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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
一章

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第5話

馬車が、がたんと揺れた。


クッションに身を預けたまま、私はぼんやりと瞬きをする。


……そういえば。


「夜会に出るの、初めて……?」


今さらのように気づいて、言葉を失った。


私、これが社交界デビュー?


膝の上に置いた手が、きゅっと強張る。視線が自然とドレスへ落ちた。


この、不似合いなドレスで。


「どうしよう……」


招待状が届いたときは、深く考えていなかった。


少し顔を出して、挨拶を済ませたら帰ればいい。それだけの話だと思っていた。


なのに、馬車が進むたび、不安だけが膨らんでいく。


窓の外には、暮れかけた畑や林が流れていた。遠くに点在する屋敷の明かりを眺めながら、思わず小さく呟く。


「……こんなことなら、社交礼法書でも買っておくべきだった……」


何か、心を落ち着けるものが欲しかった。


鞄から招待状を取り出し、もう一度目を通す。


「ええと……今日は、ヴァルクレイン伯爵家の夜会……」


名前には見覚えがある。


領地間の取引記録や、父宛てに届いた書簡の差出人として、何度も目にしていた。


……でも、実際に会うのは初めてだ。


「挨拶だけ済ませたら、帰ろう。具合が悪くなったって言えばいい」


それくらい、許されるはずだ。


――うん……そうよね?


そう自分に言い聞かせているうちに、馬車はゆっくりと速度を落とし始めた。



馬車が止まり、扉が開いた。


御者の手を借りて外へ降りた瞬間、私は思わず息を呑んだ。


「……わ……」


目の前にそびえていたのは、うちの屋敷の倍はありそうな大邸宅だった。


白い石造りの壁にはいくつもの明かりが灯り、正面玄関へと続く階段の両側には、紋章の入った旗が並んでいる。


広い車寄せには招待客を乗せた馬車が次々と到着し、揃いの制服を着た従僕たちが扉を開けたり、客の名を確認したりと、忙しなく動き回っていた。


「ひえ……」


思わず漏れた声を、慌てて呑み込む。


すぐに一人の従僕が近づいてきた。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「エ、エリナ・フォン・リュークハルトです」


「リュークハルト男爵家のエリナ様でございますね。どうぞ、こちらへ」


差し出された手にそっと触れ、階段を上がる。


玄関を抜けると、柔らかな絨毯が敷き詰められた廊下が続いていた。踏み込んでも足音がほとんどしない。


壁は眩しいほど白く、染み一つ見当たらなかった。


……うちとは全然違う。


案内役の従僕が、広間の前で足を止める。


「リュークハルト男爵家、エリナ・フォン・リュークハルト様」


名を告げる声とともに、大きな扉が開かれた。


私は恐る恐る、中へ足を踏み入れる。


天井から下がった巨大なシャンデリアが、無数の光を放っていた。


色とりどりのドレスをまとった令嬢や夫人たちが談笑し、その間を正装した紳士たちが行き交っている。


広間の中央では、楽団の奏でる優雅な音楽に合わせ、何組もの男女が踊っていた。


甘く濃い香水の匂いが、花や酒の香りと混ざり合っている。


――これが、夜会。


背中が、ぞわりとした。


「……帰りたい」


反射的に口からこぼれ、慌てて首を振る。


だめよ、エリナ。令嬢として、それは駄目。


私はドレスの裾をそっと整え、背筋を伸ばした。


逃げ腰のままでは、余計に目立ってしまう。


視線を彷徨わせると、ほどなく会場の中心に立つ男女が目に入った。


周囲の人々が、二人の前では自然と道を空けている。


――あの方々が、ヴァルクレイン伯爵夫妻。


伯爵は穏やかな微笑みを絶やさず、周囲の会話へ静かに耳を傾けている。


一方、隣に立つ夫人は背筋をぴんと伸ばし、華やかな笑みを浮かべながらも、どこか隙のない雰囲気をまとっていた。


……ああ、なるほど。


姉が渋ったのは、この方が相手だったからなのかもしれない。


「よし……行こう」


自分に言い聞かせ、一歩を踏み出す。


歩くたび、周囲の視線が刺さるような気がした。


怯みそうになる気持ちを押し殺し、私は伯爵夫妻の前で立ち止まった。


「本日は、お招きいただきありがとうございます」


声が震えないよう、意識して言う。


「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」


どきどきしながら、相手の反応を待つ。


先に反応したのは、伯爵夫人だった。


上から下まで、一瞬ですべてを見られた気がした。


「あら、あなた……」


マルグリット・ヴァルクレイン伯爵夫人は、ふっと首を傾げる。


「お姉様は?」


胸が、きゅっと詰まった。


「本日は家の都合で姉が出られず……私が代理で参りました」


そう答えると、夫人は一瞬だけ黙った。


「そうなの……」


にこりと微笑んではいるけれど、先ほどよりも、ほんの少しだけ声の温度が下がった気がした。


「まあ、いいわ。せっかくいらしたのですもの。こちらへいらっしゃい」


夫人は扇子を軽く閉じる。


「こちらですわ」


伯爵夫人に促され、私は慌てて後に続いた。


歩き出してすぐ、気づく。


入口から、ずいぶん離れていく。これでは、帰ると言い出しにくい。


会場の奥へ進むにつれ、周囲の視線がはっきりと集まってくる。


そんなに、このドレス……変?


胸元を無意識に押さえる。


形式としては、間違っていないはずなのに。歩き方が、ぎこちないから?


背筋を伸ばし、歩幅を意識する。なるべくゆったりと歩いてみる。


それでも、視線は消えなかった。


そんなことを気にしているうちに、ふと気づく。


伯爵夫人の姿が、見当たらない。


えっ、嘘!?


振り返ると、夫人は途中で別の客に声をかけられ、その輪の中へ自然に溶け込んでいた。


……置いていかれた。


しかも、会場の真ん中に。


「ど、どうすれば……」


そうだ。


飲み物を手に取れば、場に馴染んでいるように見えるかもしれない。


近くを通りかかった給仕から、グラスを受け取る。


ひんやりとしたグラスを両手で持ち、口をつけようとした、そのときだった。


どんっ。


「――あら、ごめんなさい」


肩がぶつかり、思わず身体が傾いた。


「あ……」


慌てて顔を上げる。


目の前には、年の近そうな令嬢が立っていた。


艶やかな栗色の髪を高く結い上げ、真珠の髪飾りを差している。


深紅のドレスは身体の線にぴたりと沿い、腰から裾へ優雅に広がっていた。


――似合っている。


最初に浮かんだのは、その感想だった。


令嬢は私を見て、ほんの一瞬だけ目を細める。


「……」


そしてそのまま、何事もなかったかのように視線を外し、別の客のもとへ歩いていった。


今のは、一体……。


「……あ」


残されたのは、グラスの中身がこぼれ、淡い染みのできたドレスを着た私だけだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
 ヴァルクレイン伯爵夫人、確信犯なんですかね? 初の社交界で不安増大なエリナの気力が、飲み物一滴分すら残らなくなりそうな状況ですね。ドキドキします。
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