第5話
馬車が、がたんと揺れた。
クッションに身を預けたまま、私はぼんやりと瞬きをする。
……そういえば。
「夜会に出るの、初めて……?」
今さらのように気づいて、言葉を失った。
私、これが社交界デビュー?
膝の上に置いた手が、きゅっと強張る。視線が自然とドレスへ落ちた。
この、不似合いなドレスで。
「どうしよう……」
招待状が届いたときは、深く考えていなかった。
少し顔を出して、挨拶を済ませたら帰ればいい。それだけの話だと思っていた。
なのに、馬車が進むたび、不安だけが膨らんでいく。
窓の外には、暮れかけた畑や林が流れていた。遠くに点在する屋敷の明かりを眺めながら、思わず小さく呟く。
「……こんなことなら、社交礼法書でも買っておくべきだった……」
何か、心を落ち着けるものが欲しかった。
鞄から招待状を取り出し、もう一度目を通す。
「ええと……今日は、ヴァルクレイン伯爵家の夜会……」
名前には見覚えがある。
領地間の取引記録や、父宛てに届いた書簡の差出人として、何度も目にしていた。
……でも、実際に会うのは初めてだ。
「挨拶だけ済ませたら、帰ろう。具合が悪くなったって言えばいい」
それくらい、許されるはずだ。
――うん……そうよね?
そう自分に言い聞かせているうちに、馬車はゆっくりと速度を落とし始めた。
◆
馬車が止まり、扉が開いた。
御者の手を借りて外へ降りた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「……わ……」
目の前にそびえていたのは、うちの屋敷の倍はありそうな大邸宅だった。
白い石造りの壁にはいくつもの明かりが灯り、正面玄関へと続く階段の両側には、紋章の入った旗が並んでいる。
広い車寄せには招待客を乗せた馬車が次々と到着し、揃いの制服を着た従僕たちが扉を開けたり、客の名を確認したりと、忙しなく動き回っていた。
「ひえ……」
思わず漏れた声を、慌てて呑み込む。
すぐに一人の従僕が近づいてきた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「エ、エリナ・フォン・リュークハルトです」
「リュークハルト男爵家のエリナ様でございますね。どうぞ、こちらへ」
差し出された手にそっと触れ、階段を上がる。
玄関を抜けると、柔らかな絨毯が敷き詰められた廊下が続いていた。踏み込んでも足音がほとんどしない。
壁は眩しいほど白く、染み一つ見当たらなかった。
……うちとは全然違う。
案内役の従僕が、広間の前で足を止める。
「リュークハルト男爵家、エリナ・フォン・リュークハルト様」
名を告げる声とともに、大きな扉が開かれた。
私は恐る恐る、中へ足を踏み入れる。
天井から下がった巨大なシャンデリアが、無数の光を放っていた。
色とりどりのドレスをまとった令嬢や夫人たちが談笑し、その間を正装した紳士たちが行き交っている。
広間の中央では、楽団の奏でる優雅な音楽に合わせ、何組もの男女が踊っていた。
甘く濃い香水の匂いが、花や酒の香りと混ざり合っている。
――これが、夜会。
背中が、ぞわりとした。
「……帰りたい」
反射的に口からこぼれ、慌てて首を振る。
だめよ、エリナ。令嬢として、それは駄目。
私はドレスの裾をそっと整え、背筋を伸ばした。
逃げ腰のままでは、余計に目立ってしまう。
視線を彷徨わせると、ほどなく会場の中心に立つ男女が目に入った。
周囲の人々が、二人の前では自然と道を空けている。
――あの方々が、ヴァルクレイン伯爵夫妻。
伯爵は穏やかな微笑みを絶やさず、周囲の会話へ静かに耳を傾けている。
一方、隣に立つ夫人は背筋をぴんと伸ばし、華やかな笑みを浮かべながらも、どこか隙のない雰囲気をまとっていた。
……ああ、なるほど。
姉が渋ったのは、この方が相手だったからなのかもしれない。
「よし……行こう」
自分に言い聞かせ、一歩を踏み出す。
歩くたび、周囲の視線が刺さるような気がした。
怯みそうになる気持ちを押し殺し、私は伯爵夫妻の前で立ち止まった。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
声が震えないよう、意識して言う。
「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」
どきどきしながら、相手の反応を待つ。
先に反応したのは、伯爵夫人だった。
上から下まで、一瞬ですべてを見られた気がした。
「あら、あなた……」
マルグリット・ヴァルクレイン伯爵夫人は、ふっと首を傾げる。
「お姉様は?」
胸が、きゅっと詰まった。
「本日は家の都合で姉が出られず……私が代理で参りました」
そう答えると、夫人は一瞬だけ黙った。
「そうなの……」
にこりと微笑んではいるけれど、先ほどよりも、ほんの少しだけ声の温度が下がった気がした。
「まあ、いいわ。せっかくいらしたのですもの。こちらへいらっしゃい」
夫人は扇子を軽く閉じる。
「こちらですわ」
伯爵夫人に促され、私は慌てて後に続いた。
歩き出してすぐ、気づく。
入口から、ずいぶん離れていく。これでは、帰ると言い出しにくい。
会場の奥へ進むにつれ、周囲の視線がはっきりと集まってくる。
そんなに、このドレス……変?
胸元を無意識に押さえる。
形式としては、間違っていないはずなのに。歩き方が、ぎこちないから?
背筋を伸ばし、歩幅を意識する。なるべくゆったりと歩いてみる。
それでも、視線は消えなかった。
そんなことを気にしているうちに、ふと気づく。
伯爵夫人の姿が、見当たらない。
えっ、嘘!?
振り返ると、夫人は途中で別の客に声をかけられ、その輪の中へ自然に溶け込んでいた。
……置いていかれた。
しかも、会場の真ん中に。
「ど、どうすれば……」
そうだ。
飲み物を手に取れば、場に馴染んでいるように見えるかもしれない。
近くを通りかかった給仕から、グラスを受け取る。
ひんやりとしたグラスを両手で持ち、口をつけようとした、そのときだった。
どんっ。
「――あら、ごめんなさい」
肩がぶつかり、思わず身体が傾いた。
「あ……」
慌てて顔を上げる。
目の前には、年の近そうな令嬢が立っていた。
艶やかな栗色の髪を高く結い上げ、真珠の髪飾りを差している。
深紅のドレスは身体の線にぴたりと沿い、腰から裾へ優雅に広がっていた。
――似合っている。
最初に浮かんだのは、その感想だった。
令嬢は私を見て、ほんの一瞬だけ目を細める。
「……」
そしてそのまま、何事もなかったかのように視線を外し、別の客のもとへ歩いていった。
今のは、一体……。
「……あ」
残されたのは、グラスの中身がこぼれ、淡い染みのできたドレスを着た私だけだった。
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