺繍を傷めてしまう。


「うう……お古とはいえ、上等なドレスなのに……」


このままでは広間へ戻れない。


そこで、ふと思いつく。


「これを理由に、帰れたり――」


「その染みは、ここでは取れないでしょうね」


突然声がして、私は勢いよく顔を上げた。


いつの間に入ってきたのか、伯爵夫人が扉の前に立っていた。


夫人は私の胸元をひと目見ると、眉を寄せる。


「果実酒ね。刺繍の間にまで入っているわ」


「は、はい……」


私は慌てて立ち上がった。


「申し訳ございません。これ以上ご迷惑をおかけする前に、今日は失礼させて――」


「帰る必要はないわ」


「え……?」


「控え室に、夜会の最中の事故に備えたドレスがあるの。あなたなら、紐を調整すれば着られるでしょう」


「ですが、そこまでしていただくわけには……」


伯爵夫人は私の顔をまっすぐ見た。


「主催者としての判断よ」


「……」


「招いた客が、汚れたドレスのまま帰ることになれば、こちらの不手際だと思われるわ」


「も、申し訳ございません……」


「謝る必要はないでしょう。ぶつかったのは、あなたではないのだから」


そう言ってから、夫人は改めて私のドレスを眺めた。


「それに、そのドレス……布は悪くないけれど、色も形もあなたに合っていないわ」


夫人は扇子の先で、胸元の銀糸の刺繍を示した。


「華やかな色も、細かな飾りも、あなた自身を埋もれさせている。装いばかりが先に目に入って、顔がまったく印象に残らないの」


改めて人に言われると、やっぱりそうなのだと納得してしまう。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


「場に馴染まない装いをしていれば、それだけで疲れるでしょう」


「……はい」


「着替えたら、私のところへ来なさい」


夫人は控えていた侍女へ目配せをした。


「この方を、奥の控え室へ。灰青色のドレスがあったでしょう」


「かしこまりました」


私は慌てて頭を下げる。


「……ご配慮、ありがとうございます」


「礼はあとでいいわ。まずは落ち着きなさい」



案内された奥の控え室は、先ほどの部屋よりもずっと広かった。


長椅子や化粧台が置かれ、壁際には衣装を掛けるための衝立が並んでいる。窓際には花まで飾られていたけれど、豪華すぎて、かえって落ち着かない。


「こちらになります」


侍女が衣装箱を開け、中から一着のドレスを取り出した。


淡い灰青色のドレスだった。


光を強く跳ね返すような派手な生地ではない。柔らかな艶があり、持ち上げた裾が滑らかに落ちていく。


胸元にも裾にも、目立つ装飾はほとんどなかった。細い銀糸で縁取りが施されているだけだ。


「伯爵夫人がお選びになりました」


「素敵ですね……」


声が、勝手に漏れた。


「お召し替えをお手伝いいたします」


侍女はそう言って、ためらいなく私の背後へ回る。


留め具を外し、汚れたドレスを受け取る動きは、驚くほど手際がよかった。


新しいドレスに袖を通すと、背中の紐が丁寧に締められていく。


「苦しくありませんか」


「……大丈夫です」


最後に腰の位置を調整され、鏡の前へ案内された。


映った自分を見て、思わず息を呑む。


「わぁ……」


胸元はすっきりしていて、飾りが身体から浮いて見えない。柔らかな灰青色が肌に馴染み、肩や腰の線も自然に見えた。


さっきまでの、借り物の服に埋もれていた私とは違う。ドレスを変えただけで、こんなにも印象が変わるなんて。


すると、侍女が私の顔を見て、小さく首を傾げた。


「失礼いたします」


「?」


返事をする間もなく、頬へ柔らかな刷毛が触れた。


次に、唇へ薄く紅が重ねられる。


「ええっ……」


「お色を少し整えるだけです」


鏡に映る唇は、先ほどよりも落ち着いた色になっていた。ドレスとも自然に馴染んでいる。


侍女は私の髪から大きな飾りを外すと、櫛で形を整え、小さな銀色の留め具へ付け替えた。


「こちらの方がよろしいかと」


「そこまでしていただいて……」


「伯爵夫人のご指示ですので」


侍女は、それが当然であるかのように手を動かし続けた。


鏡の前で、まだ少し戸惑っていると――


「仕上がったようね」


背後から声がした。


振り返ると、伯爵夫人が扉のそばに立っていた。


夫人は私の頭の先から足元までをゆっくりと眺める。


「……ええ。やはり、この色ね」


満足そうに扇子を閉じた。


「あなたには、派手な色も、光る布も、余計な装飾も必要ないわ」


視線が、ドレスの線をなぞるように下りていく。


「立ち姿がすっきりしているのだから、飾り立てるより、こちらの方がずっときれいに見える」


私はどう答えればいいか分からず、小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


伯爵夫人は、少しだけ口元を緩めた。


「礼はいいわ。これは主催者の責任よ」


そう言って、くるりと踵を返す。


「さあ、行きましょう」


「……え?」


「控え室に隠れている必要はないでしょう。今のあなたなら、十分に広間へ戻れるわ」


私は一瞬、目を瞬かせた。


夫人は扉の前で振り返る。


「私の隣を歩きなさい」


「……はい」


一拍遅れて頷き、その後を追いかけようとしたときだった。


伯爵夫人が、ふと足を止める。


「確認するわ。夜会は、今日が初めて?」


一瞬言葉に詰まり、正直に答えた。


「……はい」


「人前に出ることにも、慣れていないわね」


「そうです……」


夫人はそれ以上何も言わず、再び歩き出した。


沈黙に耐えきれず、私は口を開く。


「……年上の方や、領民と話すことには慣れているんですけど……」


言ってから気づいた。


――あ。言わなければよかった。


伯爵夫人は眉一つ動かさなかった。


「そう」


それだけだった。


気まずくなり、私は少し肩をすくめたまま、黙って後をついていった。



広間へ戻った瞬間、周囲の空気がふっと変わった。


視線が集まっているが、先ほどとは明らかに違った。


「……?」


夫人の隣を歩くたび、小さな声が断片的に耳へ入ってくる。


「……あの方、先ほどの……」


「雰囲気が随分違わない?」


「控えめだけれど、上品ね」


「夫人がお選びになったのかしら」


――え。


思わず足が止まりそうになる。


心臓が、どくんと大きく跳ねた。


もちろん、伯爵夫人のおかげだ。それでも、先ほどまで感じていた居心地の悪さが、少しだけ薄れている。


ふと視線を向けると、華やかな令嬢たちの輪が見えた。


淡い桃色や鮮やかな緑のドレス。軽やかな笑顔を浮かべ、慣れた仕草でグラスを掲げている。


私も今なら、あの中に――


「こちらよ」


伯爵夫人の声に、慌てて前を向く。


夫人が向かったのは、広間の一角だった。


数人の若い貴族たちが集まり、その中心では、ヴァルクレイン伯爵が穏やかに話している。


伯爵夫人はその手前で立ち止まり、扇子を軽く閉じた。


「あなたは、ここ」


「……え?」


夫人はにこりと微笑む。


「こちらの方が、あなたには合うでしょう?」


伯爵がこちらへ顔を向け、目を細めた。


周囲にいた若い貴族たちも、次々と私を見る。


その輪の中に、令嬢は一人もいなかった。

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― 新着の感想 ―
 前話でエリナさんにぶつかった方とグルだったのかと思いきや、この配慮……伯爵夫人の真意が未だに読めませぬ。
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